すべてのページに「取り扱い注意」と「マル秘」のハンコが押されている黄色く変色した未公表の報告書(写真@)−−それが、今回の物語の主人公です。
多くの教科書や論文は「介護保険制度の歴史は1994年に始まった」と記しています。
人々が、そう思うのも無理もありません。
この年の4月、高齢者介護対策本部が厚生省に創設されました。
7月には高齢者介護・自立支援システム研究会が発足し、その年の暮れ、研究会が社会保険方式を含む介護保険の骨格を提案したのですから。
けれど、それは、オモテの歴史。
マル秘報告はその1年以上前、93年の夏と秋につくられたものです。夏のものは、「中間報告」で、そのときの制度設計案は「独立保険」でした。秋の「第二次中間報告」では別案として老健制度活用案を示しています。
89年の介護対策検討会報告(※ワードのファイルです)が介護の社会化の「受精」段階、94年のシステム研究会報告が「赤ちゃん誕生」とすれば、93年のマル秘報告は「妊娠3カ月」といったらよいでしょうか?
出産後の赤ちゃんの目鼻だちから指先までしっかりできているのに驚きます。粗削りながら介護保険制度の基本概念のほとんどが書き込まれています。
そればかりか、それから12年たった、2005年の改正介護保険法案や障害者自立支援法案につながるものまで含まれているのです。
たとえば、「全額公費から社会保険方式へ」という節には、次のように書かれています。
・平均2.5か月の寝たきり期間の発現率は、ガンや脳卒中より高く、本人や家族への影響は重篤。
・短期間、飛躍的なサービス充実のためには公費依存方式には限界。
・2つの方式が考えられる。ひとつは、市町村を保険者、20歳以上を被保険者とする独立の社会保険制度。もうひとつは現行の老人保健制度拡大するもの。
・本人負担は1割。支払えない場合は市町村が立替払え、場合によっては、死後、遺産から徴収。
・食費・高熱水費・日常生活雑費は給付対象外。
・若年障害者にも自立支援サービスのニーズは存在するが、高齢者とは別に制度を設けることが適切。高齢者へのサービスを障害者も利用できるようにするため暫定的に、制度の中で老人に準じた給付を規定する対応も考えられる。
「高齢者自立支援保険制度の創設試案」という節には、当時としては実に斬新な次のようなキーワードが並んでいます。
・市町村が委嘱し、本人の代理人をつとめる自立支援サービス管理士(ケアマネジャー)
・要支援ランクを管理士が判定
・組み合わせるべきサービス、行われたサービスを評価する自立支援サービス管理(ケアマネジメント)
・管理士に情報提供、助言をおこなう在宅介護支援センター
・サービス調整チーム
・自立支援サービス計画(ケアプラン)
給付も現在の6段階方式の原型というべき4段階の試案が示されています。
表@は在宅給付です。
「給付上限」は、超重度・重度で月額23万、中度17万、軽度11万円。
在宅給付は、深夜を含む介護支援、家事支援、配食サービス、デイサービス、ショートステイ、歯科医療を含む在宅医療サービスなどが「現物給付」。
「現金給付」として、後に賛否で揉めた家族介護手当て。「償還払い」として住宅改造助成、福祉機器のレンタル、おむつ。
表Aは施設給付です。老健施設は「短期家庭復帰支援センター」という名で登場しています。
このようなシステムとサービスは、ベント・ロル・アナセン・ロスキル大教授の日本へのアドバイスに奇しくも一致します。教授は、デンマークの元社会大臣で高齢福祉の父と呼ばれ、自治体行政と経済学が専門です。
89年秋、東京で開かれたシンポジウム「寝かせきりゼロをめざし北欧の挑戦に学ぼう」での基調講演を抜粋して箇条書きにしてみます。
☆大切なのは、イェルプ・ティル・セルイェルプ(hjaelp til selvhjaelp)、セルフヘルプができるように支援することです。
☆必要なサービスについて助言し、自立支援をマネージするのは、デンマークの場合は、福祉と医療の知識と経験をあわせもつ訪問ナースです。
☆デンマークでは、ホームヘルパーと訪問ナースの24時間体制の在宅支援システムを約半分の市町村がもっています。残りの市町村も朝7時から夜11時までの体制です。こうすると、かなり重度の障害をもった人でも自宅で暮らし続けられます。
