物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第54話 女性というカナリア (月刊・介護保険情報2008年11月号)

前回の物語の主役、財務省主計局長の丹呉泰健さんが「介護保険の導入を積極的に推進した10の理由」の4番目に挙げたのは、次の理由でした。

「老人医療が、寝たきり老人の増加で問題化している。その上、急速な高齢化で老人が増加していく。今のままの仕組みでは、財政がもたない」
もっとも、これに対し、「介護が権利とされると給付が膨張し、却って財政負担が大きくなるのではないか」という根強い介護保険反対論が大蔵省内にはありました。

■女性民生委員、有吉佐和子、そして……■

全国の女性団体の2500人が参加して10月17、18日富山市で開かれた「日本女性会議2008とやま」。
鼎談「日本の福祉を変えた3人の女」に登壇した評論家の樋口恵子さんは、女性を、高齢化社会の危険を知らせる「カナリア」に例えました。
昔、炭鉱夫たちは 籠に入れたカナリアを持って坑道に入りました。ガスの毒に弱いカナリアがまず苦しみ、死に、炭鉱夫自身に迫る危険を知らせる検知器の役割を果たしたからでした。

樋口さんは、例として、「寝たきり老人」の調査に初めて取り組んだ女性民生委員をあげました。65歳以上の人の割合が人口の7%を超える「高齢化社会」に日本が突入する2年前の1968年に調査は公表されました。
介護者の9割が女性、その半数以上がヨメという実態が明らかになりました。

「文学という手法で高齢化社会に光をあてたのも女性の作家です」と樋口さんは続けました。
認知症の舅の介護に翻弄され、仕事をやめるヨメの悲しさを描いた有吉佐和子さんの『恍惚の人』がベストセラーになったのは72年のことでした。

スウェーデンでは、高齢化率が10%になった49年、イーバールロー・ヨーハンソンというジャーナリストが、社会から隔絶した雑居の施設に収容されている高齢者の姿を克明に描写し、「19世紀までのうば捨て崖と変わらないではないか」と新聞やラジオが訴え始めました。その翌年、高齢者政策がスウェーデンで初めて選挙の争点になったのでした。
偶然の巡り合わせから、私も日本の高齢化率が同じ10%になった85年からキャンペーンを始めました。

日本は高齢化の後発国だったので、先輩国を訪ね、それらの国々が試行錯誤の結果つくりあげたシステムを紹介しながら書くことができました。
たとえば、「日本で寝たきり老人と呼ばれ、雑居の施設に収容されている人が、高齢化の先輩国に生まれていれば、自宅で暮らし続け、起きてお洒落して、外出を楽しむことができる」という風に比較しながら……。

90年代に入って、強力な若い助っ人、2人の女性ジャーナリストが、この問題に取り組み始めました。
ひとりは、前回の物語に登場したNHKの小宮英美さん、老いのすみかについて、朝のテレビ番組で続けて取り上げ、現場から、真剣に学んで行きました。
もう1人は、朝日新聞女性初の政治記者生井久美子さん。

■ゴキブリがはい回る床に寝て■

生井さんが忘れられないのは総理番をしていたときの経験です。首相官邸で自民党の大幹部が、当時話題になっていた男女雇用機会均等法についてこんな雑談を交わしていました。
「平等、平等って、そんなこと、女が立ちしょんべんできるようになってから言えってんだ」「ワハハハ」。
「ショックで全身がカーッと熱くなりました。でも、私は記事にしなかったのです。『雑談は記事にしない』という暗黙のルールがあったから、と自分に言い訳けしていたけれど、実は自己規制していたんです。勇気がなかった」
90年、志願して学芸部に移った生井さんの連載は、次々と波紋を巻き起こしました。

「生井式キャンペーン」には特徴があります。
第1は、体当たり体験です。目の前にお年寄りの尿の袋が垂れ下がった老人病院の床に、付き添いさんと同じように布団を敷き、体が冷えきる夜を過ごしました。
ゴキブリがはい回り、お年寄りがカーテンもなく、お尻をむき出しにされる姿に心も凍えました。

■「ねえちゃん、このひもほどいて」■

そんな日々の中で、心に突き刺さる2つの体験がありました。
ひとつは、先進的なケアで知られる尼ケ崎の特別養護老人ホーム「喜楽苑」で「おむつ交換の実習をさせてください」と頼んだ時のことです。
職員の正森克也さんから尋ねられました。
「僕が、研究論文を書きたいので、ここでパンツを脱いでくださいとあなたに言ったら、脱いでくれはりまっか?」
「普通の人に見せられへん部分を、取材やからといって見るのは、そちらの都合でっしゃろ」

