今回は懴悔です。
2000年に始まった介護保険制度、賛否入り交じるなか、批判の矛先が、思いがけなく私にも向けられました。
「介護保険制度は、ぼけの施策が手薄なのが問題だ。朝日新聞が寝たきり老人中心のキャンペーンをしたせいだ」
そうかもしれません。認知症のお年寄りが縛られたり閉じ込められたりする実態を批判する社説はたくさん書きました。けれど、「では、どうしたらいいのか」についてのきめ細かな説得力ある提言は不足していました。
といっても、皆無だったわけではありません。
たとえば、「痴呆性老人を見捨てない町 スウェーデンの実験」という1989年6月6日号の朝日新聞の『アエラ』の記事です。抜粋してみます。
はじめ、そこに住む人々が「ボケ」とは信じられなかった。皆さん、華やかな柄のワンピースを着ていた。髪の手入れも行き届いている。ところが5分もしないうちにこの人たちのボケが尋常ならざるものだとわかった。(略)
道案内役、王立工科大学客員研究員の建築家、外山義さんは千代紙を持参して、みんなの目の前で鶴を折ってみせ、流暢なスウェーデン語であっというまに親密になった。
そのフロアは5戸からなり、4戸が各人の居宅。残り一つは共同で使う食堂、居間それに職員の部屋になっていた。居宅は、居間、寝室、ダイニングキッチン、トイレ・シャワー室、玄関。しめて60平方メートル。これにベランダが付く。
ある居間の本棚には難しい本が並んでいた。かつての家の内装をホームヘルパーから聞き出して、わざわざそっくりまねたのだ。過去を断ち切らないことが肝心なのだという。
介護職員はお年寄り8人にフルタイム換算で9人。昼3人、夕方2人、夜間1人。日本の特別養護老人ホームや老人病院の介護人員の倍以上に相当する。
職員の訓練は行き届いている。親しく抱き合ったり、おしゃべりしたりはするが、お年寄りを子ども扱いしない。高齢者への尊敬を忘れない。叱りつけたりなどあり得ない。
認知症の人の人生と尊厳を大切にする、人手を十分かける、など、いまの日本にとっても、示唆に富んだ実践が紹介されています。
アエラ編集部から高齢者特集の相談をうけたとき、スウェーデン留学中の当時は無名だった外山さんを紹介し、グループホームについての日本初のルポのきっかけをつくったのは、私の数少ない自慢のタネです。
認知症のためのグループホームの実験が始まっていることを耳にしたのは、「寝たきり老人」の理想的なケアを求めた85年の旅の訪問地スウェーデンでのことでした。
その2年後、デンマーク調査でご一緒した札幌医大教授(当時)の前田信雄さんから「貧乏しながらスウェーデンでいい研究をしている青年がいる」とききました。それが外山さんでした。アエラから相談を受けたとき、この2つが結びついたのです。
写真@は、いまは国会議員の山井和則さん撮影のスウェーデンのグループホームです。山井和則さんは、93年、『スウェーデンのグループホーム物語』(ふたば書房)を出版しました。認知症グループホームのパイオニアである、バルブロ・ベックフリスさんの著書の翻訳に、舞台となったバルツァー・ゴーデンでの一週間の体験記を加えたものです。
ただ、残念なことに、いずれも、「現実離れした遠い北欧の話」としか、当時は受け止めてもらえなかったのです。
一方、知的なハンディを負った人々のためのグループホームは、この年、89年1月に大蔵省の予算査定を通り、制度創設が確実になっていました。 後に宮城県知事になった浅野史郎さんや専門官の中澤健さんたちの夢が実ったのです。
87年9月、障害福祉課長に着任した浅野さんは7つ原則を告げました。
1.仕事は時間の長さではない。中味でこそ勝負すべし。
2.儀礼的な挨拶原稿の力は抜いて本来の課題に正面から取り組め。
3.すべて隠すことなく、情報や事態はガラス張りにせよ。
4.当課は何のためにあるかを考えよ。
本省の担当課は情報センターである。
毎日、県から来る人に障害福祉の情報を土産として要求せよ。
出張の折あらば、現場を見、現場の人と語れ。
5.大会、シンポジウム、研究会などにはできるだけ出席せよ。
6.親や団体としっかり付き合え。これらの人の言葉の重みをしっかり受け止めよ。陳情や要求の機会をゆめゆめおろそかにするな。
7.思想を言語化せよ。自分の担当している仕事について自分の考えを文章化する努力をせよ。
この2年前、専門官の中澤さんは国としてグループホーム制度をつくりあげるべきでと提案していましたが、局内で却下されていました。反対理由は2つありました。
「厚生省はこれまで福祉施設が必要だと予算要求をしてきているのに、今後は施設がいらないかのような要求をすると、親たちの期待に応えられなくなるのではないか」
