物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

※写真にマウスポインタをのせると説明が表示されます



写真@:リフトを巧みに使って、重症筋無力症の90キロの男性をベッドに寝かせるホームヘルパーの技にびっくり(デンマークで)
写真B:スウェーデンでは、介護スタッフの健康のために、様々な器具がそろった部屋が用意されているのにもびっくり。デンマークでは、ヘルパーの質の向上のため、教育を受けている間も自治体から月15万円の給料が至急されているときいてびっくり。
写真A:「ホームヘルパーはやりがいのある仕事!!!!!!!」というワッペンをもって呼びかけるホームヘルパーのリーダー(スウェーデンで)

 ことし元旦の朝日新聞の声欄を見て、私はちょっぴり涙ぐんでしまいました。20年前、高齢化の先輩国を訪ねたときのことを思い出したからです。
 それらの国には、日本ではごくあたりまえだった「ザン切りアタマが並んだ雑居の施設」の風景も、「寝たきり老人」という概念もありませんでした。その代わりに、たとえば、朝・昼・晩と生活の節目に現れる「プロの」介護職(写真@AB)、一人一人の意志を尊重するケア、趣味や食事を楽しめる自宅近くのデイサービスセンター、送迎サービスがありました。

 一方、私たちの国では、介護は「女ならだれでもできる仕事」と軽んじられ、介護地獄が日常化していました。
 「声」に投稿したのは、長野県千曲市の高校生の中山裕美子さん。タイトルは、「介護福祉士へ、夢に一歩前進 わが道」。抜粋してみます。


 私には「介護福祉士になりたい」という夢がある。中学生になって、自分には何ができるだろうかと考え、デイサービスセンターで短期間ボランティアをしてみた。そこの職員の方とお話をして、お年寄り一人ひとりの立場を尊重して接することが大切だと知った。高校の夏休みにもデイサービスセンターで食事介助などを手伝い、夢実現の決意を固めた。
 そして、念願の介護福祉を学べる専門学校に合格。春から通学する。いろんな人と出会って教えを請い、体と心に目いっぱい詰め込みたい。

 20年前、北欧の国々のシステムを伝えても「夢物語」とした思ってもらえなかった、それがごくあたりまえに、「現実」として書かれていました。
 今回は、介護保険の露払いとなった介護福祉士制度誕生にまつわる物語です。

 この制度は、いくつもの幸運と偶然が重なって生まれました。「介護保険物語」の定番となった「もし」を並べてみますと−−
☆もし、斎藤十朗さんの入閣が予想通りだったら……
☆もし、小林功典局長がふつうの男性だったら……
☆もし、京極宣助教授がふつうの学者だったら……
☆もし、辻哲夫室長が内閣法制局を説得する理論を考えつかなかったら……
 介護福祉士制度は、生まれていなかったに違いありません。

■「介護に専門性など、ない」???■

 新たな資格制度は、既得権をめぐる思惑、省庁や局の縄張り、これに、理想派VS現実派の争いがからんで、法案ができる前につぶれてしまうことがしばしばです。
 そのため、1つの団体が一致団結して議員を説得して回り、超党派による法案提出にこぎつけて省庁間の争いもクリアする、つまり「議員立法」でなければ資格制度はできない、という長年のジンクスがありました。

 ソーシャルワーカーも例外ではなく、71年以来、試案ができては流産する、という歴史を繰り返していました。この分野には、戦後の人材不足の応急処置として社会福祉主事という"資格もどき"がつくられました。厚生大臣の指定した3科目の単位をとれば自動的に社会福祉主事になれることから、「3科目主事」と揶揄されていました。
 そこで、「国際的に通用する、まともなソーシャルワーカー資格を」という声が度々盛り上がるのですが、「新しい資格ができると自分の職場での地位が危うくなくなるのではないか」という疑心暗鬼が福祉現場、教育の現場に生まれ、振り出しに戻るのでした。

 介護福祉士には4つの壁が立ちふさがりました。
 ひとつは、「介護に専門性など、ない」という根強い偏見です。厚生省の社会局でさえ、それが多数派を占めていました。老人福祉課長だった古瀬徹さん(現・東京福祉大学教授)が、西ドイツの日本大使館での経験から、「ドイツの老人介護士のような資格をつくるべきだ」と強く主張しても、少数派ゆえ、引き下がるしかありませんでした。
 古瀬さんは、厚生省に先立って資格制度を企画していた兵庫県の「福祉介護士」条例化検討会のメンバーでもありました。
 「ホームヘルパー出身の委員が専門性について発言しておられるのに、他の委員が理解しようとしなかった様子がいまでも目に浮かびます」。

 第2の壁は、家政婦さんたちの団体の猛然たる反発でした。自分たちの職域が奪われると心配して、労働省の官僚はもちろん、族議員も巻き込んで反対運動を展開しました。
 その政治家の中には厚生省にも影響力がある実力者がいたため、ことは、困難を極めました。

 第3は日本看護協会と日本医師会です。日本社会事業大学助教授だった京極宣さん(現・同大学長)は84年から3年間、社会福祉専門官として厚生省に出向し、資格法成立のために奔走したのですが、「前門の虎の看護婦さん、後門の狼の家政婦さん。どちらも抵抗はすさまじかった」と専門誌のインタビューが語っています。

