物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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「キミの将来はないが……」

 「スウェーデンの大使館に出向したいというのかね。そんな経歴だと、キミの役所での将来はないが、それでもよいのかね」
 1980年、行政官にとって死刑判決にも似た宣告を受けた人物がいました。
そのころ厚生省では、「海外勤務は変わり者が志願するもの」という雰囲気だったのだそうです。米国志望でさえドロップアウトの危険があるといわれていました。まして、福祉バッシング、北欧バッシングの標的になっているスウェーデン勤務を志願するのは"狂気の沙汰"だったのです。

 にもかかわらず初志貫徹した人物は、若き日の中村秀一さんでした。
「キミの将来はない」という上司の予言は大きくはずれて、老人福祉課長、年金課長、保険局企画課長、政策課長、審議官(医療保険・医政担当)と、要職をつとめ、いまは、厚生労働省老健局長。「尊厳を支えるケア」を謳った報告書、『2015年の高齢者介護』の仕掛け人です。

1973年に入省したときの最初の配属先が老人福祉課でした。
そのとき以来、「高福祉の国をこの目で見たい。スウェーデンの人たちが、高負担をどのように受け止めているのか見極めたい」と思い定めていたのだそうです。

高齢者の運命を狂わせる政策登場

 福祉バッシングが吹き荒れるきっかけは、奇しくも、中村さんが入省した73年の10月に起きた第4次中東戦争でした。
石油の価格が4倍にも跳ね上がりました。「安い輸入石油」という大前提が崩れ、田中首相の日本列島改造路線は暗礁に乗り上げました。
翌74年、戦後初めてのマイナス成長。そんな中で脚光をあびることになったのが「日本型福祉社会論」でした。

 75年、村上泰亮東大教授、蝋山昌一阪大教授が『生涯設計計画−日本型福祉社会のビジョン』(日本経済新聞社)を刊行。同じ年、「グループ1984年」を名乗る匿名集団が文藝春秋2月号「日本の自殺」で強調しました。
「福祉は自律の精神と気概を失わせる」「その恐ろしさを悟らなければならない」と。

後に臨時行革をリードすることになる土光敏夫経団連会長はいたく気に入り、コピーを配って回った、と毎日新聞政治部の『自民党−転換期の権力』(角川文庫)は記しています。

 翌76年には村上泰亮、佐藤誠一郎、公文俊平、堤清二、稲盛和夫といった学者・企業人で構成された「政策構想フォーラム」が、「新しい経済社会建設の合意をめざして」という提言をまとめ、「国家に依存する脆弱な人間をを作り出す英国型、北欧型の福祉であってはならない」と主張しました。
78年には、香山健一の「英国病の教訓」(PHP研究所)……。

 一連の主張の特徴は、根拠に乏しい福祉先進国批判を展開した上で、自助努力、同居家族の相互扶助、民間活力、ボランティアの活用に期待を寄せたことでした。
自身が介護する側になることなど、夢にも考えていない男性たちが筆者だったことも共通していました。

 このような風潮を背景に、79年5月、日本のお年寄りの運命を狂わせる政策が誕生しました。経済審議会が大平首相に答申し、閣議決定された「新経済社会7カ年計画」に日本型福祉が盛り込まれたのです。
自民党はこの年の9月に自由民主党研修叢書「日本型福祉社会」を出版しました。さらに、82年、「日本型福祉社会の構想」を打ち出し、厚生行政を制約してゆきました。

「事実誤認3点セット」

 それは、「事実誤認3点セット」の上に展開されていました。
1、日本の福祉は西欧諸国と遜色ない水準に達した
2、福祉が進むと家族の情愛が薄れ、スウェーデンのように老人の自殺が増える
3、福祉に力を入れると経済が傾く

 73年は「福祉元年」と呼ばれたのに「福祉2年」は来なかったのでした。
 中村さんが法学部4年生だった72年、朝日新聞科学部の医学担当記者だった私はスウェーデンを訪ね、福祉にまつわる日本での定説がことごとく事実に反していることに驚きました。そのとき書いた連載「福祉大国スウェーデンの医療」の一部を抜粋してみます。

 「社会福祉は人間を不幸にする、その証拠にスウェーデンの老人の自殺率は世界一だそうだ」と日本で何度か聞かされた。「福祉が豊かなのをいいことに、こどもは親に冷たい。それで孤独感が強まって……」と、もっともらしい理由もついていた。しかし、それは、つくられた"神話"であった。
日本のお年寄りの自殺率の方がスウェーデンよりずっと高く、65歳以上の女性の自殺率は日本が世界一。スウェーデンは10位までにも入っていなかった。
 デマの火種は統計を読み間違えたアメリカの新聞。それを雑誌が転載。そして、アイゼンハワー大統領が演説に引用。あっというまに世界中に広まった。
 「アイクは、その後誤りに気づき、スウェーデンを訪問したとき首相に謝りました。でも、大統領でなくなっていた彼の言葉は報道されなかったのです」
(1972年12月16日朝日新聞朝刊)