もう1つは、東京の老人病院で車いすに縛られていた小柄なお年寄りの言葉でした。
「ねえちゃん、このひもほどいて」
生井さんは病棟の責任者に「お年寄りが、ほどいてほしいとおっしゃっています」と伝えました。
答えはこうでした。
「いいですよ。あなたがずっとここにいて介護するのなら」
生井さんにできたのは、こっそり、紐をゆるめることだけでした。

「取材するたびに、自分の無知、卑怯、偽善を突きつけられる思いでした」
家に戻るたびに「吠えるように」泣いたのだそうです。
そして、介護される身を体験しなければと思い至りました。
そのときのことを書いた文章を、『介護の現場でなにが起きているか』(朝日新聞社刊)から抜粋して引用してみます。

「車いすに縛ってもらった。ひもが体に食い込んだ。立っている人の顔がずいぶん高い位置にあり、目の高さが違うとこんなにも威圧感を感じるものかと痛感した。動くのがいやになり、ほんの少しの時間だけなのに惨めな気持ちになった。最初はふとしたことで縛り、人手不足を嘆いても、そのうち縛ることに慣れ、必要がない人まで、車いすに紐で固定されていた」

「チューブがどういうものか、つけてもらった。涙が出た。苦しく、痛い。だが、苦痛を口にする間もなく、管の違和感が下に突き進む。涙があふれて鼻水も出る。ハンカチでふきたいのだけれど、体が固まってふくことができない。痛みが怖くて手を動かすことができないのだ。管を抜かないようにお年寄りがされているように両腕をベッドに縛られてみた。裸にされたように無防備で恐ろしい。縛られると、栄養は補給されても、生きる気力を失うお年寄りが少なくないというのが分かる」

「体験したといっても、ほんのひとときのこと。欺瞞なのですけど」と生井さんはいいますが、記事は人々、とくに女性たちの心にしみ込み、つないでゆきました。
政治面でも、経済面でもなく、家庭面だったからこそ可能になったキャンペーンでした。
「生井式キャンペーン」の特徴の第2は、読者に呼びかけ、その声をもとにさらにかき進めるという方法です。
たとえば、94年6月に始まった「付き添って」は、10回の連載が続いている最中から、女性たちの悲鳴が次々と寄せられました。そこで、700通の手紙をもとに13回の連載しました。

■ぬかみそと笑顔■

NHKエンタープライズ21のチーフプロデューサーになった小宮英美さんは、95年10月、画期的な取材に打ち込んでいました。日本で始まったばかりのグループホームで、認知症のお年寄りの日々を撮り始めたのです。カメラを回さずにいた時間を含めると滞在1700時間。お年寄りもスタッフも小宮さんやカメラマンの存在があたりまえとなり、ごく自然に振る舞うようになっていきました。

97年2月24日の夕刊のコラムで、私は、小宮さんが1年をかけてつくった番組が再放送されることを紹介しました。
NHK総合テレビのドキュメント「ぼけなんか恐くない」。
舞台は、東京都立川市の特別養護老人ホーム・至誠ホームの一角にあるグループホーム。96年6月、75歳の老婦人が娘に連れられて、ここにやって来るところから番組は始まります。

娘さんが語る病院での母の姿は、多くの人が思い描く当時の「痴呆性老人」のイメージそのものでした。妄想めいたことを口走る。パジャマを破く。薬でぼうっとして、娘の顔も分からない。
「さらしのひもでベッドに縛られました。動くときつくなるので、痛い、痛いと……」

その老婦人がグループホームの安心できる家庭的な人間関係と雰囲気、ゆっくりと流れる時間、職員のこまやかな心くばりの中で、笑顔と自尊心を取り戻してゆきます。
番組の終わり近く、「お正月に和服を着てみたいんだけど」という職員の言葉に、「あたしが着せてあげるよっ」といって見事に着付けてゆきます。
ぬかみそのかきまわし方を伝授し、満足そうな笑みを浮かべます。

番組が終わるやいなや、「痴呆性老人観が変わった」「介護職の素晴らしさを知った」などの電話が150本。泣きながらの電話もありました。
170時間分の映像を凝縮したお年寄りたちの表情とその変化が、見る人の心を動かしたのでした。」

■後ろ姿やモザイクつきではなく■

私は小宮さんの、次の言葉に感激しました。
「後ろ姿やモザイクつきでは、痴呆は恥ずべき存在という偏見を助長してしまうと思いました。カメラに写った20人のすべての方のご自宅にお邪魔し、畳に正座して素顔での登場をお願いしました。すべての方が受けてくださいました」

「痴呆症」が「認知症」と名前が変わり、小宮さんの仕事の場は国際放送局にかわりました。
それでもなお、小宮さんは丁寧に取材を続け、人と人をつなぎあわせています。
認知症について、医療や福祉分野の指導的な人物までが抱いている先入観を変えるために。
それについては、後の回に。

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