物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

※写真にマウスポインタをのせると説明が表示されます



■専務取締役の風変わりな座り込み■

 「改正介護保険に異議有り!」と描いた桜色のノボリが満開の桜をバックに厚生労働省前に何本もひるがえり、2006年春、2週間にわたる、型破りな"座り込み"が展開されました。

 62歳の誕生日を前に、10人の友人に「座り込み宣言」をメールしたのは、写真の右から2番目の銀髪の紳士。創業30年の福祉用具の老舗、ジェー・シー・アイの専務取締役、和田勲さんです。
 メールは次々と転送され、全国から500人ほどが応援に駆けつけました。
 「週休2日」「午後5時には、店じまい」というのも"座り込み離れ"していますが、持参した補助椅子を応援の人に勧め、警備の人たちともすっかり仲良くなってしまうというのも、座り込みらしくありません。

 厚労省前の歩道は和気あいあい、さながら、"介護保険改正と福祉用具をめぐるシンポジウム会場"の様相を呈しました。
 厚労省の人たちも次第に警戒を解き、「訴え」のチラシを受け取るようになってゆきました。手弁当で刷り増しする人も現れ、総計1万枚を超えました。
 多くの人々の共感を呼んだ「改正介護保険法の問題点と異議」という「訴え」のサワリを抜粋してみます。

@福祉用具は、自立の支援に有害なのでしょうか。
Aリハビリ効果が落ちるのでしょうか。
B福祉用具の利用でモチュベーションがアップされている事をご存じないのでしょうか。自分で出来ることが膨らんだから、積極的に、前向きに活動し、それがあってこそのリハビリ効果ではないでしょうか?
C福祉用具の活用により人的サービスが縮減され、対費用効果が高いことすら、ご存じないのですか?
D生活必需品を取り上げた時、老々介護や1人住まいのご利用者、共稼ぎ等で昼間は本人だけになる家庭ではどうなるのでしょうか。横になっている時間がどんどん増えて、廃用症候群が進行するリスクが大きくなります。介護度の重度化促進になってしまう怖さを感じます。
F起き上がり困難な方は、家庭用ベッドでは自分で起き上がることは出来ません。ベッドサイドレール等があるから自分で起き上がり可能になっています。
H外出用の車椅子を拒否されたら、老々介護や1人住まいの方等は、近くの通院等もタクシーを使え、という事なのでしょうか?

 福祉用具とともに37年間あゆみ、確かな手応えを感じてきた和田さんの「思い」と「叫び」がつまっているような文章です。

■海外の選手を驚かせた、「病院が住まい」の日本選手■

 駆けつけた人たちの中に、オーダーメイドの車いすを、和田さんと一緒に広めた近藤秀夫さん(写真右端)の姿もありました。オーダーメイドが、ひどく珍しかった70年代のことです。

 近藤さんの運命は「数奇」そのものです。
 2歳で母を失い、12歳で父を失いました。敗戦直後のこと、ご本人の言葉によれば「かっぱらいで飢えをしのぎ」、野宿同然の生活。15歳の時、やっと、炭鉱の雑役についたのですが、レール運びの作業中、うしろの一人がぬかるみで滑って手を離し、先頭の近藤少年は背骨を折って16歳で下半身まひの身になってしまったのでした。
 3年の入院生活の後、生活の場になったのは、旧日本軍の傷痍軍人収容施設でした。

 運命を変えたのは、1964年、東京オリンピックと同時に開かれたパラリンピック、そして、のちに、ADA成立の立役者となるジャスティンダートさん(左の写真の右端・学苑社『ADAの衝撃』より)でした。
 ダートさんは日本タッパウェアの社長でした。ボリオの後遺症で車いすを利用する身。自分と同様の身の上の人が、日本では施設や病院に閉じこもっていることに驚きました。
 施設をまわって、車いすスポーツを勧めました。車いすの近代五種競技のチャンピオンを3年も続けた人を、アメリカから日本にスカウトしてきて応援しました。

