新聞記者だったというのに、私は文章がとても苦手です。
日本ならネタキリロージンと呼ばれる身になる人が高齢化の先輩国では、お洒落して独り暮らしできる、死を間近にしても住み慣れた家で過ごせる……、そういう事実を、社説だけで納得してもらうのは不可能に思えました。
読んだ人が改革のために立ち上がってくれることなど、絶望的だと考えました。
そこで、家庭面デスクに頼み込み、写真入りの連載を書かせてもらうことにしました。
タイトルは「真の豊かさへの挑戦」。デンマークで生まれたノーマリセーリングという思想が国境を越え、ノルマリサーティオ、ノーマライゼーションと名を変えて、福祉や医療の文化を変えていった様子を描きました。1989年5月はじめのことです。それに目をとめた未知の人から、「もっと詳しい話を」と頼まれることになりました。
ところが私は、人前で話をするのも大の苦手なのです。
思いついたのが、スライド映写機を2台用意していただき、スクリーンの左側に北欧の福祉サービスの姿、右側に日本の現実を映し、対比させながら話を進めるという方法でした。
効果は絶大でした。東京・江戸川区では区長の中里喜一さんは管理職と一緒に熱心に話をきき、ただちに「すこやか住まい助成制度」を発足させてくれました。99年に引退するまで9期35年区長をつとめ、役所の隅から隅まで知り尽くしていた名物区長です。
「すこやか住まい助成制度」は、デンマーク同様、お役所離れしているのが特徴です。
申請は「電話1本」でOK。区の担当者が、施工業者と本人、家族の間に入って改造の知恵を貸し、補助器具やホームヘルパーなど他の福祉サービスとの仲立ちもします。改造費用は「貸す」のではなく全額区の負担で所得制限はなし。改造費の上限もなし。
1年半ほどたち、400軒が改造された92年3月31日、「老いの住まいに安心を」という社説を書いて、この試みを褒めました。こんな風です。
改造費用の最高は390万円、最低は2万円。浴室の改造が最も多く、トイレ、玄関と続く。江戸川区では、特別養護老人ホームの入居者1人に月額35万円をかけている。同様の障害をもちながら自宅で暮らす区民に同じ費用をかけて当然、という考えにもとづいている。
住宅改造制度のある自治体は少なくない。しかし手続きが難しい上、所得制限や助成の上限がある。高齢者だけの家庭では貯金を減らせない。子と同居していると遠慮があって言い出せない。どう改造したらよいか、だれに頼めばよいかも分からない。結局、改造できないまま「寝たきり状態」になり、心ならずも病院や施設で老いていくという人が絶えない。
福祉先進国でも、かつては同じことを経験した。その苦い教訓を踏まえて、入院した時点で役所の在宅係が病院を訪ね、本人や主治医と相談しながら住宅改造をすませてしまう方式がとられている〉
ここだけの話ですが、マッチポンプならぬ、マッチとガソリンの手法です。
この戦術は、実は、反省から生まれたものでした。
初めのうち私は海外での成功や失敗の経験を社説で紹介しました。けれど、どんなに丁寧に書いても、日本での実践が目の前で展開されないと、人々は本気にならず、世の中はなかなか動き出してくれません。
連載を読んで訪ねてこられた一人が榎本憲一さん(写真@)でした。コミュニティ・メディカル・システム・ネットワークの頭文字をとった在宅ケアをめざす会社「コムスン」を、資本金三百万円で88年に設立したところでした。
「社会福祉法人設立の壁はとても厚く、当時はNPOの制度もなかったので、会社にするしかなかったんです」と、のちに述懐していました。顧問は、農村医療のパイオニア、佐久総合病院の名誉院長の若月俊一さんです。
お立ち台のあるディスコ「ジュリアナ東京」で名を馳せ、数億円の豪邸を建て、高級外車を乗り回すという人物が引き継いだ、後のコムスンとは雰囲気がかなり違いました。
