物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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ふたたび3つの「もし」(^_-)-☆

 「ぼけても安心して暮らせる社会を」というメッセージを発信し続けてきた「呆け老人をかかえる家族の会」が、2004年10月の3日間、京都で大がかりな国際会議を開きました。67カ国から4098人が集まった「アルツハイマー病第20回国際会議・京都2004」です。
 研究者、家族、そして、痴呆症と呼ばれてきたご本人も各国から22人参加、そのうち7人は発表もして、メディアにも大きく紹介されました。(写真@A)

写真@:本人の話に会場は涙、涙… 写真A:67か国から集まった人々

 介護保険制度の質の向上を語る上でいまや、欠かせない存在になった「家族の会」ですが、前回の「物語」同様、3つの「もし」が重ならなければ、存在していなかったかもしれません。
 生まれたとしても、41都道府県に支部をもち、会員数8000人、国際アルツハイマー協会と共催で第20回という節目の国際会議を開く、いまのような姿にはなっていなかったことでしょう。
 その「もし」とは−−

・マグニチュード7.1の直下型地震が福井平野を襲わなかったら
・失禁で異臭を放つ痴呆の老婦人が皮を剥いたミカンを、京大出身の若き医師、三宅貴夫さんがパクっと食べなかったら
・朝日新聞の黒田輝政記者が京都新聞の小さな記事に気づかなかったら

天窓から這い出した少年

 1948年6月28日午後4時13分、福井市北方の丸岡町付近を震源とした大地震が起きました。消防白書によると死者は3848人。5万棟の家が全半壊しました。
 後に「家族の会」の代表になる高見国生少年の運命は、この時を境に激変しました。織機を商う裕福な家に生まれ、何不自由ない毎日を送っていたのに、祖母、父、母、そして弟が梁の下敷きになり命を落としたのです。
 当時5歳で小さかった少年は、中学を出たばかりの丁稚どんと一緒に小さな天窓から脱出することができました。姉もお使いに出ていて無事でした。しかし、孤児になってしまったのです。そして、父の2人の姉のもとに一人づつ引き取られました。

 少年を育ててくれたのは、京都・西陣で糸繰りの仕事をしていた伯母でした。すでに50歳をすぎていましたが、わが子同様可愛がってくれました。というより、国生少年は、高校に入るまで「実の母」と信じきっていました。「私が病身やったから、福井の田舎の親戚に預けてあったんや」と聞かされていたからです。

 その「母」にぼけの症状が出始めたのは77歳。有吉佐和子の『恍惚の人』が出版された翌年の1973年のことでした。少年はすでに30歳。京都府庁の職員として仕事に没頭していました。
 近所の人から「おばあちゃん、病院にいくいうて、全然違う方に向こてはった」といわれても、年をとるとそんなものなのだろうと気にもとめませんでした。『恍惚の人』も別世界の話と思っていました。
 けれど、記憶を保っていられる時間は次第に短くなってゆきました。昨日のことを覚えていないな、と思っているうちに、その日のことを覚えていないようになり、やがて、お膳の上に、いま食べた食器が並んでいるのに、「ごはんまだ?」。

 「ぼけ」と悟ったのは、廊下に便が点々と落ち、スリッパで踏みつけてある、という日が続き、その"犯人"が、綺麗好きだった「母」と判明したときでした。困った行動は日を追って激しくなってゆきました。スプーン、はし、洗濯物、トイレットペーパー、なんでもかんでも、箪笥にしまい込みます。夏の暑い日に着物を何枚も着込み、タオルや風呂敷を首に巻きつけます。台所の醤油を飲む、磨き砂をやかんに入れて沸かす、やかんや鍋をトイレに置く……。共働きの夫妻の毎日は戦場のようなありさまとなりました。

 同じ京都府庁の保健予防課に、ぼけに詳しいお医者がいると聞いて相談にいったのは、1979年の夏のことでした。ハイハイを始めた長女の育児と重なり心身ともに疲れ果てていた時期でした。
 話を聞いた三宅さんが「それじゃ、今夜、お宅にうかがいましょう」といったとき高見さんは驚きました。以前、病院でみてもらったとき「治りません」と突き放され、医師不信におちいっていたからです。
 三宅医師は失禁で臭う「母」に優しく質問し、彼女が剥いて差し出したミカンを、「ありがとうございます」といって、なんのためらいもなく口に入れたのです。

 「やんわり断るか、受け取っても食べないだろうと私は想像していました。息子の私でもようせんこと、やらはった……、凄い、おもいました」
 この気持ちが、その後20年を超えて続く代表・副代表の絆になりました。

サファリ方式で家族がカギの中に

 三宅さんがふつうの医師と違っていたのにはわけがあります。その2年前、京都新聞が近鉄百貨店の一隅を借りて始めた「高齢者なんでも相談」のひとつに、当時としては珍しい「ぼけ相談」のコーナーがありました。『わらじ医者京日記』で知られる堀川病院の早川一光さんに誘われて、三宅さんもそこで、月2回の相談を受けていたのです。
 相談にくる家族たちは困惑し、戸惑い、悲しみ、心身ともに疲れ果てていました。介護の苦労を話してもだれも理解してくれないと、孤立感に苦しんでいました。

