物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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 介護保険制度の実現を、首長集団として支えた「福祉自治体ユニット」には、4人の代表幹事がいます。初代の中の2人が、今回の物語の主人公です。
 ご両人には共通点が3つあります。
 その1・介護保険の骨格が厚生省の中で密かにつくられていたころ(第17話「マル秘報告書と"黒子"たち」)議員だった。
 その2・ノーマライゼーション思想に触れ、自身の政策の中心に据えようと決心していた。
 その3・ひとりは焼き鳥、もうひとりは鰻を商う家で育ち「お客様本意」を身につけていた。

■「そんなことをしていたら選挙に落ちます!!!!!!!」■

写真@:国会議員時代、勉強熱心さで千葉さんを驚かせた光武顕さんは、いまは佐世保市長

 私の前にまず現れたのは、"焼き鳥を焼かせたら国会議員随一"という衆院議員、光武顕さんでした(写真@)。突然、ご本人から電話がありました。1992年の秋のことでした。
 「自民党の当選1−3期の20人でつくっている中期政策研究会の座長になり勉強中です。国会図書館で調べてもらって、貴女が書かれた『「寝たきり老人」のいる国いない国』に出会いました。ついては、その背景をくわしく話していただけないでしょうか」という丁重な申し出です。
 政界とは縁の薄い科学部出身の私と光武さんの長いおつきあいの、それが始まりでした。

写真A:リュック一つでデンマークに渡った千葉忠夫さん

 座長といえば聞こえがいいのですが、「そろそろ解散がありそう」という噂が飛びかっていて、どの衆院議員も地元対策が最大の関心事という時期、座長の引き受け手がなく、「年が上という理由で祭り上げられてしまった」のだそうです。
 光武さんは当時のことについて、こう、打ち明けます。
「選挙に強くないし、困ったなあと思いながら、でも調べていくうちに、すっかり嵌まってしまい、国会図書館の職員から、『ご自身でここに、こんなにしばしば来られる議員は、先生ぐらいのもの』といわれました。そのうちに、高齢社会の報告に頻繁に出てくる北欧を自分の目が見たくなったのです。秘書は、『そんなことをしていたら、次の選挙に落ちます』とヤキモキし、北欧行きには大反対だったのですが……。」
 そんな選挙事情も知らず、私はデンマークの千葉忠夫さん(写真A)を紹介しました。

■「国会議員なのに、大学ノート2冊にぎっしり」■

 千葉さんは67年、26歳の春、リュック一つでデンマークへ渡りました。養豚農家に住み込み、働きながら言葉を身につけ、福祉を学び、現場で経験を重ねました。そして、50歳に近づいた時、廃校になった小学校を買い取りました。
 アンデルセンの生まれ故郷として有名なオーデンセの隣のボーゲンセ、童話の絵本から抜け出したような町です(写真B)。廃校を、少しずつ自力で改造して(写真C)いました。それを、この国独特のフォルケ・フォイスコーレという生徒と先生が寝食をともにする学校として申請し、デンマークと日本の福祉の懸け橋になろうと決心している、そういう人物でした。

写真B:絵本から抜け出したようなアンデルセンの生まれ故郷オーデンセ 写真C:その隣まちのボーゲンセの廃校になった小学校を買い取ってデンマーク福祉を体験する拠点に

 光武さんの回想は続きます。
「党から視察の旅費をもらえるものと思い込んでいたのですが、バブルがはじけて、梶山幹事長は、出せないという。なけなしの貯金を下ろすことになりました。ただ、国会議員の特権で、現地では車を出してもらえる。これはありがたかった。」

 一方、光武さんを迎えた千葉さん。まるで、気乗りがしませんでした。
「当時のことを思い出していただいけませんか」とメールでお願いしたところ、「忘れられない体験です」と長文のメールがとどきました。抜粋してみます。

 在デンマーク日本大使館から衆議院議員が高齢者福祉施設を視察希望されているので案内してもらいたい旨の電話連絡がありました。
 正直なところ、な〜あんだ国会議員か、施設をちょっと見ただけで、「もういいよ。何処か土産物を買えるところを案内してくれないか」と言われるのが関の山だろうと、期待も何もなくその日を待ちました。
 大使館の外交官用ブルーナンバープレートの車でセンセイが到着。「衆議院議員の光武顕です。デンマークの高齢者福祉について勉強させて頂きたいのでよろしくお願いします」と丁寧な挨拶があっても、心の中で、いつものとおりの議員サンなんだろうなと思い続け、施設訪問を始めました。ところが、通訳したり、解説したりしている時、ふとセンセイの手元を見ると、なんと大学ノートに熱心にメモをとっておられるのです。
 光武さんは東大大学院の出身。長崎県議会議員になる前は教職の経験もあるので「大学ノートにメモする」のはごく自然のことでした。でも、国会議員の「視察」に辟易している千葉さんにとっては、前代未聞のできごとでした。千葉さんのメールは、続きます。
 午前、午後と研修が続き、北欧の冬のことゆえ、既に外は真っ暗。そろそろ「もういい」とおっしゃられるに違いないと思っていたら、「千葉さん、まだ、質問していいですか?」
 むっ!今までのセンセイとこのせんせいは違うぞ。
 わたしは急に嬉しくなり「どうぞどうぞ、ご満足いくまでご質問ください」
 なんとその後2時間あまり続行、先生の大学ノートは2冊目になっていました。
 「千葉さん、私は自分の政治生命を社会福祉にかけているんですよ!」
 何ですって?私と同じではありませんか!この方は本当の先生だ!。
「私は、デンマークで学んだことを国会で絶対に活かしていきます!」
 万歳!バンバン歳!!
 「先生国会で是非国民のための政治をよろしくお願いいたします」

