物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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 自民党と社会党といえば犬と猿の仲。水と油のように永久に混じりあうことはないだろうと、だれもが考えていました。
 ところが、予想もしなかった事態が起こりました。こともあろうに、自民党が、社会党委員長、村山富市さんを総理大臣にと、望んだのです。1994年5月、介護保険論議が本格化し始めたときのことでした。

 自民単独政権が続いていたら、介護保険法は日の目を見なかったことでしょう。自民党には「介護はヨメのつとめ」と固く信じている人物、「介護の社会化」などという文字を見たら青筋をたてて怒る人物が権限をもっていたからです。
 幸運が重なり、網をくぐり抜けて、仮に法案提出にこぎつけたとしても、難問が立ちふさがります。
 自民党が推進することには魂胆があるに違いないと疑いの目を向ける社会党や労働組合が反対にまわったに違いないからです。

 奇跡を起こしたのは、犬と猿のカナメとなり、接着剤役を果たしたのが、新党さきがけの存在でした。
 この「物語」も、政治の世界に足を踏み入れてみることにします。

■ことの始まりは、リクルート事件だった!■

 きっかけは、88年6月18日の朝日新聞のトクダネでした。川崎市の助役がリクルートコスモス社の未公開株を譲り受け1億円の利益を受けていたというのです。政界を揺さぶり、竹下政権が倒れることになった「リクルート事件」の幕開けでした。竹下登、中曽根康弘、宮澤喜一、渡辺美智雄、安倍晋太郎、森喜朗といった大物の名前が次々と新聞の1面に登場しました。
 ところが自民党内は何事もなかったように静まりかえっています。

 夏休みが終わり自民党の国会対策委員会が開かれたときのことです。報告が終わり、委員長の渡部恒星三さんが「異議ありませんか?」といったときのことです。1年生議員、武村正義さんが「質問!」と手を上げました。
 武村さんは「キラリと光る」をスローガンに滋賀県知事を3期つとめ、のちにムーミンパパの愛称で親しまれることになるひとです。
 「新聞テレビは連日、リクルート事件なるものを報道しています。我が党のトップクラスの方たちの名前がデカデカと出ています。政治にカネがかかるかぎり、われわれも巻き込まれるかもしれません。カネ集めに四苦八苦しないですむ政治にするために、党として改革の議論を始めてはいかがでしょうか」

 聞き流されるだろうと思っていた武村さんのところに、その日のうちに鈴木恒夫さんから電話がありました。
 「きょうの発言はよかった。一緒に勉強会を始めてはどうだろう」。
 鳩山由紀夫さんと三原朝彦さんも部屋を訪ねてきて言いました。
 「勇気ある発言でしたね。同じ思いでいるものは少なくない。グループをつくりませんか」
 9月2日には、「ユートピア政治研究会」が早くも発足しました。座長は武村さん、メンバーは1年生議員ばかり10人。1カ月足らずで20人に膨れあがりました。

 議論のベースにするために、秘書まかせにしていた自分自身の政治資金を見つめなおすことにしました。そして驚きました。多い人で1億9649万円、少ない人で6587万円、平均1億2654万円だったのです。
 この収支報告は1面トップになりました。結果として、自民党の金権体質を暴くかたちになったため、先輩議員からは「馬鹿なことをする」と、批判の声が続出しました。
 それにもめげず、研究会は、12月16日、「政治改革への提言」をまとめて、竹下総理と安倍幹事長に、手渡しました。連座制の導入や冠婚葬祭の寄付の禁止など、いくつもの提案が盛り込まれていました。この研究会の同志たちが、後に新党さきがけ旗揚げの核になってゆきます。

■10人で旗揚げ■

 新党さきがけの理論的支柱になったのは田中秀征さんでした。
 田中さんといえば、熱烈な支持者がいる一方、選挙にめっぽう弱いことで有名です。ユートピア政治研究会が立ち上がったときも、落選中でした。
 次の選挙で当選し、国会に戻ってきた田中さんは、武村さんに言いました。「何か決断するときは、ぼくも一緒にやるからね」。
 この連載を書くために、琵琶湖のほとりで会った武村さんは、当時のことを、こう振り返りました。
 「新しい行動を起こそう、という意味であることは明らかでした。実は、わたしの心の中でも、自民党を離れて新党をつくるべきではないかという思いが芽生え、悩みつづけていたところでした」

 92年10月、田中さんは切り出しました。
 「やろうよ」
 田中さんは、鳩山さんと細川さんを推薦しました。細川さんはすでに日本新党を結成し、参院選で4人の議員を誕生させていました。武村さんは園田博之さんを推薦。11月に4人で集まって相談。密かに準備を整えてゆきました。
 93年1月、「制度改革研究会」立ち上げ。
 細川さんと連携して行動するためでした。
 「名前はわざと、平凡で意味がわかりにくいものにしました。当時は、シリウス、平成維新の会、改革フォーラム21といったグループが注目されていました。目立つ名前をつけてマスコミに注目されては、新党計画はつぶれてしまうと思ったからです。細川さんは2週に1度は参加してくれ、連携はますます強くなりました」

