物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より) ※写真にマウスポインタをのせると説明が表示されます | |
3つの「もし」
この3つの「もし」が重ならなかったら、介護保険は、今より後退した姿になっていたかもしれません。「介護保険そのものが誕生していなかった可能性もある」という人さえいるのです。
敬老の日を前にした1982年9月10日、東京・新宿区民センターに600人を超える女性が全国から駆けつけました。会場のいすが足りず、ゴザを敷いて座るという熱気です。
女性たちを結びつけたのは、厚生白書の「同居は福祉の含み財産」という提言への戸惑いと怒りでした。呼びかけ人63人のカナメ、樋口恵子さんは、当時を回想して、こう書いています。 「かつて孝行の範囲で考えられていた親の介護が長期化、重度化、かつ老老介護化していることを介護の最前線にいる女性たちは知っていた。社会全体で支える新たなシステムが必要だ。それなのに、同居率が高ければ家族だけで介護可能と考える極楽トンボぶりに女たちは怒りといらだちを募らせていた」
樋口さんは当時、中央社会福祉審議会の委員で、老人問題の部会に属していました。そこで、折に触れて力説しました。
全国に広がりつつあった「模範嫁表彰」「孝行嫁さん顕彰条例」も危機意識に拍車をかけました。1枚の紙切れでことをすませようとするなんて! 「当時40代だった私の世代は、子育てで仕事を中断、ようやく再就職のスタートをきったものの、舅姑の介護で再中断、というケースも珍しくなかった。介護は女性、とくに長男の嫁に一極集中し、その立場にある女性は経済的自立も住民参加も不可能であった。1975年の国際婦人年をへて、85年の女子差別撤廃条約の批准に向けて男女の固定的性別役割分業の見直しが唱えられる中で、嫁・女性の役割がむしろ強化されていた。いつか女性の声を結集して政策提言する必要を痛感していた」第一回女性による老人問題シンポジウム「女の自立と老い」(写真@)に集まった女性たちは、こうした思いを共有していたのです。 「高齢化社会をよくする女性」の会誕生
熱気はあっというまに伝染しました。
83年3月には、「高齢化社会をよくする女性の会」が誕生しました。「永続的な組織を」という声にこたえたもので、個人会員500人、グループ会員13で発足したのですが、8年後には北海道から沖縄まで個人会員827人、グループ会員72にふくれあがりました。500人を超える大グループも生まれました。
第1は、ゆるやかに、横につながっていく、という方法です。グループ会員の活動はまったく自由、本部・支部といったタテの関係はまったくありません。土地柄にあわせた独自な活動を展開します。
第2は「嘆きあう会」「こぼしあう会」から脱皮した調査活動と月1回の勉強会です。大学や研究所にない目のつけどころが身上です。しかも、調査結果の広め方ががユニークです。樋口恵子代表が中心になって、川柳や狂歌にしてしまうのです。
第3は、会員が政治に進出していったことです。いまでは100人を超える会員が、国、県、市町村の議員をつとめています。その多くが「ふつうの主婦」だった人々です。第10回大会では地方議員である22人の会員が一斉に舞台にのぼりましたが、自民、社会、公明、共産、無所属と当時の全党派を網羅していました。
第4は、「大江戸歳末名物・おんなの討ち入りシンポ」(写真ABC)に象徴される遊びとユーモア精神です。なだいなだ、永六輔など男性陣も馳せ参じます。替え歌も人気の定番です。たとえば、都はるみの「北の宿から」はこうなります。 あなた負担はいやですか〜
「涙こらえて」の涙を「おむつ」にしてしまうのが凄いところです。 言葉の魔術師「樋口恵子」誕生の秘密は
毒舌で知られる社会学者上野千鶴子さんも樋口さんには一目おいています。
そんな世直し達人樋口恵子さんが生まれるきっかけをつくったのは「人を見る目がなかった」朝日新聞、というのが私の説です。東大の新聞研究所で学び、旧姓の柴田恵子を縮めた「東大新聞のシバケイ」としての名を轟かせていた人物を朝日新聞が採用試験で落としたのです。「女は新聞社にはいらん」と、どの新聞も考えていた時代とはいえ、惜しいことをしたものです。
その樋口氏が劇症肝炎で若くして亡くなり、夫の勤め先だったキャノンの温情で同社の広報宣伝課へ。人びとの心をつかむ言葉の魔術師の才能に磨きがかかり、「評論家樋口恵子」が誕生することになりました。
海を隔て、出会ったことのないクローさんと樋口さん、驚くほど似ているとお思いになりませんか? | |
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