 三宅さんは、家族どうし体験を話しあう機会をつくってはどうかと思い立ちました。相談にくる人に「家族の集い」を呼びかけました。こうした集いを月1回続けるなかで、継続的な「家族の会」を、という話が持ち上がりました。
 そのとき、「代表に」と白羽の矢がたったのが、京都府庁で広報や福祉関係の仕事を経験していた高見さんでした。

 けれど高見家は、会の世話どころではない日々でした。「母」に"荒らされない"ように、土間を改造して一部屋をつくりカギをかけ、「安全地帯」をつくりました。その中に大事なものを置きました。こどもを安心して遊ばせました。
 台所セットの前にはベニヤ板3枚で取り外し可能な塀をつくりました。冷蔵庫のドアは紐でくくりつけました。食器棚は、カギをかけた部屋に入らないと取り出せないように裏返しに置きました。押し入れには南京錠をとりつけました。
 これで、夜中にどんなに歩き回られても大丈夫になりましたが、夫妻の生活は不便極まりなくなりました。水いっぱい飲むにも、裏返しにした食器棚からコップを取り出し、ベニヤ板をはずして蛇口をひねらなければならないのですから。
 高見さんはこれに「サファリ方式」と名付けていました。猛獣が自由を謳歌できる一方、人間が車の中に閉じ込められるサファリパークに似ているような気がしたからだそうです。

 そんな高見さんが、「家族の会だから、代表は家族でなくては。名前だけ貸してくれれば、実務はいっさい私たちがあります」といわれて代表を引き受けることにした理由は2つありました。
 「家族の会に救われた」という思い、そして、「京都の20家族くらいの会だからたいしたことはないだろう」と思ったからでした。
 ところが、思いがけないことになりました。

20家族の会のはずが、全国組織に

 舞台は京都新聞から朝日新聞に移ります。
朝日新聞の大阪本社版で、当時は珍しかった「みんなの老後」というページを担当していた黒田輝政さんは、京都新聞の小さな記事にフト目をとめました。
 「京都市内で79年6月にスタートした"家族のつどい"が6回会合を重ねてきたが、苦労話を話し合うだけでなく、横の連絡を密にして対策の遅れを取り戻す社会運動を展開しなければと、1月20日に、京都を中心に"家族の会"を結成することにし、堀川病院に事務局を置いた」

写真B:1980年1月20日、ゆきの日の京都で開かれた結成総会。立っているのが斉藤貞夫さん。  黒田さんの記者魂が揺さぶられました。
 これをローカルなものに終わらせず、全国レベルのものにできないだろうか。
早速、堀川病院人事部長の斉藤貞夫さんに連絡、「全国に呼びかけたい」と提案しました。3日後、よろしく、という返事がきました。こうして、1月16日の朝日新聞の全国版に3段見出しで掲載されることになりました。
 反響はすさまじく、病院の仕事に差し支えるほどでした。
 こうして迎えた80年1月20日は雪の日。にもかかわらず、全国から90人が集まりました。ものすごい熱気でした。(写真B)
 春には早くも、京都、大阪、岐阜に支部が誕生。無給の事務局長に指名された斉藤さんは、各地に呼ばれて支部を立ち上げる縁の下の力持ちをつとめることになりました。

写真C:9月21日世界アルツハイマーデーには、繁華街や街頭で、ぼけへの理解を深めるためのリーフレットを配って、社会の関心を集めようとしています。  「家族の会」はお年寄りが施設や病院で縛られたり閉じ込められたりしている実態を明るみにし、身体拘束ゼロ作戦をバックアップしました。痴呆症と診断された人の介護度が低く出てしまう原因をつきとめ、判定方式変更のきっかけをつくりました。
 毎年9月21日の国際アルツハイマーデイには、繁華街で「ぼけ」への理解を深めるためのリーフレットを配って社会に呼びかけています(写真C)。

 「あのとき、京都新聞の記事に気がつかなかったらどうだったろう、といまも時々思います」と、来年80歳を迎える黒田さんは感慨に耽ります。黒田さんはその後、本格的なアルツハイマーの義父をかかえることになり、文字通り「家族の会」の一員になりました。

 患者会やボランティア組織の分裂や揉め事に心を痛めてきた私には、前回の「女性の会」とこの「家族の会」の長命は奇跡にも思えます。
 2つには、に共通することがいくつかあるように思えます。

・慰め合いにとどまらず、国や自治体に新しい制度や政策を提言していったこと
・説得力をもたせるために、調査に力を注いだこと
・リーダーに広報経験があり、言葉が人の心を動かすことを知っていたこと。

 高見さんがつくった言葉、「ぼけても安心して暮らせる社会」は、いま、介護保険制度を深めるキーワードになっています。

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