物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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 憲法が論議されるときは、自衛隊が焦点になり、平和憲法について語られます。
 けれど、この憲法のもう1つの大きな特徴は、103項の3分の1を占めている人権の項目にあります。なにしろ、この憲法ができるまで、日本には「人権」という言葉がなかったのですから。

ベアテ・シロタ・ゴードンさん

 選挙権も相続権もなかった日本の女性に人権の扉を開けたのは、ベアテ・シロタ・ゴードンという、当時22歳の女性でした。
 ベアテさんは、リストの再来と呼ばれた高名なピアニスト、レオ・シロタ氏を父にもち、15歳まで日本で育ちました。
 そして、マッカーサー元帥の率いる連合国最高司令部(GHQ)のスタッフとして再び来日。憲法草案を起草するメンバーとなりました。

 ベアテさんは当時のことをこう話してくれました。
 「日本政府の男性たちは、草案の男女平等のところにくると、強く反発しました。『日本には向かない。日本には、女が男は同じ権利をもつ土壌がない』というのです。まとめ役のケーディス大佐が『これは、日本をよく知っているシロタ嬢が、日本の女性の気持ちを考えながら一心不乱に書いたもの』と押し切ってくれました」

■もう1つの「贈りもの」■

 このときのいきさつは「ベアテの贈りもの」という映画もできて、次第に知られるようになっているのですが、別の分野の「贈りもの」の主は、これまでまったく知られていませんでした。
 突きとめたのは、「物語」の第3話「自立VS自立」にご登場の埼玉県立大学教授の丸山一郎さんです。

 身体障害者福祉法の起源を求めてアメリカに渡った丸山さんは、GHQ民政局の7年間分の記録がワシントン郊外の公文書館の、体育館ほどもある書庫に残されていることを知りました。膨大な日々の記録や会議報告、日本政府を指導したメモ、日本側からの英文提出資料や投書とその英訳……。
 読み進んでいった丸山さんは、身体障害者福祉法制定に関連した「Ferdinand Micklautz」と署名した書類がおびただしくあることに気づきました。日本の記録にはまったく出てこない名前です。

フェルナンド・ミクラウツ氏

 インターネットで調べると、ハワイの死亡広告欄で2つヒットしました。
 間に合わなかった! 
 ところが読んでみると、亡くなったのは別の人で、フェルナンド・ミクラウツ氏は、遺族として死亡広告に名前が載っていたのでした。早速、ハワイ在住の友人に頼んで、電話帳を調べてもらいました。本人は見つからなかったのですが、ミクラウツという姓が20人。
 そこで、ニューヨーク在住のリハビリテーション専門家に頼んで片端から電話してもらいました。丸山さんは実に流暢な英語を話すのですが、「リハビリテーション専門家と名乗った方が怪しまれないと思ったから」だそうです。ミクラウツさんはGHQ民生局のリハビリテーション部門の責任者だったのです。
 友人は電話をかけ続けました。そして、6番目に出た人物が、「フェルナンドは、伯父です」。写真は、1日もはやく会っておかなければ、、とハワイに飛んだ丸山さんが2年前に訪ねたときのものです。その人は90歳になっていました。
 当時、ミクラウツさんはGHQの裏の三菱商事ビルに広い部屋をもち、日本政府の誰でも呼べるという立場にありました。そこに各省のお役人を呼んで身体障害者福祉法をつくりあげていったのです。まさに生き証人です。
 その口から3つの意外な事実が明らかになりました。

■「すべての障害」を念頭に、そして、世界初の障害差別禁止条項が■

 日本では、厚生労働省資料にさえ、「わが国の身体障害者施策は傷痍軍人対策として開始された。」と書いてあるのですが、事実は逆でした。
 法制定の1年前、ミクラウツさんが着任した1948年当時の米国の世論は、「傷痍軍人を支援の対象にするなどもってのほか」というものでした。
 米国の人々にとっての日本の傷痍軍人は、肉親を殺した相手、許せない存在だったのです。けれど、ミクラウツさんは、無差別平等を社会政策の原則に、と考えていました。
 そこで、一計を案じ、49年6月25日、米国向けの記者会見をセットして、こう発表しました。
 「日本で障害対策を始める。障害者は推定60万人、その60%は傷痍軍人で、リハビリテーションを施せば働ける。傷痍軍人にも他の障害者と同じ権利を与え、差別しない方針である。マッカーサー元帥も障害者の現状を憂慮しており、傷痍軍人も含めることに合意している」
 実は、マッカーサー元帥の部分は"創作"だったのですが、幸いお咎めはなかったのでした

