自立のために威力を発揮する「イエルプメーデル」(直訳すると「補助器具」)の存在を知ったのは、1972年、スウェーデンの国立ハンディキャップ研究所を訪ねたときのことでした。
ここでは、補助器具についての情報を世界中から集めていました。
「これは」というものがあると、製造元に黙って買い求め、障害のある人たちの組織に試してもらいます。評判がよければ、耐久テストをします。その上で、「この点を改良すれば、政府が大量に購入するが」と注文をつけます。改良されたものが届くと、再びテスト。合格すると必要とする人に無料で貸し出されます。
この年に、生まれて初めて日本の外に出た私は、車いすに乗った人に街で度々会うのが不思議でした。車いすが必要になる病気が多いのかしらと想像したりしていました。
ところが、この研究所を訪ね、日本でなら、病院や施設で横たわっているか、自宅に引きこもっている重い障害のある人が、補助器具の助けで仕事をしたり、外出を楽しんだりしていることを知ったのです。
カルチャーショックでした。
当時私は朝日新聞の科学部記者だったので、旅の経験を5回ほど社会面に連載しました。その一部を書き抜いてみます。
「きょう試運転に成功したこの車の話をきいてください」と研究所のボイエル技師は興奮気味に言った。
「足を使えない人が手だけで運転できる車は、ことしも600台ほどつくられ、購入補助金が出ています。でも、これでは、ハンドルを動かせる人しか使えない。きょう試運転したこの車なら、足が使えず手も10センチくらしか動かせない人で運転できるんですよ」
私は日本の身体障害者のことを思った。
日本の裁判所は、ふつうの車をちゃんと運転できる人を「身体障害者である」という理由だけで運転を許さない判決を下していた。
(1972年12月12日朝日新聞「福祉大国スウェーデンの医療@ジャングル」から)
1988年にデンマークを訪ね、高齢の人々の自立支援にも補助器具が不可欠であることを知りました。
写真は、デンマークの補助器具センターでの風景です。人口25万人に1カ所ほどあり、約3000種の器具が揃っています。車いすだけでも、100種、そのうち電動車いすが10種類。不自由な手でも食事や料理ができるように工夫された様々な自助具はカラフルで、部屋の飾りになりそうな楽しいものばかりです。
前回の「物語」に登場したアンナ・ホルムさんが所長をつとめる補助器具センターの場合、職員10人のうち、作業療法士が、所長をふくめて6人、理学療法士が1人、技術者が2人、事務職1人。
あとで知ったのですが、デンマークは人口あたりの作業療法士の数が世界一、日本の6倍。この人たちが補助器具と利用者の間を絶妙につないでいるのでした。この作業療法士が中心になって、ひとりひとりに器具を選び、調整した上で使い方を徹底的に指導します。試験的に貸し出し、効果があるとなると、市町村が買って無料で貸し出します。利用する人は生後数カ月の赤ちゃんから100歳の老人まで。
写真の男性の場合、病気で両足を失ったのですが、からだにあわせて車いすを調整しています。さらに、車いす利用者が調理しやすいように台所を改修してもらいました。その結果、彼の料理の才能が花開きました。食事サービスを受ける側から、家族や友人に料理を振る舞うことが無上を楽しみとする人に変わったのです。
補助器具の力にすっかり惚れ込んだ私は、92年11月17日の社説「補助器具を眼鏡のように 」で、日本の実践を紹介しながら、こう書きました。
もしも眼鏡が、ある日、日本から消えてしまったらどうなるだろう。
近視の子は黒板の字が読めず、落ちこぼれるだろう。職業につけない人が増えるだろう。観劇やスポーツの楽しみをあきらめねばならぬ人も大勢出ることだろう。
目や耳や手足や知能のハンディキャップを克服するために、人間は様々な発明をしてきた。デンマークやスウェーデンではイエルプ・メーデル(補助する道具)、英語圏ではテクニカル・エイド(技術的に補助するもの)と呼ばれ、長い歴史をもっている。(略)
横浜市では総合リハビリテーションセンターには、専門医、技術者、作業療法士、理学療法士、ソーシャルワーカー、保健婦、建築家がそろっており、保健所などから連絡が入ると、チームで自宅に出向く。そして、本人の機能だけでなく、家族や家屋の状態も見極めて補助器具を調整し家の改造もする。年間400人を手がけ、3分の2が高齢者だという。(略)
この社説を書いた年の翌年、1993年、「福祉用具法」が誕生しました。
嬉しくて、「人生の輝き支える福祉用具に」という社説を書いて紹介しました。といっても、読み返してみると、褒めてばかりはいませんでした。
大切なのは、必要な人すべてに、体に合った品を、タイミングよく届ける供給の仕組みを作り上げることだ。
いまの日本では、専門家でさえ途方にくれるほどややこしい手続きが必要だ。縦割りの法律によって日常生活用具、補装具、治療材料などと呼ばれ、「身体障害者手帳何級か?」「所得は?」など、制度を使わせないために思いついたとしか考えられないような基準も多い。
規制を大幅に緩和して福祉用具を身近なものにする必要がある。
日本以外の先進国では、手帳の有無や所得ではなく「必要かどうか」が判断の基準である。
体にあっていることも大切だ。
東京・晴海で開かれた国際保健福祉機器展には車いすに乗った人もたくさん訪れたが、その姿を見て、海外の専門家たちは「日本では、なぜ合わない車いすに乗るのですか」と心配した。
合わない入れ歯をがまんするのがよくないように、体にあわない車いすは命を縮めることもなる。
(1993.11.5朝日新聞社説)
車いすは、大きく2回ほど進化したのだそうです。
