優しき挑戦者(阪大・ゲスト篇)

「大阪の障害運動をリードした 楠敏雄さん」2002.5.15(午前)
全国障害者開放運動連絡会議 楠 敏雄さん

記録と編集:山本雅子さん+小南佳子さん

レジュメ

― 始めの言葉 ―

ゆき:  今日お越しくださったのは楠敏雄さんです。全障連、全国障害者開放運動連絡会議それのトップにおられます。他にも色んな肩書きがおありなので、ご本人からおいおいお話していただくことにします。送っていただいたレジュメを見て、皆さんには難しすぎると思いましたので、もう少し初歩的なところから話していただくようにお願いしております。
 さきほどうかがいましたら、お子さんが3人いらっしゃいます。奥様は、知的なハンディを持ってらっしゃる方達が、自分の意見を堂々と言いながら生き生き暮らす挑戦で有名な「クリエイティブハウス・パンジー」のリーダーをされています。
 では、マイクをお渡しします。

― 自己紹介:盲目ということ ―

楠:  おはようございます。紹介していただきました楠といいます。私は見ていただいて分かるように両方の目がまったく見えない、全盲です。2歳の時に結膜炎という病気になりまして、皆プールでちょっと目にばい菌が入って目が赤くなる、ああいう程度の病気ですから、今なら眼科1回行けば簡単に治ってしまう程度の病気なんですけれども、私の場合にはたまたま診てもらったお医者さんが治療のミスをしてしまって、気が付いたときには手遅れということで、もうそれから50数年間ずっと目の見えない世界で暮らしてきました。

 まあ皆さん、目が見える人がほとんどですよね。で、目が見えない世界っていうのはどんな状態なんだろうかとなかなか理解できない、しにくいと思います。たとえば皆、目の見えない人は夢を見るのかどうかと、目の見えない人の夢とはどんな夢なんだろうと、想像つく、皆大体目の見えない人の夢ってのはどんな感じなのかな。
 で、もちろん私も夢は見るんですけども、私の夢には映像がないんですね。だから音しか聞こえない。まあいわば皆でいうとラジオみたいなもんですね。だから私は正確に言うと夢を聞くとか、夢を感じるとかいうのが適当なんだね。見えない夢なんです。ただ私は2歳で失明しましたけど、これがもっと大きくなって記憶がはっきりする、まあたとえば10歳とかね、そのくらいで失明した人の夢は見えるそうです。夢の中ではちゃんと見えたときの映像が残ってて夢の中では出てくるんですね。私のように、もう小さい時に失明して見えた時の記憶がないわけですから、夢も見えないということですね。で、まあ色々なことを私も想像しますけれど、一番私の想像の範囲を越えているのは写真ですね。写真というのはどういう風に写っているのだろう。私の体と同じ大きさの等身大の写真に写ってるというのはなんとなく想像つきますけれども、3センチ4センチの小さな写真に大きな人間がどうやって写るんだろうか。これが想像できないんですね。だからこの立体感感覚というのですかね、それが理解できないので写真というものが分からない。そういうことですね。

― 幼少時代:障害者と健常者の違いへの気づき ―

楠:  で、私は自分が目が見えない存在だということを知らずに育ってきた。親にもそういうことをも宣告されませんでしたからね。で、3歳か4歳になって近所の子ども達を遊ぼうと思って出て行くとみんなから、からかわれるんですね。「変な目してんな」。まあ昔の子どもていうのは非常に露骨ですからね。「白目だ白目だ、目あいてみ」。で、目、私がこう開けると「わ―白目だ、気持ち悪い」とか言ってからかうんですね。まあそれで初めて、自分の目が他の人達と違う目をしてるんだ。で、腹が立っておいかけると皆さーっと逃げてしまいますね。たまにどじな子がいてつかまえることができるんですけれども、まあ大抵は皆逃げられてしまう。そうすると今度は、ああ自分は他の子達と一緒に鬼ごっこをしたり、走り回ったりすることがやっぱり上手くできないんだ、ということに気づくんですね。その辺りからいわば健常者と障害者の違い、そしてそれが差別につながる、からかいにつながることを子供心に知らされてショックを受けたんですね。

 これが私の障害に対するいわば付き合いの出会いの最初だったわけですね。でもやっぱり遊びたいですね。家の周り、近所の子ども達の楽しそうな声が聞こえてくるとやっぱり遊びたくなる。で、出て行くとそこでまたからかわれるということも何度か繰り返しましたけれども、そのうち最初からかっていた子ども達が側へ来て「おまえなんで目が見えなくなったんだ」って話し掛けてきてくれたり、で「鬼ごっこしようか」って、「一緒に手つないで走ってやるわ」って言って関わってくれるようになる。で、友達ができるんですね。そのうち、山へ行こうって行って一緒に山へ行ってとんぼ採りをしたり、木登りしたりですね、まあ今ではなかなか考えられないことですが、当時は視覚障害者に対する配慮なんてのはもちろんなかったんですけれども、仲間の支えの中で色んなことができた、色んな遊びができた。そういう意味では非常に楽しい、くやしいこともたくさんあったけれども楽しいこともたくさんあった子供時代ですね。

― 希望を育てた盲学校時代 ―

楠:  ところが、学校へ行く時期になって皆が1年生になってその時に初めて自分は行けないんですね。なぜか知らないけれども自分は学校に行けないということに気づかされたんですね。で、1年間家の中でぼーっとラジオ聞いてるとか妹と遊んでいるとかいう生活で、妹のままごとの邪魔をしたりですね、で、親に怒られたりしながら、過ごしてましたけども。で、翌年、おまえも学校に行けるぞと言われて行ったのが盲学校ですね。For The Blind、目の見えない人のための学校ですね。そういう所です。で、私の生まれは北海道ですからね、盲学校って言ってもですね、家から遠いんです。3時間近くかかる。で、毎日通学するなんてことはできない。そこで、寮に入る、寄宿舎ですね。親や兄弟から離れて寄宿舎で生活をする。こういう学校生活でしたね。まあこれをずっと小学校6年、中学校3年、それから次は高校、これが3年。それからもうちょっと上にも専攻科ってのがあって、これも2年。14年ずっと盲学校で暮らしてた。

 で、まあ小・中は小樽。まあけっこう有名ですけどね観光で。小樽の盲学校に。それから高校になると今度は北海道にひとつしかありませんので、札幌に皆集まるんですね。札幌の盲学校。ここではあんま、針灸、肩もんだりね、これの勉強です。これは皆で言うと高校の商業科みたいなものですね。だから一応、英語や数学もやるけれども、もうそれは週に2時間とかそんなもんで、この職業コースが中心になる。そこでも一日2時間ずつとかあんま、マッサージの実技とか勉強をさせられて、もううんざりしてたんですね、正直なところ。自分がやりたいんだったら、納得して行くんだったら、それはまあ頑張ろうという気になるけど、自分がやる気もないのに、もう目が見えない人は皆もう針灸しかないんだということを義務付けられるようなものですよね。で、私は英語が好きだったんで、もっと英語がしたいと思っても、英語の時間に先生が来てくれないの。で、遅れて来て、早く終わって帰る。で、先生もっと勉強させて下さいと言うと、どうせあんまに英語や数学はいらないだろという冗談を平気で言ってですね、一切手抜きをするわけですね。そんな学校や教師に非常に不信感を抱いたんですね。

