物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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ボイコット運動のリーダーが

 伊藤雅治さん。介護保険で提供されるサービスの基盤をつくった人物のひとりです。
 前回の物語の主人公、中村さん同様、伊藤さんも危ない橋を渡ることにかけては人後に落ちません。
そもそも、厚生省に入ったきっかけが、尋常ではありませんでした。
 伊藤さんの履歴書をみると、「1968年5月、新潟大学医学部を卒業」とあります。卒業といえば、ふつうは3月、それなのに5月なのには、わけがあります。
「インターン制度廃止」をもとめて、新潟大学医学部の学生が卒業試験をボイコットしたため卒業が延期されたのです。
若き日の伊藤さんは、このボイコット運動のリーダーでした。

 インターン制度は、戦後、日本にも導入されました。
戦前の日本では、医学校を卒後すれば自動的に医師免状がもらえました。ところが、日本を占領した米国では、指導医の元で1年間、インターンとして研修しなければ国家試験を受けることができない仕組みになっていました。それが日本にも導入されたのです。患者から見ると、この制度はもっともに思えました。実地の研修も受けずに医師免状を手にして診察されたのでは物騒です。

 ただし、この制度、米国から日本に入ってくるやいなや形ばかりのものになってしまいました。米国では、「イン」ターンの名のとおり宿舎が保障され有給です。研修プログラムもきめ細かくできています。
ところが、日本では、身分保障もなく、宿舎もなく、無給。研修の中味も各科の見学程度でおざなり。それでいて、無免許状態で、治療行為を強いられるのです。医学生たちが不安に駆られて反対運動が起きたのももっともなことでした。
「安上がりの労働収奪機構ハンタイ!!」がスローガンでした。

 運動は実って、この年、1968年5月10日に医師法改正案が成立、5月15日には改正医師法が公布・施行され、インターン制度は廃止されることになりました。伊藤さんたちの主張は公に認められたのです。
 けれど、そこは、封建的なことでは定評のある医学部の教授会です。
「卒業試験ボイコットの張本人の伊藤を大学に残すわけにはいかない」

「保健所でほとぼりを冷ます」はずが……

 伊藤さんを高く評価していた衛生学の教授の粋なはからいで、「しばらく保健所に出てほとぼりをさまし、それから大学に戻っておいで」ということになりました。
 ところが、現場に出たに伊藤さんは行政の醍醐味に目覚めてしまいました。
 そして、厚生省にスカウトされ1971年に入省。98年保健医療局長、99年健康政策局長、2001年医政局長……と医系官僚の最高位を歩むことになったのですから、運命は不思議です。
 伊藤さんが新潟大学医学部で学生運動のリーダーを努めていたころ、東大で暴れていたのが、後に国会議員になり、介護保険の成立に大きな働きをした今井澄さんでした。
 東大でも、68年1月、インターン制度を巡り医学部学生が無期限ストに突入。これが発端で、学生の処分、医学部学生による安田講堂占拠、機動隊導入による排除などを経て紛争は拡大。6月には文学部なども無期限ストに発展しました。11月に大河内一男総長が辞任。69年1月18日の安田講堂での「攻防戦」には8500人の警察官が出動。400人弱の学生が2日間にわたって投石や火炎瓶で抵抗しました。
 その「隊長」が今井さんでした。翌日午後2時半すぎ、今井さんは大講堂の壇上で逮捕されたのでした。今井さんには、「物語」の後半で再度登場していただくことにして、伊藤さんに話を戻します。

岡光老人保健福祉部長が「カバン持ち」に化けて

 伊藤さんは、1989年6月、大臣官房老人保健福祉部老人保健課長に着任します。 まず、驚いたのは「老人病院の存在」でした。東京都庁の担当課に典型的な老人病院を紹介してもらい、見にいくことにしました。
 そのとき、「オレも行く」といいだしたのが、部長の岡光序治さんでした。とはいえ、厚生省の部長が視察ということになると、ことはおおげさになります。そこで、岡光さんは「伊藤課長のカバン持ち」に化けることにしました。伊藤さんが公用車の上席に座って厚生省を出発しました。

 そこでの風景を伊藤さんは、いまも忘れられないといいます。
 「お年寄りはマグロを並べたような扱いをされていました。付き添いの人が廊下でタバコを吸っている。フロはない。退院のほとんどは死亡によるもの。なんとかしなければと思いました」

写真@:「付き添きさん」という無資格女性にゆだねられていた日本の老人病院

 写真@は私が写した老人病院の風景です。薬のせいでお年寄りは昼間も寝ており、奇妙に静かな時間が流れていました。写真にうつっている「付き添いさん」と呼ばれる人は、資格がないため時給は安いのですが、病院に寝泊まりして24時間勤務なので、まあまあの収入になります。気の毒なのは、横たわっているお年寄りです。

前回ご紹介した「日本型福祉政策」で施設福祉予算も在宅福祉予算も切り詰められました。その結果、家族は疲れ果てました。
そこに医療保険、生活保護の財源をアテにして、日本独特の「老人病院」が、文字通り雨後の竹の子のように生まれてゆきました。国際的に例のない奇妙な"医療機関"でした。

 疲れ果てた家族と介護をめぐる揉め事、そして、老人病院に横たわるウツロな表情のお年寄りたち。
「日本型福祉政策」が生んだ「日本型悲劇」でした。

雨後の竹の子のように生まれた老人病院では

グラフ:人口1000人あたりの総病床数(OECDヘルスデータより作成)

 グラフは人口1000人当たりのベッド数です。日本(赤線)だけが、奇妙に増え続けています。そのかなりの部分が老人病院と精神病院でした。
 「老人病院」の経営実態の多くは闇の中でした。例外的に明るみに出たのが、埼玉県にある三郷中央病院でした。
 見るに見かねて県に内部告発した職員がいたのです。
 「東京医科歯科大学出身の院長、新潟大学出身の副院長、1カ月3万円で完全看護」が売り物でした。事務職員は東京・千葉・埼玉の福祉事務所を熱心に回り病院をPRしました。集められたお年寄りの7割が東京と千葉の住民でした。
 1980年75床で開院、半年後には177床に膨れ上がりました。


写真A:仙骨部分にできた直径8センチの褥瘡  「三郷中央病院事件とその教訓」という県のマル秘文書からうかがわれる、そこでの「診療」は、たとえば、次のようなものでした。
・入院した人にはすべて「入院検査」と称して31種類の検査を受けさせ、その後も毎月「監視検査」という名で21種類の検査。
・検査はやりっばなしで、検討された形跡はなし
・ テレメーターによる心臓の監視の架空請求で1000万円を超える収入

 口から食べられる人にも点滴が行われ、お年寄りの顔はむくんでいました。
 点滴を無意識に抜いたりするとベッドの柵に縛りつけられました。写真Aのような褥瘡、尿路感染、肺炎、……そして、平均87日で死亡退院。
 このような現実に、伊藤さんたちがどう立ち向かっていったかは、後の物語で。


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