 新党結成は8月下旬にという計画でした。ところが思わぬ事態が起こりました。
 「政治改革法案はこの国会で」と約束していた宮澤首相が梶山静六幹事長に説得されて断念。野党が不信任案を提出。6月18日夜不信任案可決。
 その夜のうちに10人が、梶山幹事長に離党届けを提出しました。
 写真は、その3日後の21日、結党宣言の場面です。
 井出正一、岩谷毅、佐藤謙一郎、園田博之、武村正義、田中秀征、渡海紀三郎、鳩山由紀夫、三原朝彦、簗瀬進の10人が、半年がかりで練り上げた5つの政治理念と10項目の政策の基本姿勢を発表しました。

■自民政権の終焉と「すさまじく狡賢い案」■

 8月5日、宮沢内閣総辞職。38年間続いてきた自民党政権は終焉することになりました。
 ここで活躍するのが「政界の仕掛け人」小沢一郎さんです。その思惑で8月9日、細川内閣が発足。武村さんは内閣官房長官という、細川さんと一心同体のポスとのつくことになりました。

 ところが、翌年2月、細川さんが、深夜に国民福祉税を発表します。武村さんにも、厚生大臣の大内啓伍さんにも、社会党にもはからず、小沢一郎、市川雄一(公明党)両氏の影響によるものでした。日本新党と、社会党+新党さきがけに亀裂が入り始めました。おまけに、細川さんは4月、突然、首相の座を降りてしまったのです。
 小沢さんは、またまたはかりごとを巡らせます。
 4月に非自民の羽田内閣が成立。しかし、この内閣もあっというまに総辞職することになります。

 ここで、自民党が、武村さんの言葉を借りると、「すさまじく狡賢い」案を考えます。
 自民・社会・さきがけが組めば過半数になることから、ポスト羽田は、「自社さ」でと猛烈な活動を開始したのです。
 タカ派で知られる石原慎太郎さんが「村山さんでいこうよ」といい、河野総裁からは、武村さんに、「村山さんに会わせてほしい」と頼んできました。山崎拓さんはYKKを代表して「われわれとしては武村さんがやってくれるなら、それでゆきたい。どうしてもダメなら村山さんでいい」という話を持ち込んできました。森さんも真剣でした。

 大病をして65歳で政界を引退して7年、武村さんは、ふっきれた表情で話しました。
 「細川政権発足のときから数えると10カ月になる"野党暮らし"に、自民党が耐えられなくなったのでしょう。自社さ政権が誕生したのは、"野党自民党"のなりふり構わぬ政権復帰への執念のせいだとも言えるし、一一ラインに対する理屈を超えた感情的な反発が手を組ませたともいえます」

■威力絶大だった「3・2・1・ルール」■

 国民にとって幸いだったのは、接着剤をつとめた新党さきがけの面々が、根っからの政策志向だったことでした。
 右の写真は結党1周年を前に、膨れ上がった新党さきがけのメンバーです。
 情報公開をはじめ先進的な政策がこの政権で芽吹きました。

 そして「3・2・1ルール」。
 予算も、法案も、あらゆる決め事は議員数の割合ではなく、自民3、社会2、さきがけ1の比率で採決するというルールです。数が多くても、社会、さきがけの了解をえられなければ、あらゆることが決められなかったのです。
自民党が謙虚だった時代です。
 これが、介護保険をめぐる「与党福祉プロジェクト」の論議に反映されていきました。

新党ブーム時代の年表(敬称略)
1993.6.18衆議院本会議で宮沢内閣不信任案可決、衆議院解散
武村正義、田中秀征ら10名が自民党を離党
6.21「新党さきがけ」結成。政治理念、政策の基本姿勢を発表
6.23新生党結成
6.30細川護熙日本新党代表、「選挙後、さきがけとの合流」と表明
7.18衆院選投開票、さきがけ13議席を獲得
7.30河野洋平、自民党新総裁に
8.05宮沢内閣総辞職
8.09細川内閣が発足。官房長官に武村正義
8.10田中秀征、党代表代行に就任、翌日首相特別補佐に就任
8.25村山富市が社会党新委員長に
1994.1.31田中秀征が首相特別補佐を辞任。菅直人が入党
2.02細川首相が「国民福祉税構想」を発表、6日後に撤回
4.08細川首相が辞意を表明。
4.28羽田内閣が少数与党政権として発足
5.25羽田内閣総辞職。
5.30村山内閣が発足。武村大蔵大臣、井出厚生大臣
7.04鳩山由紀夫が新代表幹事に就任
12.09新生党、日本新党、民社党解党
12.10新進党結成。党首海部俊樹、幹事長小沢一郎
1995.1.17阪神・淡路大震災
3.20地下鉄サリン事件発生
8.08第2次村山内閣が発足。武村蔵相留任
1996.1.05村山首相辞意表明
1.11第1次橋本内閣が発足。さきがけから、田中秀征経企庁長官、菅厚生大臣
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