 なんとかこの盲学校という世界を飛び出したい、そういう思いを強く抱くようになりました。で、まあ私は北海道からこの大阪へ一人で出てきまして、大阪の学校、たまたま親戚があったので、大阪の盲学校で針の勉強もあと2年しながら大学受験を目指したんですね。で、まあ当時一般の大学っていうのは視覚障害者には受験すら認めなかったんですね。もちろんこの大阪大学もそうですし、京大もそうですし、どこも認めない。で、全国で当時視覚障害者の受験を認めていたのは5つですね。京都では同志社と関学、西宮のね。あと東京の明治学院と早稲田大学の2部と、東京教育大学、今の筑波ですね。この5つの大学しか視覚障害者への門戸を開いてなかった。で、まあ私も同志社を受けたんですけれども、これは1年目は通らなくて、1年間浪人をしました。浪人っていっても予備校なんてありませんですからね、学校、盲学校に行って勉強したり色々しながら1年間過ごして、翌年京都の龍谷大学という所、これも最初は願書を返されたんですね。うちの大学では視覚障害者のための条件は何も無いし、自信も無いので無理ですと言って願書を返されたんですけど、無理やりまた持って行って、とにかく受験させてくれと頼み込んで、まあじゃあ一回受験だけは考えようってことで、まあ盲学校から先生が来て受験問題を点訳する。だから皆よりも1時間程、受験時間が遅く始まるんですね。今は時間延長があるんですけど、当時はそんなの全くないんですね。ということで色々不利な条件でしたけど、なんとか受けることができて、合格できました。ということで龍谷大学の英文学部に入ったわけです。

ゆき:  めでたくお入りになったところで、どうぞ、お座りください。

― 自ら道を切り開いた大学時代 ―

楠:  ちょっと、あの体力がだんだん衰えてきたので座らせてもらいます。まあ、そういうことで大学を、まあ全く大学に通う条件を言い渡されまして、視覚障害者に対する協力とか配慮とかそういうことは一切しないと。まあその頃大学が言うには障害者に対しても平等に扱いますよ。これを聞くと非常に「ああ、平等に扱ってくれて嬉しいなあ」と思うんですけど、実は何もしませんと、何もしない、一切しません、それでよければ入学してくださいという事前に、面接の時にそれを言い渡されてですね、まあ印鑑を押すまではしませんでしたけど、とにかく確約書を書かされて、何もしないという条件で入った。

 もちろん当時はサークルも何もないですから、自分で協力してくれる人を探さなくちゃいけない。ボランティアをですね、探さなきゃいけない。で、どうしたかというとですね、あのまあ色々お話すると何時間もかかるんですが。まずですね、学生課に駆け込んでですね、それで同じ学年で私の生まれた北海道から来た学生がいないか調べてもらった。で、二人いたんですね。それを呼び出してもらってですね、で、その学生、2人いたけど1人は来なかったんですね。で、やっと待っているうちに1人が来でくれたんです。で、「実は僕は目が見えない。誰も知り合いもいない。ぜひ協力してほしい」で、「何したらいいんですか」って、で、まず下宿探しをして一緒に住んでくれませんか、というあつかましい要求、要望をしてですね、でもそしたらまあ下宿はもう見つけてるんだけどもそこのおばちゃんがうるさいので、自分も変わりたいと思ってるということをたまたま言っていて、じゃあ一緒に探そうかと、言ってまず下宿探しをしてくれた。で、勉強も手伝ってもらおうと思ったんですけど、これはもう彼はいわゆる麻雀学生でね、あんまり授業に出たくないと言うんですよね。だから時々は行くけども、あんまり君に一緒について勉強するっていうのは自分の苦手な領域なんでそれは困ると言って断られたんですね。で仕方なしに今度は授業中に私はたまたまそこにいた学生をつかまえて、「君、点字ってのには興味ないか、面白いぞ」とだましてですね、まあ一回覚えてみようかと言ってくれて、それを私の下宿に連れ込んで、まあ男性ですけどね、点字を教えて、で、点字のサークルを作ろうやと言ってですね、彼と一緒にチラシを作ってもらってビラをまいて、10人くらい集まったんですね。で、そこで点訳サークルを、ま、当時は盲人問題研究会という名前でスタートさせた。まあそれでやっと自分の仲間を見つけて大学生活をスタートさせたんですね。

 ところがこの点字を覚えた学生がですね、よく間違うんですね、点字を。一番困るのは英語とかドイツ語のつづりを間違って打たれるんでね。そうすると例えばFとDを間違えたりするとね、辞書引いても出てこないんです、単語がね。一晩かかってね、辞書探し…単語探しをしたりですね、それからテキスト、点字っていうのは手で打ちますから大変時間がかかるんですね。で、やっと1ページのテキストを点字に直してですね、授業へ参加するんですけども、あっという間に1ページなんか過ぎてしまって、もう足りなくなるんですよ。それでその日「読んでみい」と言うとね、「いやあ、これまだテキストできてないんですよ」と言って、「そんなことで、もっとちゃんと勉強しなあかんなあ」と怒られたりしましたけれども。ともかくそういう風にテキスト作りにものすごく時間がかかって苦労した。それでも最初はとにかく健常者、まあ当時はメラキ、私はメラキに負けたくないという思いで必死なって勉強してですね、なんとかついていった。

― 大学院修士、そして教師へ ―

楠:  まあ、ゆうことで学生生活を送ったわけです。このへんの話はまだたくさんあるんですけども、一応時間が限られてますので、まあそれで大学を卒業して、英語の先生になるっていうのが夢だったんで、大阪府の教育委員会に行ったんですね。で、教員の採用試験を受けさせてくれと言ったら、「無理です。点字受験ってのはやってません」。たとえやっても受け入れてくれる学校はないから受けさすわけにはいきませんということで断られてしまった。で、仕方なく大学院にチャレンジして大学院の修士で2年間勉強したんですけども、その途中で天王寺高校の講師をしてみないかと。これは当時は視覚障害で一般の高校で教師をするっていうのは例がなかったんですね。全国ではじめてということでだいぶ文部省にも足を運んだり、教育委員会にも打ち合わせしたりですね、とにかく初めてのケースでやってみようということで、教壇に立ったのは1973年でしたね。

 天王寺高校の夜間の講師としてとりあえず教壇に立って、13年間なんだかんだ言いながら講師を続けて、その後現在は大阪府総合福祉協会という所、まあ福祉法人ですけども、ここの職員になることができて、やっとまともなボーナスをもらえた。最初、50万くらいの札束もらった時はびっくりしました。それまでずっと講師でボーナスはもち代1万円とかね、そういう世界だったわけですからね、感激しましたけれども。まあそういうことで現在は福祉関係の仕事で障害を持った人達の色々、生活や仕事や、そういう相談、人権の相談、それからヘルパーさんとか介護福祉士とかそういう人達の練習のための講師。まあ、あとは雑誌に原稿書いたり、そういう仕事を色んな仕事をしている、というのが私の簡単な経歴ということになります。