若き日の中村秀一さんが見たもの

 さて、若き中村秀一さんは、公衆衛生局地域保健課課長補佐だった81年5月、スウェーデンに向かうことになりました。44年間政権の座にあって福祉充実の政策を進めてきた社民党が負け、野に下っているときでした。
 中村さんは、こう言って送り出されました。
「福祉が進むと、国がどうだめになっていくか、じっくり見てきたまえ」

グラフ:スウェーデンの老人ホーム、長期療養施設、サービスハウス、グループホームの入居定員/井上誠一著『高福祉・高負担国家スウェーデンの分析−21世紀型社会保障のヒント(中央法規)より

 ところが、住んでみたスウェーデンは、ダメになるどころではありませんでした。庶民もヨットや別荘をもち、人々は生活を謳歌していました。
 日本のような人里離れた雑居の特別養護老人ホームはありませんでした。その代わりにサービスヒュースの建設がブームでした。(グラフ)
サービスヒュースは、ケアつき住居、ホームヘルパーの拠点、デイサービス、近隣の人々にも開かれているレストランが複合したもので、街の中に溶け込んでいました(写真1、2)。居室は日本の特養ホームの雑居部屋とは似ても似つかぬのでした。車いすでも使いやすいキッチンや浴室、思い出の品々をもちこんだ居間、それに寝室(写真3、4、5、6)。
 82年には社民党も政権復帰しました。中村さんは、層の厚い福祉システムを身をもって味わうことになりました。

写真@:ストックホルムのサービスヒュースのロビー。上の階にあるケアつき住宅の住人と近所のお年寄りがお喋り。2階には安くておいしいレストラン。 写真A:ストックホルムのデイセンターの入口に掲げられていたお年寄りの作品。左から、機織りなどの手仕事、ダンス、お茶とお喋り、読書、つまりここで楽しめるメニューがアップリケされています。ハート型の中のアルファベットの意味は「歓迎」
写真B:車いすでも料理しやすいキッチン 写真C:先祖伝来の家具で飾られた居間、ホームヘルパーの腰痛防止のためのリフトも見えます。
写真D:広々としたバリアフリーのバスルーム 写真E:ボタンひとつで、上下するベッドとSOS電話のある寝室

デンマーク
(65歳以上)
日本
(60歳以上)
今日またはきのう53%28.9%
2日以上または昨日27%19.9%
8日以上〜1カ月未満12%31.3%
1カ月以上〜1年未満6%15.9%
1年以上会っていない2%3.8%
不明-0.2%
表:何日前にお子さんとあいましたか?
 社会保障研究所主任研究員だった堀勝洋さん(いまは、上智大法学部教授)は、1981年に『季刊・社会保障研究』に発表した論文「日本型福祉論」で、こう分析しています。
 「日本型福祉社会論は、当初は経済哲学的、分析的な用語として用いられたが、体制側のイデオロギーを表すキャッチフレーズとして、装いを新たに登場したといえる」
 「日本国民の心情に深く訴える政治的シンボルとして……国民統合の手段として用いられたというべきである」
 「日本型福祉社会論が主張する自助、相互扶助、家庭福祉、地域福祉等は必ずしも日本の特質と言えるものではなく」
 「老親との同居率こそ日本は高いが別居の場合の老親との交流は欧米の方が頻繁だという統計もある」。表は堀さんのこの論文からの抜粋です。

メディアはいまも……

 福祉をめぐるデマとそれを無批判に伝えるメディアの状況はいまも変わらないようです。
 一般財源の3%を介護保険制度に上乗せして高齢福祉の質を高める政策をすすめてきた秋田県鷹巣町について、メディアは噂を活字にして伝えました。
 「福祉に力を入れすぎて商店街はシャッターを下ろす店が目立つ」
 「福祉予算偏重で小学校の雨漏りは放置」
 「個室の老健は自己負担が高く、貴賓室があるという」

 ところが、東洋大学の大友信勝教授のグループが調査したところ、商店街は、福祉に不熱心な近隣の町村の方がさびれていました。
 小学校にも改修予算がはきちんとついていました。
 個室に加算料金はなく、貴賓室のカゲもありませんでした。

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