物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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写真:若き日の中村秀一さん

 お役所を手放しで褒めるという、朝日新聞の社風にはなじまない社説を初めて書いたのは、1992年3月3日のことでした。「脱・お役所仕事に期待する」というタイトルで、褒めた相手は若き日の中村秀一さん(写真)です。
 中村さんは、90年7月、大臣官房老人保健福祉部の企画官から老人福祉課長になり、91年4月、この課が計画課と振興課に分かれてからは老人福祉計画課長に。
 ゴールドプランに血を通わせる政策を次々と打ち出していきました。

 ただ、その陰に、"労働基準法も真っ青"という日々があったことはあまり知られていません。当時の部下たちがこもごも打ち明けます。
 「企画官として隣室におられたときのニックネームは『隣のトトロ』。優しそうな人、という評判だったのですが、課長として来られたら、まるで違って……」
 「深夜1時が近づく。電車がなくなりそう。課長はまだ帰らないのかなあ。ワープロの蓋がしまる。さあ帰れるかな、と思っていると、『よし、集まって打ち合わせをしよう』と声がかかり、1時間ほど矢継ぎ早に指示が出る。その日、課長のアタマにヒラメいたアイデアです。そして、『じゃあ、朝一番に答えを持ち寄ろう』といって颯爽と帰っていかれる。朝一番という指示だから、われわれは、徹夜ということに……」
 「当時は、課ごとに鍵があって管理室に戻すのだけれど、中村課長時代の2年間、鍵が戻ったのは、2度の元旦だけでした」

●緊急の場合はまず派遣、手続きはあとでも●

 90年に始まったゴールドプランの中で、特に注目されていたのはホームヘルパーでした。国会のこの分野の質問の8割を占めていたほどだそうです。
 中村さん本人は81年から3年間スウェーデン大使館に出向していました。巡回型ホームヘルパーの仕事もつぶさに体験。電気や水道のようなごくあたりまえなサービスであることを肌で知っていました。
 けれど、当時の日本では、ホームヘルパーは、「低所得の老人の家に週1回ほど掃除や洗濯などをしにくる人」と思われていました。朝の起床から夜の就寝まで、生活の節目節目にやってくるホームヘルパーなど、想像力が働かない存在でした。
 中村さんは、自ら筆をとって、「ホームヘルプ事業運営の手引き」を書きました。介護保険が始まる8年前としては、かなり過激な内容です。14話と重複するのですが、再度ご紹介します。

  • 退院と同時にホームヘルパーが派遣できるように、入院中から検討するといった工夫が必要である
  • 緊急の場合はまず派遣、手続きは後でかまわない
  • 15分でも長時間でも、また、早朝・夜間・休日でも、必要に応じて派遣すべきだ
  • 同居家族がいるからといって優先順位を下げるような要項は早急に撤廃すること
  • 回数や時間を制限する要綱等を定めている市町村は早急に改正すること
 手引きを褒めた社説は、県や市町村の意欲的な職員の説明資料として広く出回っていた、と後から聞きました。社説はテレビなどと違って簡単にコピーできます。おまけに、四角くまとまっているので便利だったのでしょう。

 この社説に注目した人々がいました。起きる、食べる、排泄するなど日常生活に介助が必要な重い障害をもつ若者たちが、中村さん作成の「手引き」を取り寄せ"バイブル"のように熟読して市町村を説得し、各地で自立生活運動を展開することになったのです。
 13年たった昨年夏、その中村さんが障害福祉行政の元締、社会・援護局長に就任したのですから、不思議な因縁です。

●村山富市さんが助け舟●

 働き方だけでなく数も問題でした。「2000年までにホームヘルパーを10万人に」とゴールドプランは宣言したものの、現実のヘルパーの数はどう甘く見積もっても3万人足らず。中村さんは、担い手の幅を広げる決心をしました。
 農協法を改正して農協が福祉事業をできるようにしました。農協がヘルパーの養成に参画し始めたのは、この時からです。さらに、生協、福祉公社、住民参加型組織、シルバーサービス……。

 ホームヘルパー志願を増やすため、1人あたりの手当を一挙に100万円上げて年間基準額318万円にしました。チームのまとめ役には63万円上積み。そのための予算の2分の1は国、4分の1は県が持ち、残り4分の1の市町村負担も交付税で裏打ちするという思い切った改善です。
 「介護は女なら誰でもできる仕事」という当時の風潮からは革命的でさえありました。
 こんな思い切ったことがなぜできたのか。私には長年謎でした。物語の取材で謎が解けました。かつての早稲田全共闘のリーダーで自治労のキーマン「ハムちゃん」、高橋公さん(連合社会政策局長をへて、自治労政治政策局部長、14話に登場)が社会党の国会対策委員長だった村山富市さんに頼み込み、いったんはダメになったこの予算の復活を宮沢首相に掛け合って調整財源から出してもらったのでした。
 「お礼に中村秀一から帝国ホテルでご馳走になったっけ」とハムさんは懐かしそう。
 いまは、時効の話です。