― 日本の障害者の概要 ―

楠:  ま、そこで、こういう話していても面白いんですけども、少し難しい話もしないと皆さんもせっかく勉強に来てるわけですから、私の思い出話につきあうのもあれですから、もうちょっと専門的な話に入りたいと思うんですけども。

 まず他の先生のお話とだぶるかもしれませんけども、そもそも障害者って一体なんなのだろういうことを考えてみたいと思うんですけども、今障害者の人口がどれくらいいるのか。この前厚生省から5年に一回実態調査ってのをしてるんですよね、で、97年の調査がずっと続いてたんですけども、去年やっと調査して今年発表されました。それでいきますと、身体障害者の数が全部で324万5000人。これが一番新しい調査の数字ですね。身体障害者が、これ在宅の部分ですね、在宅の身体障害者が324万5000人。まあ推計の域を出ませんけれども一応それだけ言っておきます。それから施設で入所している身体障害者が14万5000人ですね。だから身体障害者は在宅と施設合わせて、340万くらいですか。これが身体障害。

 この身体障害の中には目が見えない、とこれがまあ大体30万人くらい。それから耳の聞こえない人、聴覚障害の人が35万人くらいですね。それから肢体障害、手足などが不自由な人ですね、これが171万人くらい。それから内部障害、心臓疾患とか人工透析とかですね、それから肝障害とかそれから人工肛門とかですね、そういう慢性の内部疾患、内部障害っていうのが大体85万人。この数字が一番増えている、増加率が高いんですけれども、まあこういうのが身体障害ですね。これがまあ大体340万人くらい。それから知的障害。この人達にも、数字がもっとアバウトなんですけれども、大体45万くらいですね。45万…。これも在宅が30数万で、施設入所が11万人くらいと言われてますよね。これでまあ45万。

 それからこれにもうひとつ、非常に多いのが精神障害。さっきの知的障害というのはまあ英語で言うとMental Disability、あるいはMental Developmental Disabilityですね。知的発達障害という風に訳されていますよね。それに対して精神障害というのはMental Illness、精神病ですね。で、これには最近名前を変えることになりましたけれども、いわゆる精神分裂病。もう少しややこしい名前を…(聞き取り不能)…。それからいわゆる躁鬱病。それからもう神経症ですね。こういう人達を精神障害者というのですけども、この人達の数、これも全然正確な把握ができないんですね。でも一応言われているのが218万という数字が出ている。で、一番はっきりしているのが、病院、精神病院に入院している人達ですね、これも大体ベッド数でカウントすると、これが36万…36万少々と言われてますよね。で、その他に神経内科とか色々通院している人達、これが大体100万。その他、色んな精神症状を持っていると思われる人が218万、全部合わせて。と言ってるんですけども。根拠示せと言ってもあまり根拠を持っていないんですね。ただ確実に増加しているということだけは間違いない。

― 増える中途障害 ―

楠:  で、さっき言いましたように身体障害の場合はですね、特にこのカンの特徴として脳血管の障害、つまり脳が、脳の血管が切れる。そういうことによる肢体不自由が非常に増えている。それから糖尿病ですね。これもこじらすとですね、色んなとこに慢性的な障害が出るということなんですね。糖尿病で失明する人も最近非常に増えてる。皆も、まあ皆はあんまり糖尿病には関係ないわけだろうけど、皆のお母さん、お父さんね、飲みすぎたり、栄養のバランス崩すとね糖尿病に…。大体血糖値400を越えるとですね、もう非常に障害者に限りなく近づくと言われてるくらいですね。この糖尿病で障害者になる人達が大体年間で10万人いてるんじゃないかと言われてるくらい、糖尿病は非常に増えている。

それから、まあ腎臓ですね。慢性腎炎になると、腎臓っていうのは今薬がない、治療法がないんですね。だから腎臓の機能が低下すると、機械につないで血液をいったん取り出して機械でろ過してそれをまた戻してる、これをやんなきゃいけない。実は私も8年くらい前からこの慢性腎炎をやってですね、もうきちんと安静にしとけば良かったんですけども、高をくくってですね、騒ぎまわってたらついに人工透析でかつぎこまれてしまったと言うことで、今は週3回1回4時間づつ機械につながれて血液を総入れ替えしてですね、まあおかげで血液交換の度に心も入れ替えて美しい心になってますが。そういうことで、週3回っていうのはかなり時間と体力を要して大変なんです。まああの真面目な透析患者というのはですね、水分制限したり色々、栄養もチェックしてですね、バナナと食べるとカリウムが増えるとか生野菜をちゃんと茹でて食べるとか色々言われてますけども、私はそういうのも無視して酒も飲み、美味しいものも食べ、まあ量はある程度コントロールしてますけどもね、とにかく体力はつけたいということでむしろなんとかそれでもってるということなんですけども。

この透析の人もですね、今全国で20万。で、毎月、いえ毎年1万人づつ透析の人も増えてきている。これ余計な話ですけどね、アメリカなんか行きますとね、もちろんアメリカ行っても透析はしなきゃならないですからね。すると保険がきかないの。そうすると1回透析受けたら3万円する。で、3回透析受けるとそれだけで10万飛んでしまう、というくらいやっぱり透析は金がかかるもんですよね。なかなか大変なものですけども。ま、そういう透析も増えてきている。

― 障害の受容:障害と上手く付き合う ―

楠:  ということで、その中途で障害者になる人の人口っていうのが急増してるわけでね。当然、これは皆さんも想像するでしょうけども歳をとったら色んなところに障害が生じる。これはまあ否が応でも。まあ、たまにあのNHKで90歳100歳なんて元気いっぱい農作業してる人います。それはそれですばらしいことですけども、まあその人は例外ですよね。コンピューターでも故障するんですからね。人間だって劣ってくるの当たり前ですね。まあよく最近、まあ由紀子先生得意な範囲ですけども、老いとうまく付き合うとかね、そういうことがよく言われてますけども。だから、老いてきたら体のどっかにやっぱり不完全、衰えが出てくる。それでそれとも上手く付き合えないとね、中途障害になった人が一番難しいのがそのメンタルな部分のですね、ケア。

つまり老いを受容するとともに障害を受容する、衰えを上手く受容しながら付き合っていくんですね。まして急にがたんと視力が落ちてきたとか、急に手足が動けなくなってきたとか、こうなると私はこんな体になってしまった、もう駄目だと言って外へ出ない。家に閉じこもっている。こういう人が多いんですね。こうした人を外へ連れ出したり、色んな刺激を与えて上手く楽しく老いと付き合ってもらう、また障害と付き合ってもらう。よく言われる障害の受容。こういうことが今最大の課題になっている。それくらい中途障害者のケアは大きな課題。

― 把握されにくい知的障害 ―

楠:  それからもうひとつ。知的障害についても実は45万というのはですね、ほんの一部に過ぎないんですね。知的障害の場合は見て分かるわけではないんですね。だから重度の人でしたら、大体把握できますね。知的障害の場合には3つのランクに一応分かれてて、AとB1とB2と。Aが重度でB1が中度でB2が軽度という風なランク付けをされている。まあ何が重度か、何が中度か軽度かこれも非常に問題でね、見直しを迫られてるんですけども、まあ一応言われています。で、まあ重度の人は大変な困難がありますから把握できますけども、中軽度の人というのは、一見普通の生活をしてるには分からない、分かりにくいと言われていますよね。だから福祉事務所はなんかは充分には把握していない。