「第一世代」は、アメリカのルーズベルト大統領が密かに使っていたような、家庭用の木製の椅子に車輪をとりつけたものです。
1937年、「第二世代の車いす」が誕生します。細身の鉄パイブと布製のシートが組あわされていて、折り畳めるようになっています。病院の玄関や博物館に置いてある、あれです。一時的に利用するものですから、長く座っていると、からだに悪い影響が出てしまいます。
70年代に「第三世代」が登場しました。前の世代のものを出来合いのスリッパにたとえれば、こちらは、よく馴染んだスニーカーのようなものでしょうか。
代表的なのが、89年に開発され、ハンディキャップ研究所の試験を抜群の成績でパスしたパンテーラです。右の写真のモデルは社長のヤッレ・ユングネルさん。プロのレーサーでした。事故で脊髄損傷。利用するご本人が手がけただけあって、性能だけでなく、実に、カッコいいのです。
ここに書いた、車いすの歴史は、車いす姿勢保持協会の『元気のでる車いすの本』(はる書房)の受け売りですすので、くわしくはこの本や協会の「車いすの歴史」のサイトを。
話を福祉用具法に戻します。
「福祉用具の研究開発及び普及の促進に関する法律」という長い名前のこの法律を最初に立案したのは、当時の通産省でした。
「夢中になってつくった人物が通産省にいたらしい」という「噂」を頼りに捜し当てたのは、意外な人でした。資源エネルギー庁石炭部長、人事院公平審査局長、ダイエイ会長を歴任した雨貝二郎さん。「夢中」の原動力を尋ねたら、こんな答えが返ってきました。
「実は、私には、ことし31歳になる知的障害のある娘がいて、障害のある人に役にたつ仕事をしたいと願っていたのですが、通産省では、なかなかチャンスがありませんでした。2002年に工業技術院の総務課長になったので、チャンスと到来と思いました。面倒をみるのに疲れて、家内が病に倒れ、悔しかったこともエネルギーになったかもしれません」
「役人生活25年で身につけた手練手管を総動員して強引に成案をまとめることができました。高齢社会を迎える日本を考えたとき、エネルギー問題と並んで福祉問題は最優先の課題だとも思い、意地になってやりました」
根掘り葉掘り尋ねたその手練手管とは−−
★工業技術院長の私的研究会をつくって、後に、全国石油商業組合連合会会長になる関正夫さんを引き込み、思いを代弁してもらいました。関さんは同郷で気心が知れている上、ダウン症の子をもつ父だったのです。
★厚生省が乗り気になってくれないので、厚生省だけでなく労働省にも研究会に参加したもらい、仲が悪いと評判の両省に競ってもらうように仕組みました。
★通産省で最も力をもっていた産業政策局長を口説きました。息子さんに障害があると聞いていたので、分かってもらえると思ったからでした。
★公明党に関心のある議員がいると聞き、「グズグズしていると、議員立法になってしまう」と通産・厚生両省を脅しました。
★通産省で使われていた「福祉機器」ではなく、厚生省が提案した「福祉用具」を法律の名にとりいれて、厚生省のカオをたてました。
「大蔵省の担当主査が、身内に障害のある人で、とてもよく理解してくれました。さいわい、厚生省の老健局の企画課長だった大塚義治さんが、テクノエイド協会を受け皿にすることを考えてくださり、93年10月の施行にこぎつけることができました」
事務次官をつとめて退官し、いまは日本赤十字社 副社長の大塚さんに昔のことを尋ねたら、実に率直な答えが返ってきました。
「"縄張り争い・権限争い"が華やかだった時代ですので、やっかいな作業になるだろうと覚悟もしていましたが、スムースに調整が進みました。不毛な省間の争いは極力避けたいという、当時の雨貝課長の方針が大きかったと思います。『福祉機器だと通産省の所管範囲になってしまう』という声が厚生省に強く、用具にするよう主張し、何とか調整がついたように記憶しています。ただ、福祉用具法という名にしたことで、雨貝さん、省内では散々だったようですが」
「厚生省も、福祉用具を普及する必要性、特に、どうすれば利用者のニーズを把握して開発に結びつけ、現場にフィードバックできるか、という問題意識は持っていました。ただ、それを法案化、制度化するだけの蓄積が貧弱で、少し無理をして作った法案であることは否めません。当時も内心では、いまひとつパンチがないなあ、実体のある条文をもっと盛り込めないかなあ、と悩んでいました。「宣言的な法案にはなるが、実態面の進捗などに応じて、見直せばいいではないかと割り切って法案化に踏み切った記憶があります」
「厚生省版福祉用具法は、そろそろ法律のコンセプト自体を含めた見直しの時期がやってきているように感じます。当時も、ユーザーのニーズを把握する手段・方法は福祉の現場をカバーする当方に責任があるはず、という主張をしました。振興課という、当時としては歴史も浅く、弱小の課が法案を担当したので、スタッフの数にも限りがあり手一杯の状況だった。そのあたりも遠因になったかもしれません。」
実は、老健局の外では、32話、33話でご紹介したように、様々に蓄積が進んでいたのでした。
テクノエイド協会設立の下ごしらえをした社会局更生課の身体障害者福祉専門官、河野康徳さん(現・昭和女子大教授)は、北九州市立総合療育センターのリーダー、高松鶴吉さんと連携をとって、第32話に登場した工房連絡会のワザを生かす制度づくりに尽力していました。
このセンターのモットーは、つくって、からだに合わせて、アフタケアも。右上の写真は、つくる分野を受け持つ「リハビリ工房」、右下はからだにあわせる「テクノエイド外来」です。
もしかしたら、通産省と厚生省の壁より、老健局と社会局の壁の方が、厚かったのかもしれません。