 褒めてばかりではジャーナリストらしくないので、「ホームヘルパーの待遇と質を高めようという理想は、実現していないように思うのですけれど」と中村さんに尋ねたら、こんな頼もしい答えが返ってきました。
 「去年の介護保険法の見直しの国会論議でも、介護労働者の労働条件が劣悪なことが結構、課題になりました。老健局としても、生涯のキャリアパスが必要と言うことで、香取照幸君が担当して堀田力、樋口恵子両先生の検討会でレポートをまとめました。社会・援護局もマンパワーに責任があります。自分で蹴上げたボールを拾いたいと思っています」

●"偏差値課長"の異名が●

 中村さんのこのような奔走にもかかわらず、当時の首長さんたちは、「ヘルパーを配置してもニーズがない」の一点張りでした。議員さんともども、特別養護老人ホームの新設には熱心なのですが、ヘルパーの配置は進みません。そこで、在宅サービスを推進するために思い切った戦術に出ました。
 「老人保健福祉マップ数値表」に命を吹き込んだのです。
 この数値表、数字だけ並んでいて無味乾燥この上もありません。誰も読まない、と衆目一致していたこのデータを加工して、サービスの提供体制が一目でわかるようにグラフ化したのです。
 「守備、投手力、打力の各要素でチームの特色をみるように、施設サービス、在宅サービス、老人医療費などが全国平均からのどれだけ外れているかを偏差値であらわすことにしたんです。全国社会福祉協議会から出向していた調査係の松島紀由君(現・全社協企画部副部長代理)が、がんばってくれました」

グラフ@クリックで拡大

 パソコンが1人1台の今と違い、コンピューター室の端末が老人保健福祉部に1台与えられているだけ。それが、使い手もなく、総務課と計画課の通路で埃をかぶっていました。松島さんは回想します。
 「ゴールドプランの進捗状態が分かるようにしてくれ、と命ぜられて、必死に考えて、毎日20時間くらい入力していました。全社協で児童養護の実態調査を担当していたのでデータの加工くらいはできました。幸運なことに全社協と同じタイプのコンピューターだったのです」
「91年の夏でした。夜になると役所は8時で冷房が切れる。計画課は連日徹夜ですから、みんな気の毒でした。ぼくは、夜も冷房の入る唯一の部屋、コンピューター室で、みなさんに申し訳なかった」

 91年の秋、「在宅福祉先進型」「施設偏重型」と分類をし、自治体ごとの順位が分かる"成績表"を棒グラフ(グラフ@・クリックで拡大)やレーダーチャート(グラフA)のような形で、いよいよ公表ということになりました。(当時のものが我が家のブラックホールに吸い込まれてしまっているので、ここに載せたのは伝統を引き継いだ、後のものです)
 「役所がこんなことをするなんて前代未聞です。課長は、『今やらなくて、いつやるんだ』と。その表情から、この方は本気でやる気なんだと思いました」
 NHKはトップニュースで取り上げ、地方紙も一面トップ。自治体は戦々恐々。調査係には劣等生とされた市町村から、泣きそうな声の電話が相次ぎました。中村さんは、たちまち「偏差値課長」と命名され、恨まれることになりました。

グラフA グラフA

●「家族の介護力を過大に評価しないよう十分留意されたい」●

 中村さんにまつわる3つめの"褒める社説"は「老人保健福祉計画策定マニュアル」を紹介したもので、92年6月30日に課を去った後の7月23日に載りました。
  90年の福祉8法改正で、全国の市町村に老人保健福祉計画の作成が義務づけられました(14話)。すべての市町村に行政計画の立案を義務づけた法律は自治体行政の歴史上、例がありません。辻哲夫老人福祉課長からバトンタッチされた中村さんは検討会(大森彌座長、京極宣副座長)を設けました。シンクタンクにマル投げする市町村が続出する中、お役所ばなれした次のようなマニュアルが誕生しました。
・必要量を算定する際には、家庭の介護力を過大に評価しないよう十分留意されたい
・介護を必要とする人全員を調べ
・国民健康保険のデータなども活用して入院中の老人についても調べるように

 私はこんな風に書きました。社説なので偉そうな表現で恐縮です。
 「これまでは、家族の介護力をアテにし、役場の窓口で申請を待つだけだった。孤軍奮闘し疲れ果てた家族は、高齢者を病院に連れていく。家族のきずなは損なわれ、老人の入院医療費は増え続けてきた。
 市町村が真剣に計画作りに取り組めば、要介護の高齢者をめぐる日本独特の家族の悲劇を減らすことも期待できよう。厚生行政としては画期的な転換である」
 日本医師会からのオーケーがなかなかとれず、任期最後の6月30日の部長決裁でようやく間に合ったことを知ったのは、ずっと後のことでした。

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