 例えば最近、特に問題になっているのがLD、Learning Disability、学習障害なんて訳されてますよね。これも問題になってきたのは最近なんですけども、実はその前からあったんですね。まあ普段の生活にはそれほど支障はないんだけども、算数とか語学とか漢字とか、こうなると覚えられない。勉強が好きじゃないってのは、まあ皆さんもそうかもしれないけども、やろうと思っても覚えられない。私が教えてた定時制でもですね、毎回きちんと授業にも出てきてるし、一所懸命ノートもとってるんですけども、試験になると全然できないんですね。BoyとかCatとかHeとかSheとか書けない生徒が2人か3人いましたね、1クラスに。やっぱりこれも今から思うといわゆるLDなんでしょうね。そういう人達は知的障害の範疇には入らないということで申請もされていない。しかし実際に就職とかですね、進学とかになるとやっぱり壁にぶつかる。こういう風な人達っていうのはけっこう多くいます。

 それから今も問題になっているのは、引きこもりですね。外へ出られない。最初は面倒くさいとか失恋のショックとかですね、いわゆるそういう痛手が一つの引き金になることもありますけども、ともかく段々理由なしに外へ出るのが億劫になる、人と会話するのがしんどくなるそういう人達が今大体、全国で60万人いると言われてますよね。こういう人達の問題って一体どういう形で把握し、取り組まれるのか。

― 遅れている精神障害問題への対処 ―

楠:  その他にさっき言った精神障害、Mental Illnessの部分で、鬱病が増えている。
 中高年の中でうつ病が増えててこっそりと神経内科へ行ってるんですね。そういう人が増えてる。風邪をひいたとかならね、皆風邪ひくでしょう、風邪ひいたとか虫歯になったとかならこれはちょっと病院に行ってくると言って行けるんですよね。ところが同じように精神的にちょっと気が重いとかしんどい、その時にちょっと内科行ってくる、精神科行ってくるとは言えない。ここに一番の問題がある。本当は誰でも風邪をひく可能性がある。ちょっと腹出して寝たりね、色々すると風邪をひく。それと同じ様に誰でも精神的な鬱の状態になる可能性があるわけです。ストレスたまったり、大きなショックに会う、人間関係がうまくいかない…。当然、しんどくなりますよね。まあ、最近の若者は失恋しても楽しく次の相手をすぐ見つけるそうですけども、私なんかは失恋したらもう、歩道橋から飛び降りようとかね、大騒ぎした文学青年でしたけどね。それは失恋ってのは大きい、最大のショックですよね。そういうそのことで、精神的なプレッシャーを感じる、大きなダメージを受けるっていう人はたくさんいるわけですよ。

 特別ないわゆる精神異常者がいるんじゃない。誰でもなりうる。誰でも、風邪をひくのと同じように、誰でも精神的な病気だってかかりうる。だからそんな時、誰でも気軽に病院行ったりカウンセリングを受けたりできたらいいんだけど、日本の社会はそれができない。だから1人でくよくよ悩む。閉じこもる。で、その結果、時として悲惨な事件もある。やっぱりある。これはありうるんです。行き場がない、どうしていいか分からない、そういうとこで自分で自分をコントロールできなくなるっていう例だってある。ところがそういう例が起きるとマスコミは、すぐに精神障害者が事件を起こした、こんな人を放っておいていいのか。こういうキャンペーンを貼って偏見を煽ってしまう。確かにそういう悲惨な事件ってのはないにこしたほうがいい、なくすようにしなきゃいけない。それはなにも精神障害と思われる人を片っ端から監禁して問題が解決するわけじゃないですね。あいつは事件を起こしそうだ。こんなことは予測つかないです、はっきり言ってね。だから本当はそういう精神的にしんどくなった人達が気軽に病院行ったりカウンセリングできたり、相談し合ったり、そういう体制を作ることが一番の予防、といえば予防になるんです。それをせずにですね、とにかくどこか施設作って、そこに閉じこめておけばいい、これがお上の発想ですね。まあそういうところに障害者の問題の非常に難しさがあることは事実です。いずれにせよ、こういう風に障害を考えると、障害というのは非常に幅広いですよね。

― 権利を持った国アメリカ・制限のかかる国日本 ―

楠:  で、いずれにせよこういう風に障害を考えると、障害とは非常に幅広いんですよね。で、日本のまあさっき言った数字を合計するとまあ大体日本の障害者人口ってのは600万人くらいになりますよね。ところが、アメリカの障害者の人口がどれくらいかと言いますとね、政府の発表として、これね、政府の発表でアメリカには4300万人もの障害者がいる。こう言われているんです。4300万人。つまり、大体18%が障害者。5人に1人に近い割合でアメリカには障害者がいると。日本の600万なんてのは、これ、論外ですよね。何でこんなに差があるの。同じ先進国といわれているのにですね、アメリカには4300万、日本には600万。こんな差があるはずがない。つまりこれは障害を認定する基準が日本とアメリカでは大きく違っているという事なんですね。

 それこそアメリカでは、この、顔面に痣があってね、結婚で不利益を受ける、そういう人も障害者なんですね。認定を受ける。申請をすればですね、受けられる。それから、胃潰瘍で胃の3分の1を取ってる、で、食事制限が必要だ、これも障害ということで受けられるんですね。アルコール中毒もですね。とにかく、社会的に生活労働、日常生活を送る上で困難と思ったそういう人が障害者という風にその、認定されるんですね。日本でいう、手帳とかそうゆう制度はありませんけれども、ともかく、あの、そういう。で、自分の不利益を立証すれば、必要な援助というものが受けられる。ま、こういうシステムになっていて、日本の法律は色んな制限がついていて、なかなか必要な援助が受けられない。

 例えば、ヘルパーっていますよね。当然これは援助を受けられるはずなんですけども、なかなか簡単に受けられない。まあ、介護保健というと、あの、介護認定、要介護認定というんですけどね、これでその、色んな援助が必要な人達もごく軽い認定しか受けられないとかね。で、最近は知的障害の人達にガイドヘルプというですね、外出をする時にそれを支援するという制度ができているんですけども、これなんかも色んな制限がついている。軽度の人は受けられないとかね。軽度って言ったって、ある程度コミュニケーションができても、何でも一人でうまくできるとは限らないんですね。だから、少しの援助があればもっと社会参加ができる。そういう人達がいるのに、日本はとにかく色んな制限つけてる。

 この知的障害の介護ヘルパーなんか特にですね、同じ大阪府下でも市町村によって全然違うんですね。例えばその、ここの近くの枚方市っていうのはですね、これは大阪府の先進地区ですね。先進チズ。だから、ここにゆくと、あの作業所も作りやすいとかね。知的障害の人達のガイドヘルプも非常に制限があんまりついてない。ところが、もっとこの近い高槻市。ここに来るとですね、知的障害のガイドヘルパーは、高槻市以外の所に行ってはいけないとかね。それから、さっきいったランクAの人しか使えないとか、色んな制限つけてる。高槻市と枚方市と隣り合ってるんですよ。ところが、枚方行ったら、自由に使えて、高槻市来ると、もう高槻市以外の人は外にでるな。こういう風に大阪府下でも市町村の格差は非常に大きいんですね。こんなことで、たまたま枚方市に生まれた人はまだ、生活しやすいけれども、うっかり間違えて高槻で生まれたら、生んでくれたらですね、それだけで非常に不自由というか、不利益なんですね。こういう事が大阪府下でも沢山あって、市町村格差が大きい。そういう状態をですね、まあ今、アメリカと日本と言いましたけども、アメリカと日本でも色んな格差があるという事なんですね。