 壁はまだありました。
 議員立法ではなく政府提案する「特別な理由」を法制局に納得させなければならないのです。
 社会局老人福祉課シルバーサービス指導室長として制度創設のために奮闘した辻哲夫さん(現・厚生労働審議官)は、日本介護福祉士会の法制定15周記念の特別講演でこう話しています。
 「私の行政経験で二度と出会えないのではないかというような、劇的な、激しい経験の中でできたのが、介護福祉士制度でございます」

■有識者懇を蹴飛ばした斎藤厚相■

写真C:予算編成を終えて大蔵大臣室を出る父、斎藤昇厚相(右)とわざと同じ場所で写真をとった斎藤十朗厚相(左) (斎藤十朗著『この国を考える−厚生行政は政治の究極の目的である』より)

 ここに、棚からぼた餅の事態が持ち上がりました。第3次中曽根内閣の最年少大臣として斎藤十朗さんが厚生大臣に就任したのです(写真C)。86年7月のことです。当時の新聞は、こう紹介しています。
 「斎藤昇厚相の次男。銀行勤めのあと衆院を目指したが落選。昇氏の死去に伴う72年の三重地方区補選で参院へ。2世議員らしくなく、腰が軽く、頭も低いと、野党の受けもいい。国対委員長として人使いや駆け引きのうまさも定評があり、今回の参院議長や参院自民党人事のシナリオを書いた。なかなか自説を曲げない骨っぽさも持ち味の1つ」

 斎藤さん、実は、85年12月の第2次中曽根内閣で入閣という下馬評で、ご本人も心待ちにしていました。ところが、後輩が労働大臣として先に入閣してしまったのです。
 「かなりショックでした。これを気の毒に思った小沢辰男先生と土屋義彦参院幹事長のお二人が、『次は、君の念願の厚生大臣に就けるようにする』といってくださった。おまけに、第2次中曽根内閣は総選挙で半年で終わってしまった。遅れたおかげで1年4カ月在任することができ、思う存分仕事ができました。何が幸いになるかわからないものです」

 就任と同時に、斎藤さんは28項目の課題を手書きして、事務次官や局長に渡しました。その中に「福祉・医療における身分法」がありました。
 「86年暮れ、12月20日ごろ,ようやく老人保健法改正案が成立して、私が国会から帰ってきた時のこと、幸田正孝事務次官と北郷勲夫官房長が部屋に入ってきて、これで前段の大きな仕事が終わったのでこれから『斎藤厚生行政』の将来に残ることを考えたらいいと思うんです、というんです。そちらで考えてきたことは?と尋ねると『長寿社会に向かっての福祉のあり方懇談会』を有識者を集めてやったらどうか、と。当時は有識者懇というのが流行りだったんで、既にペーパーにして用意しているんですよ」
 「僕は言いました。そういうのはやりたくない。誰でもやれる事だから。世の中全部の人にはアピールしないかもしれないけれど長く残ることをしたい。医療や福祉の分野で必要な身分法を、全部洗い出してほしい、一括法でやりたいんだ、こういいました」

■小林局長の入浴介助の経験が後押し■

 87年1月7日の記者会見で構想を発表。百万の味方を得た辻さんと京極さんの動きに弾みがつきました。 ソーシャルワーカーの資格化が悲願だった京極さんは、後に「根回し名人」の異名をとる才能をフルに発揮し、あらゆる人脈を活用して各団体の利害調整に駆け回りました。

 辻さんは、法の骨格とカリキュラムづくりを担当。高卒1年のコースか2年か悩んでいました。このとき、「辻君2年は必要だ」と応援してくれたのが社会局長の小林功典さんでした。
 小林さんの静岡に住む父上は7年間、要介護の身でした。それで週末は毎週のように故郷に帰って入浴介助をしていました。その経験から専門職の重要さが身に染みていたのだそうです。
 小林さんには、もうひとつ強みがありました。斎藤厚相は若き日、父の斎藤昇厚相の政務の秘書官をつとめていました。その時小林さんは役所側の秘書官。秘書官仲間のよしみで話がツーカーで伝わるのでした。労働・厚生両省に影響力をもつ議員に遠慮して厚生省内にも資格化には根強い反対論があったのですが、小林さんは、終始辻さんたちの防波堤になりました。

 残るは、法制局への説得です。辻さんは、こう説明しました。
 「これからは福祉分野に株式会社が参入する時代、『儲けることが重要。手抜きしろ』と命ずる経営者が出てくるかもしれない。一方、介護が必要な人は弱い立場。プロとしての倫理と技を身につける国家資格が不可欠です」
 こうして4月に法案完成、5月下旬には国会通過。社会局提案の「社会福祉士及び介護福祉士法」、健康政策局提案の「臨床工学技士法」「義肢装具士法」が成立したのでした。

 身分法が必要だと思うようになったきっかけを斎藤さんに聞いたら、「スピーチセラピストの方たちから熱心に要請があって勉強会をしていたんです」という答えがかえってきました。
 ところが、発端になったスピーチセラピストは団体の意見がまとまらず見送りとなりました。
 言語聴覚士法、精神保健福祉士法が成立したのは10年後のことでした。

▲上に戻る▲

次のページへ

物語・介護保険 目次に戻る

トップページに戻る