☆体が不自由な人や料理が苦手な高齢者のために、市町村の責任で365日食事を届けています。
☆不自由な手で食事をするための小道具、電動ベッドや車いすを提供したり、住宅改造をするのも市町村の役目です。
☆孤独にならないように、様々な種類のクラブ活動やデイセンターが用意されています。クラブや医師や家族を訪ねるための送迎サービスも個人負担はありません。
☆財源は市町村が独自に定める市町村税です。市町村に財源と権限があると、対応が早くなります。サービスを有機的に連携させることが可能です。
☆24時間の在宅支援サービスには、安心感と同時に、経済性もあることが分かりました。
左の写真はアナセンさんが住むネストベッズ市での風景です。右の男性は脳卒中の後遺症で左半身が不随です。けれど、車いすで階段を降りられる仕掛けが、入院中に取り付けられていましたので、動く右半身を活用して一人で外出することができます。
左は訓練を受けたプロのホームヘルパーです。「目は離さないけれど、手は出しすぎない」という自己資源を活用するワザが身についています。
真ん中は訪問ナース。自立を支援する住宅改造やホームヘルパーの派遣など、全体をコーディネイトしています。これぞ、まさに自立支援です。
ところで、マル秘報告書をつくったのは、老人保健福祉担当審議官だった阿部正俊さんと阿部さんが選んだ若手からなる省内検討チームでした。
厚生省を95年に去り参議院議員に転じた阿部さんは、懐かしそうにいいます。
「自立支援サービス管理士は私の命名です。審議官室に各局の課長補佐クラス10人くらいが週2回、夕方から2時間ほど集まって、メモをとりながらカンカンガクガクやりました。分野ごとにレポートをつくって詰めていった。ほぼできあがったところで、各界の人を個別に招いてこちらの案をぶつけては、反応をみるという方法をとりました。みなさん批判はしても、対案はもっていないことが多かった」
そういえば私も「ご意見拝聴」の名目で阿部さんたちに呼ばれたことがありました。白紙状態で話をきいてくれると思っていたら、実は、腹案を小出しにしてこちらの反応を見るためだったのでした。
阿部さんは続けます。
「大蔵が介護のカネを出さないから社会保険を考えたという人がいるけど、誤解です。税金による措置制度とは違う新しい社会システムをつくりたかった。措置制度の下の与える福祉、お恵み福祉が嫌だったんです。」
阿部さんがそう考えるようになったのは、生い立ちと関係があるかもしれません。
5歳のとき、片目を失ったのです。二人の兄と金太郎さんごっこの最中のことでした。末っ子の正俊少年が左手にマサカリの代わりの火箸を握って「マ〜サカリ担〜いだ金太郎♪」と歌に合わせて回っているうちにゴザにつまづいて転び、はずみで火箸が頬を突き抜けて左目まで刺さってしまいました。放っておくと右目もダメになるといわれ左目をそっくり摘出。成長するごとに夜行列車で上京してはガラス製の義眼を大きめのものにとりかえなければなりませんでした。
東北大法学部の学生時代には、週末に、肢体不自由児施設でのプールや花壇作り、乳児院の掃除などをするワークキャンプに熱中しました。その経験の中で哀れみを受ける福祉に抵抗を感じてきたのだそうです。
阿部さんの右腕は、官房政策課企画官だった間杉純さん(現・保険局総務課長)。介護対策検討会報告を担当した柴田雅人さん(第9話に登場)の3代後任で、和歌山県の老人福祉課長の経験者でした。
左腕は、埼玉県老人福祉課長から戻った香取照幸さん。後に「介護保険の鉄人」と呼ばれ、介護保険の制度化のカナメのひとりになった人です。香取さんは、91年に畑和(はた・やわら)埼玉県知事の指示でデンマークを訪ね、アナセンさんの講演を現場で確かめてきていました。
「"黒子"だからなにも話せない」という香取さんに「デンマークで学んだことは?」と尋ねたら、こんな答えが返ってきました。
「ひとつは、補助器具や自助具を使った自立支援の思想。もうひとつは、デンマークでやっていることは凄い。でも、ものの考え方を整理し、手順とカネの出し方を考えて徹底してやれば、日本でもできるという確信でした」。