― 障害者の定義 ―
楠:  で、この障害者をですね、もう少し正確な定義ってのをですね、今色々議論されているんですけども、1つは1975年の障害者の権利宣言、ここで障害者の定義ってのがされているんです。皆見たことあるかな。一応、他の先生も喋っているかもしれないけど、念のために紹介しておくけど、この障害者の権利宣言ですね、1975年の国連で採択されたんですけども、ここでの障害者の定義ってのは障害者とは、先天的か否かに関わらず、つまり生まれつきかどうかに関わらずですね。身体もしくは精神に能力の欠損があり、その為に通常の個人的ないしは社会的な生活を送ることが自分自身では完全に、もしくは部分的にできない人。日本の訳ってへたくそな人が訳す。私が訳したらもっとうまく訳せたもんですけども。(笑い)しかし、自信がないのであまり訳さないんですが。人の訳を利用してますけども、もう一度言いますけども、障害者とは、先天的か否かに関わらず、身体もしくは精神に欠損があり、その結果通常の社会的ないしは個人的な生活を満たす事が自分自身では完全にもしくは部分的にできない。これが障害者というんだ。こういう風に定義つけられているんですね。これもわかったか、わからないか曖昧な言葉ですけれどもね。一応正式な定義ってのはこの権利宣言なんです。

ゆき:  すみません。20分くらい質問の時間を取りたいので、後10分ぐらいなんで、大阪ではこういう風に我々が変えたっていうお話しをして下さい。お願いします。

― 楠さん達の活動〜当事者の意見を ―

楠:  そういう注文がつきましたのでですね。まあ、そういう障害者の定義があって、まあ最近ではこれはまた、WHOという所が障害者の定義を発表しまして、また感心のある方は勉強して下さい。ICIDHとかね、ICF、こういうその障害者の権利に対してより専門的な分析がされています。
 ところでさっきまあ、大阪の市町村の話しを少ししましたけれども、大阪ですね。私達が障害者の当事者運動の力で行政にきちんとした政策を作らせる。今まで、中央、国ではですね、お役人が勝手に障害者政策を作るんですね。で、それを障害者のですね、まあ言っちゃ悪いけども随分お年を取られた方がですね、あんまりしかも、障害者の色んな政策とか自立運動とかに感心がない、ね、どちらかと言うと昔話をよくするよいうな方がですね、あの、厚生省の出した提案に「うん、まあまあ、ええやろ。」ね、もうちょっとここをこうせいぐらい、そうゆう政策のパターンですね。

 例えば、典型的なのは48年障害者の政策を検討する委員会があって、その内障害を持つ当事者は4人いる。まあ家族も含めてですよ。中央の、その、協議会では障害保持者と関係者が4人しか入っていないんですね。こういうことで、当事者参加と言えるのか、私達はずっと問題にしてきました。
 大阪府にですね、色々見まして、大阪では38年の委員で14人で障害者とその家族を入れさせました。しかも、私達はその、障害者の政策の委員会の中に当事者部会というのを作ってですね、当事者の立場をきっちり反映させる、当事者の立場を抜きにして、いわゆる専門家と言われる学者とかですね、その、施設の、あの、経営者とか、そういう人達で決めてしまう、あるいは行政の担当省の、その人達が決めてで、障害者にこれでいきますよ。いいですね。と言って合意を取る、こうゆうやり方は逆転しているんだと。障害当事者がまず、こういう意見を述べる、それをもとに決めるべきだということ。91年に確立しました。

 その時にできたのが、「ふれあい大阪障害者計画」ふれあい大阪障害者計画というのをですね、作ったんです。その時にその、当事者参画というものをシステムとしてきっちり確立させたんですね。もう、私のようなうるさい障害者がですね何人も入って、で、行政にきっちり、これはおかしい。これはこうすべきではないのか。いうことを常に提起するんですね。だから、それまでは障害者は色んな要求をしてます。しかし、要求型だけでは不充分なんです。要求するとたとえば、100個要求した。その内、まあ10個はなんとか考えましょう。しかし、残りの90個はできません。お金がありません。これでお終いでしょ。そうじゃなしに、あれが大事なんだ。政策として、こうゆう制度を作っていく必要があるんじゃないのか、制度のこの部分をこんなふうに変える必要があるんじゃないのか。それはすぐにお金に繁栄されない部分はあるだろうけども、ともかく制度を変えていく、見直すんですね。そういう視点で政策参画、当事者参画というものを実現させていく。これが、一番の目標だったんですね。

 その事で具体的に変えさせたのは、まず、障害者のニーズってのは地域で自立した生活を送ることなんですね。今までは施設が障害者の生活の場だと。障害者のケアというのは家族がして、で家族がとことん世話できなくなったら、どっか山奥の施設へ。大阪で言うと金剛コロニーですね。金剛山のもとに非常に景色のいいとありますが、ここに来るには、ここから来るんでしたら、約2時間かかるんですね。そこに800人の障害者が住んでいるんですね。それ自身が不自然なんですね。自然はすばらしいけれども、やり方は不自然。そうでしょ。障害者だけがね、山奥で生活する。バスで40分も50分もでないと出て来れない。これ自身が不自然じゃないか。という事で、施設中心の施策から、地域での自立ができる。そっちの方へシフトを変えていく。こういう事をずっと私達は言いつづけている。その為に障害者用のヘルパー、精神障害者用のヘルパー、色んな新しい制度を作る。ということに着手しています。これは大阪府と一緒になって、私達がNPO、そういう市民の団体を作って、そこと、行政とを連携して作ろう。金がなくてもやれる事もあるということで作らせて頂いた。

 それから、街作り、ね。バリアフリーの街をどうやって作っていくのか、それも当事者自身が色々チェックして変えていく。例えば点字ブロックね。点字ブロック1つ取ってもね、確かに大阪では点字ブロックは8割5分ついてるのね。ところがですね、不備なんです。例えば、私大阪市大行ってますけども、杉本町の駅降りて、点字ブロックあって、安心して歩いていったらですね、まともに電柱におでこをぶつけて怪我したんですね。点字ブロックの上を伝っていったらちゃんと電柱にぶつかるようにつくってくれているんですね。こんな親切な、障害物競走の練習かと思うんですけどね。とにかく、怖いでしょ。あるブロックはブロックの上を伝っていくと車道のど真ん中に出てしまう。こんなブロックを作っているんですね。これじゃ何もならない。やっぱり、利用者の立場、利用者の視点で点検していないから、こうゆうことになるんですね。そういう、やっぱり利用者の視点に立った街作りが大事ですね。