若月さんからも声がかかり、私は例のスライドを抱えて福岡に向かいました。そして、24時間対応のホームヘルプを受けて自宅で笑顔で暮らしているデンマークのお年寄りと日本で「寝たきり老人」と呼ばれている人を対比して話しました。
榎本さんの決断は早く、92年8月には、福岡市、志免町、久山町の20世帯の家庭にナースとヘルプがペアで早朝夜間、訪問する事業が始まりました。日本初めての夜間巡回型介護サービスの実験です。
利用者の様子は目に見えて変わりました。
夜眠れるようになって介護者の血圧が下がった、優しく接することができるようになった、昼間散歩に連れ出せるようになり老母の足腰が強くなって自宅のフロに入れるようになった……。
連載を本にしてくださる出版社も現れました。ぶどう社です。真の豊かさへの挑戦を副題にした『「寝たきり老人」のいる国いない国』(写真A)は、手から手へと広まり27刷りを重ねています。
この本を手に、92年のはじめ、「町民に話してください」と訪ねてこられたのが、秋田県鷹巣町の町長になったばかりの岩川徹さんでした。
町民のみなさんにとって、とりわけ印象的だったのは、思い出の品々や家具を持ち込むことができる全室個室のプライエムの映像だったようです。
プライエムにあたるこの町の特別養護老人ホームは8人雑居。なにより笑顔が違っていたからです。講演の3カ月後、ワーキンググループの発足し、10の小委員会に分かれたとき、もっとも人気があったのが個室の特別養護老人ホームのプランをたてる委員会でした。
そこへ、当時の日本船舶振興会、いまの日本財団から夢のような話が舞い込みました。「個室の高齢者施設をつくるなら15億円を無条件でプレゼントしましょう」というのです。振興会のブレーン、聖路加国際病院の日野原重明さんの信念から生まれた案でした。
ところが、このプレゼントを町の議会が「贅沢すぎる」と蹴飛ばしてしまいました。町民はがっかりしました。
個室の施設の計画が難航する中で、新町長は社会福祉協議会のスタッフを増やして在宅サービスを充実する作戦をとりました。グラフをごらんください。岩川さん当選後に劇的に変わっています。
ホームヘルパーの待遇も役場なみにしました。「女なら誰でもできる仕事」と軽んじる悪しき常識を破る英断でした。着任当時5人だったホームヘルパーは93年には30人に。そのような基盤を整えた上で、自治体として初めての「24時間対応のホームヘルパー派遣」に踏み切ったのです。
写真Bの真ん中は69歳で難病の妹。右の72歳の姉が介護してきました。左のヘルパーさんは、故郷の町が福祉を重視するようになったと聞き東京からUターンしてきた女性です。このような支援がなければ、高齢の姉は体を壊し、二人そろって入院という事態になったことでしょう。
写真@は02年5月の福祉と医療・現場と政策をつなぐ「えにし」ネットの集いでの榎本さんです。この1カ月後、大腸癌と分かって手術。すでに肝臓に広く転移しており、翌年3月20日朝、自宅で死去。亡くなる1カ月前に自ら書いた「惜別の言葉」には、こう記されていました。抜粋します。
74歳の人生を終わるに当たって、平凡な人間であった私に、多くの優れた方々が様々な激励と御支援を下さったことを深く厚く感謝申し上げます。公的介護保険は、日本の高齢者・障害者に福音をもたらす日本国民の優しい英知であろうと思います。保険給付は、額において不十分であり、質においても十分なものではありません。しかし、質量ともに拡大していくことが可能であると思います。介護という仕事が、人を支え励まし、誇りある人生の結実に役立つことを信じております。さようなら
写真C手前の車いすの男性は、岩川町政を支えたワーキンググループの老練なリーダー、橋本正雄さんです。福祉VS反福祉の激しい抗争の中で血圧が上がり脳卒中で半身不随に。一時は写真のように持ち直したものの、病状が悪化して亡くなりました。
福祉派住民はリーダーを失い、岩川さんは町議選に破れました。
質量ともに日本最高水準にあった鷹巣町の福祉は、いま、橋本さんや榎本さんの願いとは逆方向に動き始めています。