■高齢福祉政策の報告書完成の日に国会解散■

 帰国した光武さん、国会図書館にこもって、報告書の執筆に没頭しました。
 「原稿用紙で30枚くらいになったでしょうか。2時間ほどウトウトして午前5時に完成しました。宮沢内閣が不信任され、解散になったのはその晩のことでした」

 デンマークの千葉さん、衆議院解散のニュースを聞くや「日本に行って光武先生の選挙活動を応援する」と言い残し、デンマークを飛び出しました。それほど、光武さんに惚れ込んでしまったのでした。千葉さんからのメールはさらに、続きます。

 佐世保の選挙事務所に私が現れるや事務所の人々は何者の到来かと私を舐めるように見回したものでした。
「デンマークから光武先生の選挙の応援に来ました。おにぎりを食べさせていただいたくだけで結構です」
 選挙事務所の誰も信じてくれない、困ったなあ〜!
 運良く光武先生が事務所に戻って「おっ!千葉さん」
「先生応援に参りました」
「ありがとう」
 私は光武先生と選挙区を回り「道路や鉄道、港を整備すると公約する候補者はいます。光武先生は皆さん誰れもが必ず通る道、必ず渡る高齢社会の橋をかけようとしている先生です。どうぞよろしくお願いします」
 投票日の前日まで光武先生と選挙区を回り、私なりに確かな手応えを得たので「当確」と安心して佐世保を後にしました。
 空港のホテルで開票結果を深夜まで、特に長崎2区に注目していました。結果はなんと、細川旋風に吹き荒らされ、現職議員であった光武先生は落選!「日本国民よ 真の政治家を選んでください!」叫びたい思いでした。

■ノーマライゼーションの父の驚愕■

写真D:手術後にもかかわらず、ノーマライゼーションについて優しく語るバンクミケルセンさん 写真E:日本の老人病院の写真を見せたら目玉が飛び出そうなほどびっくりしたバンクミケルセンさん

 私と千葉さんの縁は、89年の7月に遡ります。
 「ノーマライゼーション思想の生みの父」と呼ばれるニルス・エリック・バンクミケルセンさんが千葉さんとともに来日するというので、私はインタビューの約束をし、わくわくしていました。
 そこへ、「大腸癌再発、訪日中止」の知らせです。
 私は、貯金を下ろし、飛行機に乗り込みました。この世で会えなくなったら一大事、と思ったからです。写真Dは、コペンハーゲンの病院の回復室で最初に写したもので、実に穏やかな表情です。
 それが一瞬にして変わりました(写真E)。日本の老人病院の風景を見せたからです。

写真F:光武さんを驚かせたデンマークの安心福祉

 障害が重くても、老いても、病んでも、死が間近にせまっても、人は「ふつうの暮らし」をする権利があり、社会にはそれを実現する責任がある」というのがノーマライゼーションの本来の考え方です。
 デンマークでは、バンクミケルセンさんの奔走で、知的障害をもつ人のための法律に59年、盛り込まれました。
 高齢福祉の世界も、同様な考え方で政策が進められてゆきました。
 写真Fは、自分ではベッドから起きることも、トイレの始末をすることもできない老婦人です。それでも、ホームヘルパーや訪問ナースや家庭医の支援で、住み慣れた自分の家に住み続け、「ふつうの暮らし」を味わっていました。

 光武さんはいいます。
「デンマークで私は、お年寄りに会うたびに尋ねてみました。何か不満はありませんか?と。そうしたら、老婦人たちからこんな答えが返ってきました。男性の寿命が短いので、年取ってからの男女のバランスが悪いのが不満といえば不満かしら、と」
 95年、光武さんは佐世保市長に立候補しました。そしてこんどはめでたく当選したのでした。
 光武さんがデンマークで本場のノーマライゼーションに出会っているころ、日本生まれのノーマライゼーションに接して、人生観が変わった政治家がいました。

■「町が障害者に解け込んでいる」■

 埼玉県東松山市の市議会議員、坂本祐之輔さんです。87年32歳で初当選。90年には、厚生文教常任委員長になっていました。市内の障害児の通園施設を訪ね、リーダーの佐藤進さん(現・埼玉県立大教授)からノーマライゼーション思想の話をききました。そして、信楽焼の里で村人とごくふつうにまじわって働く知的障害のある人を描いた映画「しがらきから吹く風」を見たのです。

写真G:ノーマライゼーションを政策の中心に据えた東松山市長の坂本祐之輔さん は、障害のある子とない子が学ぶ場をしばしば訪ねます

「障害者が町に解け込んでいるのではなくて、町が障害者に解け込んでいるという映画でした。涙がとめどなく出てきてしまって。それで、市議会議員として何ができるんだろうか、東松山にはこういう障害者はどのくらいいるんだろうかという素朴な疑問が始まって……」
 この思いが高まって、94年市長選に出馬。当選。
 坂本さんのノーマライゼーションは福祉だけでなく教育にも広がっているのが特徴です(写真G)。重い障害がある子が普通の学級に溶け込める施策では日本の最先端を走っています。

 福祉自治体ユニットの代表幹事の人選について、当時の鷹巣町長、岩川徹さんから相談を受けたとき、光武さんと坂本さんを思い浮かべました。
 ノーマライゼーション思想を身につけた数少ない首長さんだと思ったからでした。

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