 それから、教育も今では養護学校とか、盲学校とか建てて、障害者を行かせておけばよい。そこは、設備も整っているし、教員も多いしということだったけれども、じゃあ地元の学校に通いたい、健常者と一緒に勉強したいと思っても、そういう受け入れがない、来てもらっても困るという所さえある。こうゆう所でやっぱり、地域の学校で体勢を整えていく、ノウハウを揃えていく、障害を持った子も一緒に学べる教育を作る。これも今大きな課題になっています。
 もう1つは仕事ですね。健常者と障害者が一緒に仕事ができる。で、これも今までのですね、国の発想ってのが、障害者が一生懸命訓練して頑張って、能力をつけたら雇ってあげましょう、企業にも雇ってあげましょうという発想だった。つまり、訓練を受けなさい。こういう発想だったんですね。でも、訓練して、健常者並になれる障害者なんてほんのわずかしかいないんですね。

 大事なのは、むしろ、障害者と健常者が一緒に働けるように支援、システムを作る。これをまあ、ジョブコーチ、またはジョブサポートというんですね。そういうアシスタント、ね。私にもアシスタントがいて、今日も美しい女性がついて来てますけども、この方がいないとですね、私は、山のように送られてくる書類を、ほとんど普通の文字なんですね。これ今私が触っている点字ではない。すると、何が書かれてるかわからない。で、他の職員に全部読んでもらってのは、それは、他の職員も仕事があるから困難なんですね。そうすると、いくら私が頑張って、努力したところで、限界がある。その時にやっぱりアシスタント、支援者。それとも、もう少し積極的に、知的障害だったら、色んなコーチをしてくれる人ですね。こういうもの、こういう体制を整えない限り障害者雇用は進まないんですね。まあ、こういうような課題を大阪は、特に全国に先駆けて色々作って、で、取り組んでいます。

 しかも、それはやっぱり当事者自身の声、参画を前提にしながら、障害者と健常者が一緒に生きていける大阪府を作ろうと取り組んでいます。まだまだ不充分ですけども、これからもそういう視点で大阪を精神的な福祉の街にして、それを全国に波及させていきたいという事で取り組みをしているところです。一応まあ、これで私の基本的な提起を終わりますが、後質問の時間を。これくらいですか。

― 質問時間 ―

ゆき:  ものすごく正確に時間を守ってくださいました。どのゲストよりも正確です。どうぞ、ご遠慮なく……。

鈴木:  行政の問題点などについてわかりやすく説明して頂いて、ありがとうございます。先程、あの、アメリカと日本の障害者認定の数についておっしゃっておられたのですが、アメリカにおいて障害者の認定は、その、数の上で多いとのことでしたが、障害者の援助という面では行政の障害者に対する威厳は、アメリカと日本ではどの程度なのでしょうか。

楠:  はい。あの、これも私はアメリカの制度論を詳しく研究した訳ではなくてね、あの実際にどの程度の制度があるのかは詳しくないのですけど、典型的なのはね、自立生活支援というものを法的に決めているということね。だから、自立生活センター、CILまたはILといわれるですね、Indepent Livingの為のセンターが各州にですね、多い所では各地域にそういう自立へのセンターがあるんですね。それのセンターにはちゃんと州からきちんとした定期的なお金が出ている。ね。日本もやっと最近市町村生活事業というものが出てですね、一千万程、ちょっと助成が出るようになりましたが、これも非常に限定されている。この自立生活センターの支援制度というのがアメリカでは確立していて、そこを通せば色んな必要な支援が受けられるんですね。

 逆にそのセンターで、この障害者がどんな生活が必要なのか、どんな支援が必要なのかという事を色々当事者も入ったシステムの中で調べて、報告をして、それを州に上げて、そこできちんと援助されるというシステムですね。で、もっといいのは例えば、個別支援計画とかですね。これは教育でも、地域の学校で勉強すればよい。こういう支援がこの子には必要だという個別支援プログラムというのを作っている。それを、教育委員会に出して、で、その州の教育委員会から必要な援助をされる。こういうですね、個別支援プログラムというのがですね、あって、それを拠点、地域で作って、行政に提出して、援助してもらう。こういうシステムが確立しているんですね。日本はこれがないというのが、一番の弱点ですね。

 それから、もう1つはあの、法的にですね、まあアメリカって、非常に合理主義の国ですからね、やっぱり実際には、あの、それがここの障害者に対してきちんと保障されているというのは州によって全然違うんですね。ところが、アメリカで象徴的なのは裁判が起こせるんですね。例えばレストラン行って、車椅子用の設備がない、ね。階段に…(聞き取り不能)…。裁判起こせるんです。大体負けるわけです。つまり、アメリカにはADAという法律があるわけですね。それに基づいて裁判すると当然、設備を作ってない所、それに違反しているという事で負ける訳です。では、障害者を理由なしに雇用してないという所は、敗訴する。そしたら、何百万もお金を損害賠償しなければならないわけだね。そりゃ損害賠償するくらいなら、作っておいた方がいいという具合に企業の側も思うわけです。

 その、法律ってのはね、法律を作ったからってすぐに世の中が変わるわけじゃないけど、その法律を武器にして、やっぱり色んな制度を作らせていける、改善させていける。これがアメリカの非常に良い所なんですね。ところが日本は逆に法律が全然整備されていない。障害者の色んな制度ってのは恩納だ、恩恵的な発想でしかないんですね。だから、制度がなくてもそれは止むをえないという事で全部我慢を強いられている。ここがね、ちょっと劇的な違いだと思いますね。

ゆき:  はい、他にどうぞ。

竹端:  お話ありがとうございます。大学院で精神障害の方のための支援るついて勉強している竹端と申します。えっと、お話しを伺わせて頂いて、あの是非ともお聞きしたかったのは、先程お話しになったアメリカなんかでは、例えばあの、障害を持つ人達のアメリカ人法などできちんと守られているその背景には、その法律を作る段階で、障害を持つ当事者の方達がすごく、えっと、精神的に主張をしてこられて、制度を作る運動を起こしてこられたという話しを読んだ事があります。

 勿論、大阪でもそういう動きがあったという風にお聞きしているんですが、こと日本全体になると、えっと、私が不勉強なのかもしれないのですが、どうも障害を持つ方の全体のムーブメント、あるいは自己主張とかあるいはそれをどう政策に展開しているのかといった一致団結とか、そういったものが、あの、もうひとつアメリカと比べては遅れを取っているのか、あるいはどこか問題があるのかわからないのですが、何か進んでないような気がするのですが、えっと、その辺は何か、そのいわゆる、日本の障害当事者の中のという自己主張という何か政策提言に向けての所に、何かまた問題があるのか訓練が足りないのか、あるいは文化の差なのか、その辺についてはどのようにお考えでしょうか聞かせて頂ければと思います。

ゆき:  いまの質問に少し足して、その日本の中では大阪が、かなりいい線をいっているのはどういう訳なのかというのも合わせて。

楠:  あの、まず日本のですね、障害者運動は、当事者運動はアメリカに比べて非常に遅れているのは確かです。それは認めざるを得ないんですね。で、なぜかという事なんですけども、日本ではそれだけ社会的な差別が厳しいという事なんですね。アメリカはやっぱり、特に60年代の公民権運動というものがありますね。あの、いわゆるBlack Powerというですね。この人達の公民権の運動に触発された当事者運動というのがですね、60年代末から70年代にかけて、急速に高まったんですね。で、しかも、非常にうまくコロニー活動などをですね、つまり、障害者が議員をうまく使って、その、どんどんパワーアップしていくというスタイルができてきた。

