物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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医学レベルが高いから寝たきり??

 日本の「寝たきり老人」は「寝かせきり」にされ、廃用症候群に陥った犠牲者だったのだ−−と気づき、「寝かせきりゼロ」のキャンペーンを始めたのは、朝日新聞の論説委員になって1年目、1985年秋のことでした。
 この"発見"に、専門家と呼ばれる人びとは冷淡でした。

 「外国からの客に見えないどこかに隠されているのではないか」
 「寝たきりになるような年寄りは医療の手を抜いて適当に殺しているに違いない」
 「日本は医学レベルが高いから、寝たきりになるような患者をむりやり生かしてしまう、困ったことだ」

 孤立した私を励ましてくださった専門家はたった2人でした。
 小田原の特別養護老人ホーム潤生園の施設長、時田純さんは、未知の私を元気づける丁寧な手紙をくださいました。もう一人は医学記者時代から旧知の故・荻島秀男さん。日本でリハビリテーション科が認められていない時代、米国で専門医の資格をとった日本人第1号です。
 荻島さんはいいました。
 「欧米では救急病院にリハビリテーション科があって、専門医が、救命の時期から社会復帰を念頭において患者さんを見守るのに、日本は申請すれば救急病院を名乗れるというひどい仕組み。日本の寝たきりは『つくられた寝たきり』です」

西暦2000年には100万人に!

グラフ:色のついた国は日本より先に高齢化が進んだ典型的な国です。(クリックすると拡大します)

 その前年、私は、厚生行政と科学技術行政を担当する論説委員を命ぜられました。20年近い科学記者からの転身で、福祉には素人でした。そこで、勉強を始め、出会ったのが、当時の厚生行政の難題「寝たきり老人問題」でした。
 「西暦2000年に100万人になる寝たきり老人」という決まり文句が関係文書にあふれていました。
 いまでは毎日のように新聞に載る「介護」という文字は、専門家の世界で使われる言葉でした。新聞に登場するのはもっぱら「寝たきり老人」でした。
私は、「寝たきり老人」に会うために老人病院や特養ホームを訪ね、うつろな表情(写真@)にショックを受けました。

 なんとか解決の方法を見つけなければと、85年夏、日本より先に高齢化の進んだ北欧・西欧の国々を訪ねました。「日本の高齢化のスビードは世界一。手本はない」とよくいわれますが、日本(赤線)より先に高齢化社会、高齢社会を経験した国は、グラフ(クリックで拡大)のようにたくさんなります。その経験を学ぼうと考えたのです。

 ところが、そこには「寝たきり老人」にあたる役所用語も日常語もありませんでした。日本でなら病院や施設のベッドに寝間着姿で横たわっているような重い障害のある人が、おしゃれをし、車いすに乗り(写真A)、思い出いっぱいの自宅で暮らし続けていました。家族が同居していなくても、なのです。

 以来、休暇を利用し、貯金を下ろしては高齢化の先輩国を訪ねました。「寝たきり老人」という日常語や役所用語がない、そのわけを突き止めたかったのです。最も進んでいると思えたのがデンマークでした。謎は次々と解けてゆきました。

写真@:西暦2000年には100万人になるといわれていた日本独特の「寝たきり老人」 写真A:「寝かせきり」という言葉を思いつくきっかけになったお洒落して車いすに乗っている独り暮らしのデンマークのお年寄り(コペンハーゲンのデイサービスセンターで1985年9月5日)

「寝たきり老人」は「寝かせきり」の犠牲者だった!

・ 寝返りが打てないほど障害の重いお年寄りでも、生活の節目節目に24時間対応のホームヘルパーが訪ねて、ベッドから起こし、着替えを手伝い、夜またベッドに。
・ 起こすための様々な道具が工夫されている(写真B)
・ 小学校区に1つほどの憩いの場と送迎サービス
・ 車いすや自助具を体にあわせて貸し出す補助器具センターが、人口20万に1カ所ほどなり、補助器具を調整してくれる作業療法士が常駐。
・ 入院中から、ご本人を交えての退院計画づくり
・ 入院中に自宅を公費でバリアフリーに改善してしまう仕組み
・ 福祉と医療をつなぐ"動く司令塔"のような訪問看護婦
・ 国民すべてが登録している家庭医という専門医と気軽な往診。
写真B:起こすためのさまざまな道具(デンマークのカタログから)  そうしたシステムが、「寝たきり老人」という日常語のない秘密でした。
 日本で「寝たきり老人」と呼ばれている人々は「寝かせきり」にされて廃用症候群に陥った犠牲者だったのです。
しかも、年金・医療・福祉をあわせた一人当たりの費用は、デンマークと日本とであまり変わりません。

