優しき挑戦者(国内篇)
(58)鹿児島発、ITを道具に、医療革命進行中(*^^*)

桜島が爆発的噴火を起こした2009年の初春、医療の世界でも、それにおとらぬ「爆発」が鹿児島で起こりました。
全国から900人の医師、ナース、歯科医師、歯科衛生士、栄養士、薬剤師、ケアスタッフたちが鹿児島に集まり「多職種連携」をキーワードに熱気が渦巻いたのです。
第11回日本在宅医学会大会です。
大会長が、クリニックの1医師だったことも前代未聞でした。

◆3種の神器と移動オフィスと◆

熱気の源をつきとめようと、大会長をつとめた中野一司さんと、朝から晩まで過ごしてみました。
朝の8時半、ナカノ在宅医療クリニックと訪問看護ステーション合同のカンファレンスが始まります。医師、ナース、理学療法士、事務職、総勢20人ほどが右の写真のようにパソコンを開きます。
患者さんごとにつくられている電子カルテで情報を共有しながら、病状の確認や診療方針、きょうの訪問計画について、活発に意見が飛び交います。

30分のミーティングが終わると、中野さんはクリニックに戻って訪問診療の準備です。左の写真が、クリニック。外来診療をしないので、ごくごく普通の家のつくりで、街のなかに溶け込んでいます。

医師とナースに運転手さんが加わって3人が1チーム。毎日、2チームがそれぞれ10〜15軒の自宅を訪ねます。
「運転手さんつき」というと贅沢のようですが、移動中に、インターネットでデータを事務職に送ったり、携帯で連絡をとったり……ここは「移動オフィス」なのです。
年金暮らしの運転手さん(右の写真)は、いいました。
「給料もろて、人の役にたてて、こげん、うれしかことはなか」。
プロですから抜け道に精通しています。車の中で待機してくれるので、駐車違反でつかまる心配もありません。

◆誕生日の花束と笑顔の写真と◆

ナースが途中で車を降り、花束をもって戻ってきました。きょう誕生日を迎える患者さんにプレゼントにするために予約していたのだそうです。

左の写真は、2000年3月以来診療していた認知症の女性です。
大腸癌が進み2008年1月、82歳のとき腸閉塞を起こしました。入院して人工肛門をつける手術をしました。3月退院。
中野さんたちは、ただちに、痛みや辛さを和らげる緩和治療を開始しました。そして、ひとり暮らしのこの女性を、ケアスタッフとともに支え続けました。
5月29日の誕生日には、写真のように、花束をプレゼント。左が中野さん、右は鹿児島大学医学部6年の実習生。中野さんは鹿児島大学医学部の臨床教授でもあるのです。
老婦人は、専門医の予想をはるかに超えて穏やかに生き、12月29日、自宅でやすらかに息をひきとりました。

誕生日祝いの花束を受け取った笑顔の写真は、しばしば、遺影として祭壇に飾られることになるのだそうです。
思い出のアルバムをめくりながらのお喋りは訪問診療の大事なひとときです。

◆事務職と連携して、賢く働く◆

さて、訪問診療風景に戻ります。
中野さん、床に座って、患者さん、家族と和やかに話し込みます。右の写真は、パソコンに電子カルテを呼び出して、左端の家族に説明しているところです。
そのあいだにナースは体温、血圧、脈拍を計って中野さんに伝えます。それをパソコンに打ち込み、クリニックで待機している事務職に電子メールで送信します。
他の医療機関への紹介状や処方箋も、メールと携帯であっというまにやってのけてしまいます。

訪問診療を終えてクリニックに戻る4時ごろには、電子カルテへの書き込みも書類も事務職が仕上げてくれています。それを確認して、きょうの仕事は終わり。
いい診療をすると「医師はヘトヘト、経営は赤字」という常識を、しっかり破ってしまっています。
中野さんのモットーは、

・抱え込まない。
・働きすぎない。
・賢く働こう。
・楽(ラク)するために、知恵を出そう。
なのです。

◆実践に制度が追いついて……◆

型破りな中野さんの前身は、病院ITのカリスマです。
鹿児島大学付属病院の検査部で3つのシステムを立ち上げました。でも、それではもの足りませんでした。
「病院を出て、在宅医療・介護の現場に、ITを活用したシステムをつくりあげたい」と夢を抱きました。1999年9月、志を同じくするナースと事務長、3人で訪問診療専門のクリニックを立ち上げました。

名人芸ではなく、どこでもだれでもできるシステムをつくるのが夢ですから、地域に大勢の仲間をつくってゆきました。
左の写真は、患者さんの家で、ご本人や家族と一緒に、さまざまな職種が智恵を出し合うケアカンフアレンスの風景です。
地域のケアマネジャーや福祉用具の専門家も加わっています。中野さん自身は、この写真を撮影中なので、写真の中にはいないのですが。

私が同行した訪問先のうちの何軒かにはケアマネジャーも待っていて、今後の方針の相談に加わりました。
その1人の言葉が印象的でした。
「こん方は種子島出身じゃっで、ヘルパーさんは種子島出身の方を頼もうかと思うちょっとです。鹿児島弁じゃっと、気持っが伝わらんでなー。」

お国言葉を大切にする配慮と最先端のIT技術が見事に調和していました。
中野さんたちがこの10年間にかかわった患者さんは、グラフのように578人。
そのうち149人を自宅で看取りました。

そしてこのような在宅医療のやり方は「在宅療養支援診療所」として2006年には国の制度になりました。
ボランティア精神がつながると社会が変わるという法則通りです。

大阪ボランティア協会の機関誌『Volo(ウォロ)』2009年4月号より)

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