 ところが、日本はですね、戦後、障害者福祉、身体障害者福祉法というのを作る過程でですね、主流になったのは傷痍軍人を、つまり戦争で被害に合った人達をね、その人達が主流になりますね。で、その人達はいわばお上…(聞き取り不能)…お役人と、その密接に繋がって、そのお役人の力でその、何と言うのかな、傷痍軍人の対策を実現していこう。しかも、彼等は自分達は、その傷痍軍人の人達ね、わし等は、あの、国の為に犠牲になったのだ。だから、援助されるのだ。そんな、生まれつきの障害者などと一緒にしてくれるな。こういう障害者同士の間にもう既に、分断が生じてたんですね。それをうまいこと、あの、官僚も使ってですね、できるだけ、軽度の人しか支援しないという法制度にしてしまったんですね。

 それが、まあ60年代になって、やっと親の会なんかが高まってきて、で今度は施設を作って、その重度の人達は施設へ集めようという、その収容政策をしてきたのね。まあこういうことで、日本の障害者政策は非常に遅れてきた。で、しかも当事者団体がですね、そういう保守系の団体と、で、まあ革新系の団体と、で革新系もまた政党によってわかれる。ということで、その団結した取り組み。で、団結して議員に力を及ぼす、影響力を行使する…(聞き取り不能)…できてきていない。これが日本の障害者運動の弱点なんですね。アメリカは共和党、民主党と分かれてますけども、障害者の連盟とはこの枠を越えてですね、必要な時には議員に対するきちんとした影響力を行使する。これがこの、ADAを作ることができた背景でもありますね。これが、やっぱり大きな意味を持っていると思います。

 大阪で行政に影響力を行使できてきつつあるのは、この団体側の連携がですね、まあアメリカ程は、まだまだスムーズではないですけれども、少なくとも全国の他の府県から見ると大阪はうまく進んできている。だから、行政に対しても、あの、必要な時にはですね、団結して問題提起をする。そういう場を持つ事ができている。これが一番の成功の理由じゃないかなと言う風に思います。

大熊:  大阪はなぜ団結できたのか。楠さんがおられたかしら?。

楠:  いえいえ。それは、まあ何人か人材がいたんですね。まあ、大阪には、大ボスがいるんですけどね、この人が割と、人権感覚があって、まあ楠のようなうるさい奴でも一緒にやろうという。今まで私なんかは中央行くと煙たがられて、あの、あいつとは口も聞きたくないといった風に扱われているんですよね。残念ながら、実際はね。まあ、厚生省のお役人ともほとんど、私はお話しした事がないですね。まあ、色んないきさつがあるんでしょうけども。とにかく、まだ直接コミュニケーションができている段階ではないんですね。まあそれが、大阪では、その、あの、大ボスがまとめる役割を果している。まあ、そういった人材っていうのは直接的には大きなウエイトを占めているんでしょうね。

ゆき:  大ボスというと、どういう立場の人ですか。

楠:  あの、大阪でいうと、身体障害者団体連合会という、大身連という団体があるんですね。ここの理事長している方なんですね。まあ、その、泣く子も黙る何とかという人もいてですね、この人の力は非常に大きいし、しかもこの人も結構人権問題に対する、あの、視点というものを持たれている方ですので、もう80近いボスですけども、まあこの人の存在というものは客観的にはかなりあると思うんですね。

ゆき:  この方には障害をおもちなのですか。

楠:  ええ、全盲です。何か野球のボールが小学校の時に当たって、失明された方だそうです。

横田:  お話ありがとうございます。

楠:  えっと、お名前は。

ゆき:  横田さんです。静岡県のユニバーサルデザイン室を立ち上げた方です。大学院生です。

楠:  はい。

横田:  あの、今の話のちょっと最後の方に…(聞き取り不能)…ったんですけども、まずあの大阪以外にどこか日本の中でそういう活動が比較的活発な所が何個かあれば教えてください。

 それともう1つは、施策格差の解消…(聞き取り不能)…要は障害種別の施策格差の解消という言葉があるんですけれども、具体的にはどのような障害別の施策格差があるのか。それをどのようにお感じになっているのか教えて下さい。

 それともう1つすみません。さっきのADA法の話なんですけれども、果してそういう公民権法的な権利法は日本に必要かどうか。やはり、必要なのかそれとも日本の社会ではこのような方法ではなく、他のやりかたでやっていった方がいいのか。…(聞き取り不能)…レジュメの方には権利養護のためのネットワーク作りと書かれているので法律よりはこのやり方の方がいいのか。

楠:  まず、あの、地域ですけども、あの、大阪以外でですね、運動がかなり、まあ強いというより、まとまってるですね、こういった所は神奈川県。ね、ここはかなり障害当事者とですね、行政とがうまくリンクできてる。ね、そういう地域かなと思いますね。それからまあ、札幌も比較的当事者参加があのうまくいきつつある。で、団体もそれなりにまとまっている。地域ですね。それから、それですね、後熊本ですかね。ここにはやっぱりいいリーダーがいるのと、さっき言ったネットワークが進んでいるという事。ま、この条件があればですね、ま、行政の中でも行政の人材とうまくリンクさせていけばですね、かなり施策的には前進できると思いますね。そこがバラバラだと先に進まない。いうことで、あの、色んな障害者計画なんかも、単なる作文に終わってしまうんですね。ということにな…(聞き取り不能)…。
 それから、二つ目ですが…

横田:  障害種別間…

楠:  ああ、格差ですね。これはね、やっぱりあの、身体障害が一番進んでいる訳ですね。色々問題はまだありますけれども、で、知的障害、精神障害は遥かに遅れている。まず、この障害種別の格差ですね。で、特にその、身体障害に関しては、まあ、90年の法開設に自立と経済、社会、自立と参画という事が法的に謳われたんですね。ところが知的障害はやっと98年にこの自立と社会参画という言葉が入ったと。つまり、基本は保護なんです。知的障害の人達ってのは自分で自立できないなら、保護してあげるんだ。だから、あの、施設中心の施策だった訳ですね。家族中心の施策だったりして、なかなか自立支援のための施策にできない。ここが一番の遅れですね。

 あの、療育という言葉がありますね。治療と教育の育と書きますね。療育。で、まあ18歳まではともかくね、18歳を越えたら、自立ということを基本に据えて、自立支援という視点に立つべきなのに、知的障害者は今だに「療育支援事業」なんですね。だから、こん中に保護の発想が色濃く残っているんですね。で、ましてや精神障害になると言わば社会的入院。つまり、管理のシステム、精神障害ってのはずっと入院させておく、監禁しておくという発想がなかなか出ていない。ね、だからせいぜい社会復帰施設がいくつかありますけども、ほとんどが医者の管理のもとに、医療法人のもとに社会復帰施設があるということですね。そうじゃなくて、やっぱり福祉という領域で、自立という領域で精神障害の人達はもっと社会に参加していけるそうゆう社会支援を整えて、支援体制を整えるべきなのに、そこが遅れているんですね。