「養護施設の小舎制を国が正式に認めていない段階で障害福祉施策の中でグループホームを制度化するのは厚生省の施策の一貫性上、問題があるのではないか」
ところが浅野さんは2度目の課内会議でグループホームを制度化する方針を、熱をこめて語りました。「歩けない人に車いすが必要なように、知的なハンディのある人にはグループホームが必要」と。
前職の北海道庁福祉課長の時代にグループホームの実践現場を体験していたこと、そして「できない理由を考えるより、できる方法を考えよう」という信念、これに中澤さんの情熱が火をつけたのでした。
"浅野七原則"は、「ミスター介護保険」とか「歩く介護保険」とか呼ばれ、従来のお役所の掟を破った人々の行動と不思議なほど共通しています。
話を認知症のお年寄りに戻します。地域密着・小規模・多機能の日本での歴史はスウェーデンの情報に接する機会のない人々の間で始まりました。源を遡ると、83年に開設された「デイセンターみさと」にゆきつきます(表)。
当時のデイサービスは公立に限られ、「ぼけ老人は手がかかるからお断り」とはねつけたり、送り迎えを義務付けたり、回数を制限したり……。家族は、自身が過労で倒れるか、親を精神病院に入れるかの過酷な選択に追い込まれました。
「毎日でなくてもいい、ときおり預かってくれる場を!」と、小学校のお古を譲り受けた17坪のプレハブの建物で始めたのが「デイセンターみさと」でした。
この活動に勇気をえて、87年、千葉に稲毛ホワイエ(写真A)が誕生しました。
田部井さんを招いての一泊の研修会に参加したのが日赤病院の看護婦だった惣万佳代子さんと西村和美さんです。93年、惣万さんたちは病院を飛び出して、ケアの世界に飛び込みました。
内科病棟を退院して老人病院に移ったお年寄りたちの悲しい姿を見たからでした。まげを結って表情豊かだった老婦人が髪を短く刈り上げられ、仮面のような顔になっていました。おむつをつけられ、それを外さないように手足を縛られている男性もいました。
「どうして畳の上で死なれんがけ」という訴えが、耳にこびりついていました。
田部井さんの話をきいて惣万さんの決心は固まりました。「田部井さんは18坪のプレハブから始めた。私には80坪の土地と20年の看護婦経験がある」
退職金で富山市内の住宅街にピンクの外壁の大きめの家をつくりました。無認可のデイケアハウス「このゆびとーまれ」です。絵入りの利用案内には、こうありました。
「笑いのある、楽しいひととき」
「だれでも、必要な時に、必要なだけ」
「年中無休」「手続きも簡略」
赤ちゃんも、手助けが必要な障害をもつ人も、物忘れの激しいお年寄りも、申し込めばその日から利用できます。必要なら、「お泊まり」も引き受けます。
認知症のお年寄りが、赤ちゃんを上手にあやしたり、利用者だった知的障害をもつ青年が準スタッフになったり(写真BC)
「小規模・多機能・地域密着」の元祖は、島根県出雲市の「ことぶき園」(写真D)です。特別養護老人ホームで20年働いていた槻谷(つきたに)和夫さんが、自宅を建てようと貯めていた資金をはたいて、87年につくりました。90年代のはじめにここを訪ねた私に槻谷さんはいいました。
「大規模な特養ホームで働いたことがあります。人里離れたところに設けられていて、面会者はほとんどありませんでした。ところが、近所のお年寄りが入所したら、家から家族が夕食のおかずをたびたび持って来て、とてもしあわせそうでした」
「家庭的な環境でお世話したかった。町なかで地域とのつながりを持ちながら、これまでと同じように生活してもらいたい。人間には住み慣れた場所に住む権利があるんです。少人数だといつも顔を合わせることになり、顔なじみの人間関係ができるとお年寄りは安心できます。」
この挑戦に触発されて福岡で新たな試みを始めたのが、「託老所」を「宅老所」に改めたことでも知られる「よりあい」(写真E)の下村恵美子さん、槻谷さんの日本福祉大の後輩でした。
梶谷さんは、開園して5年目の1992年に自費出版の本を出します。いまは絶版となったその本『誰もが望む老人ホームづくり〜小規模多機能型老人ホームを実践して』のあとがきで、設立当時からの願いを切々と訴えています。
1.小規模(5−10)のホームも公的認可事業としてほしいこと。住み慣れた地域にあること
2.小規模・多機能のホームにしてほしいこと。いつでも必要な期間や時間が本人や家族の事情により選べること。
3.プライバシー、人間の尊厳が守られるホームにすること。
この願いが、制度として日の目をみるまでには、20年近い日々が必要でした。