 「意外な事実その2」は、ミクラウツさんたち米国側が、「すべての障害」を念頭においていたことでした。特に精神障害については、GHQの精神科ソーシャルワーカーや医療ソーシャルワーカーが積極的に検討に加わっていました。
 「physically handicapped」や「physical rehabilitation」のphysicalは、「身体」という意味ではなく、犯罪者や売春婦のリハビリテーション(更生)との区別するためだったのです。
 「3障害を同等に」は、障害者自立支援法の専売特許ではなかったのです。

 「意外な事実その3」は、法の第3条に世界初の「障害差別の禁止条項」が書き込まれたことです。ミクラウツさんが最重要課題と主張した結果でした。障害者差別を禁止するアメリカの法律、ADAが成立する31年も前のことでした。
 この条項はのちに削除されてしまうのですが……。

■若者たちの人生をかえた笑顔■

 身体障害者福祉法が成立したころ、長崎県佐世保で3人の男の子が誕生しました。この3人はのちに、この法律や介護保険法と深いかかわりをもつことになります。
 みんな工作が大好きでした。竹野広行さんは、いすず自動車のエンジニアに、光野有次さんは日立製作所の工業デザイナーに、松枝秀明さんは東京芸術大学の彫刻科に。
 その3人が東京のたまり場にして飲み明かしていたのが同郷の先輩の家でした。その家に、水頭症で、座ることさえできない浜副太郎くんがいました。松枝さんが彼のために、立つための道具をつくってみました。

 それを使って生まれて初めて立てたとき、太郎くんは実に嬉しそうにニコッと笑いました。その笑顔が、当時24歳だった3人の運命を大きくかえました。サラリーマンとしての安定した暮らしや芸術家への道を捨てて、誰も手を染めていなかった仕事にとびこんだのです。
 74年、東京の練馬に、わずか13坪の仕事場をつくりました。
 「でく工房」、「でくの坊」と「でえく」の掛けことばです。使ってくれる人と直接会って、必要なものを1つづつ、つくってゆきました。

 いすからずり落ちてしまう脳性マヒの子のために背もたれならぬ胸もたれのついたいす、歩く練習を楽しくするためのカタカタ、手が震える人のためのひっくり返らない皿や握りやすいカップ、畳生活ならではの「掘ごたつ式トイレ」、自然に訓練できてしまう滑り台……。
 手間がかかるけれど、利用者が気の毒で高くはとれません。注文が増えるほど、貧乏がひどくなっていきました。そこで、故郷の弓張岳にちなんだ弓張サービスという「世の中を明るくする会社」をつくって、街路灯の清掃などの肉体労働で暮らしを支えました。

■修学旅行用の格安旅館で■

 75年、松枝さんは同級生の恋人と結婚、福岡に「きさく工房」をつくりました。"きさくにつきあってほしい木作"という意味だそうです。
 83年、光野さんも故郷にもどり、みさかえの園という重症心身障害児の施設で、「寝た子を起こす運動」を始めました。
 志に共鳴して、同志は少しづつ増えてゆきました。80年の6月には、大津で第1回全国工房連絡会議が執り行われました。「全国」といっても当時、工房は5カ所しかなかったのですから、ずいぶん大風呂敷な名前です。

 もっとも「名前」のご利益か、88年には、図のように全国にひろがりました。
 89年の夏、私は東京・本郷で行われた3泊4日の「第10回全国工房連絡会議」に参加しました。工房は36カ所になり、全国から120人が駆けつけてきました。

 貧乏は相変わらずなので、会場は修学旅行用の格安の旅館にザコ寝です。スクリーンはシーツ。
 シャンデリアが輝くホテル、製薬会社の人が接待に走り回る医学系の学会しか知らなかった私は胸がしめつけられるほど感動してしまいました。
 スライドやビデオで映し出される苦心の作に歓声があがります。
でく工房出身の大学助教授荒井利春さんの開発した食器は、地元金沢の伝統産業と組んでつくった作品で、障害者用につきものの貧乏くささがありません。しかも安いのです。
 北九州市立総合センター・リハビリ工房の繁成剛さんは愛らしい遊具を発表しました。友だちからうらやましがられながら遊んで使っているうちに、いつのまにか、「寝た子」が起きていく、その様子が感動的でした。
 この繁成さんの存在が、工房の人々と身体障害者福祉法を結びつけ、福祉用具の発展につながってゆくのですが、それは次の回でご紹介することにして。

 当時光野さんは、こんな風に話してくれました。
 「寝た子が起きると、とたんに表情が豊かになるとです。まわりも張り合いっちゅうもんがでます。坊主頭やヘルメットカットを長髪やパーマにすると、職員の気持ちがかわってくるとです」
 当時の私は、「日本で『寝たきり老人』と呼ばれている人は『寝かせきり』にされた犠牲者。日本以外の国には『寝たきり老人』という日常語や役所言葉はない」と書いては、「北欧と日本と違う」と一笑に付されてしょんぼりしていました。
 光野さんの佐世保弁は、「この日本でもできる」という勇気を与えてくれる言葉でした。

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