起きると笑顔と目の輝きが

 繰り返し書いたり話したりしているうちに、いくつかの現場が真剣に反応してくれました。たとえば群馬県伊勢崎市の「愛老園」のスタッフはお年寄りを起こす努力を続け、1年目に50人すべてを「寝たきり状態」から救い出しました(写真C)。
 すると、予想を超えることが起きました。お年寄りの目が輝き始め、外へ出たいと言いだしました。便秘や肺炎も減りました。2年目には、床ずれもゼロになりました。車いすで外に出るようになると、お年寄りは買い物にセンスを発揮するようになり、身だしなみに気を配るようになりました(写真D)。
 写真Cは起こしてまもなくの時期、表情がもうひとつ冴えません。Dはご本人の希望でスタッフと一緒に温泉で過ごしたときのもの。見違えるような笑顔です。

写真C:群馬県の愛老園の「寝かせきり」から起こしたお年寄り 写真D:ご本人の希望で温泉にでかけたら生き生きした表情に

 発想の転換だけでこうなったわけではありません。
介護スタッフの数を国基準より25%多くし、体格のいい男性を加えました。事務職員も手伝いました。食事やレクリエーションのための空間を確保しました。

厚生省に同志が

写真E:老人保健課伊藤雅治課長・依田晶男課長補佐の力作「寝たきり老人ゼロ作戦体系図」(クリックすると拡大します)

 厚生省の中にも同志が現れました。たとえば、1986年、老人保健福祉部老人保健課に課長補佐として着任した依田晶男さん(現・内閣府障害者施策担当参事官)です。
 「82年から83年にかけて社会局の老人福祉課にいたのですが、当時は、『寝たきりは寝かせきり』なんて思ってもみなかった。目からウロコでした。贖罪の意味でも寝たきりにしないための政策をつくらなければ、と」
 「依田さんが、真ん中に矢印を一本書いた紙をもって各課、各係を走り回って説得していた姿が目に浮かびます」と、当時、主査だった野村隆司さん(現・千葉県健康福祉指導課長)は回想します。
 写真E(クリックすると拡大)がやっと見つけ出した、「真ん中に矢印」の図です。

 米・ハーバード大で公衆衛生を学んだ長谷川敏彦さん(現・国立保健医療科学院政策科学部長)も、同課に着任、89年1月、研究班「寝たきり老人の現状分析並びに諸外国との比較に関する厚生科学研究特別研究事業」を立ち上げてくれました。班長は、元医務局長の竹中浩治さんです。
 報告書は、"発見"を裏付け、「日本でも各種の政策によって欧米のレベルまで寝たきり老人を減らすことが可能」と結論しました。

 初代老人保健部長の多田宏さんのもとでは、研究班の結果を待たずに、寝たきり予防を新規予算の目玉にする作戦が進められていました。
 89年8月26日の朝日新聞朝刊は次のように報じました。

 「寝たきり老人ゼロ作戦」と銘うった、厚生省の新たな高齢者対策が来年度からスタートする。「寝かせたまま」を前提にしたこれまでの老人医療や介護のあり方を反省、病気やけがで倒れたお年寄りをできるだけ動かすことに努め、寝たきりにしない方向へと転換を図る。具体策として、超早期から機能回復訓練を行うための手引きの作成や、家庭から訓練施設までお年寄りを送り迎えするバスの配置などを計画している。25日にまとまった同省の来年度予算概算要求に組み込んでおり、その額は新規事業分だけで43億7000万円にのぼっている。
 「真ん中に矢印」の図が予算案に昇格したのでした。89年7月に着任した伊藤雅治課長(この物語の第4話に登場)は、「これを国民運動しよう」と考え、「寝たきり予防10カ条策定委員会」をスタートさせました。