 こういう格差が決定的なのは日本には、基本法では3障害…(聞き取り不能)…からと並べているにも関わらず、実際の施策では非常に大きな格差があるという。だから、3点目の法律ですけども、やっぱり、いわば差別禁止法ですね、権利法といわれるものが日本にも早急に必要だと私達は思っておりまして、ようやく日弁連などは差別禁止法の法案作りをはじめている。それから、私達障害当事者の中からもですね、そういう差別禁止法を作ろうという事で、横の連携をしようと案を私達の側が作って、国に提起するというやっぱり体制を整えていこうゆうことで、あの、差別禁止法を作ろうという動きがでております。

 で、今あの、世界をね、43ケ国で既に差別禁止法とか障害者権利法という法律ができている。で、先進国ではほとんど、あの、例のアメリカ、イギリス、ドイツ、オランダというこういう国々ですねぇ。いわゆる、いつも何かやってますねぇ。先進国の首脳会議。ね。こういう国は全部出来ているんです。日本だけが障害者権利法や、差別禁止法という視点がないわけです。で、国連でですね、去年の国連総会でですね、あの、障害者権利条約というのを作ってですね、もっと各国政府に障害者権利を促進するための縛りをかけようという事がメキシコから提案されて、一応それが採択されたんです。で、今作業チームを作って始めている。だから、嫌でも日本政府もですね、権利法というものを作らざるを得ない状況が迫ってきているんですね。国連から勧告をされてる。まあこれが、ある意味で非常にいいチャンスだったんですね。で、…(聞き取り不能)…日本でも作らせたい。と、そのことと、具体的な運動っていうのはセットになってるんだという風に思ってますね。

学生:  人権教育は専攻で、あの、障害学、障害者の障害者の障害に学をつけた、障害学を専攻しております、ヨシナミといいます。…大阪という所で聞きまして、今国連でも障害者への施策を恩恵や保護という視点ではなしに、人権として確立していくための新しい障害者権利条約を作るといった動きがあるんですという事を聞いて、私は、あの、もともとそういうあの、女性とか、マイノリティへの権利条約がどんなに意味を持ってきたかということを聞いたものですから、非常に感動したというか、「ああ、これから新しい動きができる」って思ったんですけれども。
 ただ、この障害者の問題を捉える時に、権利・人権の面から捉えるのはまだまだ少ないし、運動の側でも必ずしもそういう発想じゃなかったという事があるんだと思うんですね。ですから、この国連の動きが追い風になって、日本で法律を作るという非常に大切だし、可能になってくるんだと思うんですけれども、同時にやっぱり教育の役割が非常に大きいと思うんですよね。その、周りの健常者の意識ていう…(聞き取り不能)…でもそうですし、障害当事者自身が自分にはこんな権利がある、こんな事もできる、こんなことも我慢せずに言ったらいいとか、これに答えるとかという事をもっともっと学校段階から知る機会があったらいいし、社会に生きていく中で、そういう権利を知って、使いこなすような教育機会が必要じゃないかなと思うんですね。

 で、もちろんその、健常者側の発想も、ただ、こんなに大変で、こうしてあげたいというんじゃなしに、権利を持つ主体として、障害児問題と捉えて考えていくという事が、あの、大事だろうなという話しをその時もしたんですけれども、今の教育とかボランティアの、こう、盛んになったといっても、まだまだそういう部分が弱いんじゃないかと思うんですけども、その辺りで楠さんのお考えがあれば教えてもらいたいんですけれども。

楠:  そうですね。あの、非常に大事な事ですけど、難しい事でもあるんですね。で、権利をね、きちんと行使できる主体を確立しようとするとですね、それは単なるその、個人的な要求だけでは十分ではないんですよね。だから、もちろん、まず個人個人の要求をきちんと出す事、自己主張することが大事ですけれども、あの、次の段階に、権利として、あの、きちんと体系化するためにもね、やっぱり情報をもっと得て、提供をもっとしていかないとね。自己決定とわがままとはイコールではないんですよね。だから、わがままっていうのはある意味で、小さい時から、保護されて、で、どんどん欲しい物を与えてもらったら、わがままにはなりますよね。その個人的なわがままと、それを自己決定として発展させていく、あるいは権利として確立させていく、そのプロセスにはやっぱり、きちんとした経験と情報、ね。これを正しく得ていく。

 そして、これを、あの、他の障害者とのつながりをきちんともっていくという。この、あの、経過がですね、きちんと保障されていないと、単なるわがままでずっと終わってしまう。そうすると、逆に説得力ないですよね。で、皆がそれぞれ個々の「俺はこうしてほしいんだ。」「あれはこうしてほしいんだ。」とね。で、例えば車椅子の人はスロープを張れば良い、目の見えない人は点字ブロックがいい。んなら、点字ブロックは邪魔、車椅子の人にとって邪魔になる。という事は今度は障害者同士がぶつかり合ってね、そうすると行政は何て言う。「いやあ、障害者も色々おりますから。あの、難しいんですよ。」と言ってやらないんですね。こうゆう逃げ道を今まで用意させてきたんですよ。日本ではね。
 だから、原理というのは、勿論、わがままも大事だけども、わがままだけでは説得力がない。ね。リーズナブルとゆうか、合理的な根拠と正当制。これをきちんと持った運動とか、まとまりをどう作っていくのか。これはやっぱり我々当事者の課題なんですね。ここはまだ、遅れているというのは確かなんですね。

ゆき:  視角障害のある大学院生、佐藤さんが教室におられるので、一言何か感想があったら、言って下さいますか。

佐藤:  あ、楠さん。こんにちは、どうも、えっと、何ですかね。あの、おもしろかったです。え、質問ですか。

ゆき:  質問じゃなくて、感想。

佐藤:  感想ですか。

ゆき:  他の人じゃ言えないような感想があるんじゃないかなっと思って。

佐藤:  感想と言うとですね。ええ。そうですね、あの、楠さんのこれまで生きてきた経過というのをもう少し、ゆっくり今度お茶でも飲みながら聞きたいと思いましたし、まあ、あとその、大阪と、でですね、まあ青い芝とから始められて、まあ青い芝大阪、そういう一連の運動をですね、全障連とか、そういう運動が、どういう風に、こう形成されてきたかという事を、もう少し今回聞きたかったなという事と、その運動に、色んなその運動を支えている思想によっても、運動の哲学サイドも違ってくるし、その、全障連だけじゃなくて、それとは別の運動の団体もあるし、そういう運動の団体というのを、その関係ですね。そういうものについて、これからちょっと、勉強していきたいなと思っているのでまた、あの機会がありましたら、ご協力いただければと思います。ありがとうございました。

ゆき:  佐藤さん、突然の指名に、ありがとうございました。楠さんはきょうは透析日ですので、あんまり遅くまではお願いできませんが、2時まで私の部屋にいてくださいますので、ご自分のお弁当を持ってきてくだされば、更にお話しを伺う事ができますので。私の部屋に来てください。
 楠さんが監修されたご本が後ろへずらっと並んでます。予約すると2割引で買うという特典があります。それでは楠さんに拍手で。

―――拍手―――


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