 右の写真は、練習に励む若き日の近藤さんです。
 第3話「自立」VS「自立」に登場した樋口恵子さん(のちに全国自立生活センター協議会代表)が「近藤のおにいちゃん」と憧れたのももっとも、という颯爽とした姿です。
 パラリンピックではバスケットやアーチェリーなど6種目に出場しました。ただ、成績は惨憺たるものでした。なにしろアーチェリーの弓は竹製でした。バスケット用車いすは北欧から取り寄せたものの、まるで体に合わなかったのです。

 もっとショックなことがありました。
 日本のバスケットチームのメンバーは、だれ一人仕事についてはいませんでした。当時は、それがあたりまえだと思われていたのです。ところが、海外の選手たちは、「仕事や家族をもち、楽しみで車いすバスケットをやっている」というのです。
 肝をつぶしました。

 外国の選手たちも肝をつぶしました。
 日本選手が職をもたず、治療は終わっているのに「病院住まい」を続けていると聞いて、「信じられない」と繰り返しました。
 どちらにとってもパラリンピックショックでした。

 近藤さんは、こののち、「市政の重点は、教育、福祉、まちづくり」を公約にかかげた大下勝正市長に請われて町田市役所に迎えられます。そして、試行錯誤して、たとえば左の図のような「まちづくり規則」をつくり、町田を「誰にも優しいまち」に変身させる立役者になっていくのですが、それはまたの機会に。

■まるで魔法のように■

 もうひとつのショック、アナホルムショックが日本に上陸したのは88年のことでした。
 日本初の福祉用具の実用書は、93年に医学書院から出版された『在宅補助器具活用マニュアル』ですが、著者の健和会の面々は、その背景を次のように記しています。

 マンパワーが圧倒的に不足し、「寝たきり老人」問題を解決できない現状に悔しい思いをしていたとき「『寝たきり老人』のいない国=デンマーク」という情報に接した。まったく衝撃的なことであった。
 「本当だろうか」「だまされているのでは……」「自分の目で確かめてみなければ」
 88年4月私たちはデンマークを訪れた。確かに「寝たきり老人」はいなかった!(略)
 有力な回答の1つが「補助器具」だった。
 とはいえ、「畳、狭さ、段差」の日本の家で役にたつだろうか。

 その年の9月、リハビリテーション国際会議に出席するために、デンマーク西シェラン県補助器具センターの所長アンナ・ホルムさんが来日しました。
 健和会のスタッフはアンナさんに「困っている5つのケース」を一緒に訪問して助言してほしいと頼みました。
 左の写真は、アコーディオンまで飛び出しての歓迎ぶりです。

 老夫婦2人暮らしの家では、小柄な妻が半身不随の大男の夫を持ち上げることができず、「寝かせきり」になっていました。
 アンナさんは、ベッドら車いすに移すコンパクトなリフト、からだの向きをたやすく変えられる円盤を紹介し、少しの力で重い人を動かすワザを伝授しました。
 右の写真は、同行した私が感動してシャッターを押した、そのときの笑顔です。

 神経難病で腕を上げられない人の家では、その家にあったありあわせのものを使って、左の写真のように自分で食べられるようにしてしまいました。

 まるで、魔法を見ているようでした。
 この「アナホルムショック」をきっかけに、健和会のスタッフは、工夫を重ね、道具を上手に使えば、ご本人の自立度があがることを証明していきました。

 『在宅補助器具活用マニュアル』の、最後の章は、下のような挿絵を添えて、こう結ばれています。

 「『センターに歩いて行けるように訓練しましょう』といえば、訓練が生活のすべてになってしまう。『まず電動車いすで通いましょう、そして歩く練習もしましょう』という同時並行型にすれば、QOLがまったく違うものになる。加齢による体力低下、そして、残されている時間が少ないこと考えれば、どちらをとるべきか、答えはおのずと明らかだ。」

 下町での実践をもとにしたこの提言、冒頭の和田さんの訴えに不思議なほど、ぴったり重なります。

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