早期リハビリから超早期リハビリへ

 90年11月に初会合。翌91年3月には次のような「寝たきりゼロへの10カ条」が発表されました。

第1条 脳卒中と骨折予防  寝たきりゼロへの第一歩
第2条 寝たきりは 寝かせきりから作られる、過度の安静 逆効果
第3条 リハビリは 早期開始が効果的 始めよう ベッドの上から訓練を
第4条 くらしの中でのリハビリは 食事と排泄、 着替えから
第5条 朝おきて まずは着替えて身だしなみ、寝・食分けて生活にメリとハリ
第6条 「手は出しすぎず目は離さず」が介護の基本、自立の気持ちを大切に
第7条 ベッドから移ろう移そう車椅子 行動広げる機器の活用
第8条 手すりつけ、段差をなくし住みやすく、アイデア生かした住まいの改善
第9条 家庭(うち)でも社会(そと)でも喜び見つけ、みんなで防ごう 閉じこもり
第10条 進んで利用 機能訓練 デイ・サービス、寝たきりなくす人の和、地域の輪

 七五調で覚えやすく、あっというまに全国に広がりました。
 誰か、素養のある人が一役買っているに違いない!
 そのような仮説のもと、今回、10人の策定委員に尋ねて回りました。けれど、七五調づくりに堪能な人は見つかりません。
 ついに捜し当てたのが、当時の担当課長補佐、石塚正敏さん(現・国立国際医療センター運営局長)でした。石塚さんの原案に10人の委員が肉付けしていったのです。

 たとえば、第3条は石塚原案では五七五・七七の型どおりに「ベッドの上から始まる訓練」だったのですが、「気合を入れよう」と、「始めよう ベッドの上から訓練を」に変わりました。竹中さんは「気合」を入れた理由について、こんなメールをくださいました。  

「当時はせいぜい発作後1ヶ月位の早期リハビリが話題になっていたのですが、我々は一週間以内の超早期リハビリが重要だと考えていました。老人保健課に言うと、データが無いと抵抗されましたが、解説に盛り込むことで折り合いをつけました」。

 第7条は「自立を促す機器の活用」という石塚案に、「安易に自立という言葉を使うべきではない」と異論がでて「自立」の文字がなくなり、「進んで移ろう車いす」も「移ろう移そう車いす」に変わりました。
 「手は出しすぎず、目は離さず」は委員からでたフレーズ。第10条の「人の和」は、多田さんの後任岡光序治老人保健部長の指示でした。
 「字余りになるので気が進まなかったのですが、部長には逆らえず書き換えました。でも、よくよく考えてみると原案より格調高くなっていて、よかった、と思えたことを覚えています」と石塚さんは回想します。

ついに発見!「10カ条」のモト

 その石塚さんがヒントにしたのは、伊藤雅治さんの先代老人保健課長、野村瞭さんの走り書きだというので、八方探し回りました。ご本人が「昔のことでメモを書いたことも忘れていたくらい」というのですから、発見には手間取りました。
 やっとのことで見つけ出したそのメモをご紹介します。

1.脳卒中 予防が寝たきり なくす道
2.リハビリの 遅め早めが 別れ道
3.ベッドから 何とか起こそう 車椅子
4.食べるのは 床の上より 食卓で
5.朝起きて 先ずは着替えて 身だしなみ
6.お掃除は 自分の仕事よ おじいさん
7.約束の ゲートの時間よ おばあさん
8.年老いて 何はなくても わが住みか

 デートとゲートを引っかけた「約束のゲートの時間よ おばあさん」など、かなりお役人ばなれしています。
 野村さんの第2条「リハビリの 遅め早めが 別れ道」が、10カ条の第3条で「リハビリは、早期開始が効果的」に変わったのには、実は、訳がありました。
 野村メモのままだと、「寝たきりになるのは、医療機関の対応の遅れが原因」という思想が広まる。そうなると医療機関から反発が出るだろう。そう、心配する声が出て、無難な表現に落ち着いたのでした。 

 そうはいっても、「ゼロ作戦」も「ゼロへの10カ条」も、いま注目の介護予防の「大先輩の貫祿」十分とお思いになりませんか?

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