「介護保険物語」に縁の深い2人の厚生事務次官経験者が11月、相次いで悲劇に見舞われました。
一人は、夫人が重傷を負わされた吉原健二さん。
介護保険の原点になった1989年の「介護対策検討会報告」の発案者です(第9話、第10話)。
もう一人は夫人とともに殺害された山口剛彦さん。
贈収賄事件で逮捕された岡光序治次官(46、47話)の後を受け、96年11月、「国民の信頼を回復するために一丸となろう」と1000人の職員に涙ながらに呼び掛け、介護保険法成立に道を開きました。
当時の厚相は小泉純一郎さん。その秘書官だった飯島勲さんは、読売新聞埼玉版で、こう語っています。
「岡光事件でガタガタになった厚生省を1年で立て直してくれた。介護保険制度の創設で国会対応にも苦労したが、当時、誰もものが言えなかったほどの政界の大物にも、正論であれば直言していた。政治家が人気取りで官僚たたきをするような時代に、政治家にも反駁できる珍しい官僚だった」
表は、介護保険に縁の深い霞ケ関の人々です。
そのおひとり、山口さんと、この物語のためのインタビューの日取りを約束した矢先のことでした。
「山口さんにとっての介護保険物語」を聞く機会は永遠に失われてしまいました。
表の青字は、厚生省以外の霞ケ関の人々です。
大蔵省は、第53話、54話に登場した主計官(当時)の丹呉泰健さんと主計官補佐の向井治紀さん。
自治省は、財政局調整室長だった岡本保さんと課長補佐の平井伸治さん。
岡本さんは大蔵省の丹呉さんと大学法学部時代からの友人で、入省も同期。互いにタンゴ⇔オカモトと呼び合う信頼しあう間柄でした。これが、介護保険が奇跡的に成立した背景の1つになりました。
丹呉さんの右腕、向井さんについて、岡本さんは、当時の主計局の間取りを紙に描きながら、懐かしそうに説明しました。
「大蔵省の南門を入ると主計局の部屋があって、向井が昼間は必ず眠っている。その姿は昼寝しているトドそのもの。彼が異能のとびきり優秀な官僚で、しかも、クラシックの大変なツウだなんて、とても思えない姿でした」
岡本さんの部下だった平井さんは、いまは鳥取県知事です。96年の3月に財政局調整室課長補佐の内示があったときには、周囲からひどく同情されました。
「厚生省が取り組んでいる介護保険がいよいよ本格的な検討に入る時期でした。これが地方財政に与えるインパクトは劇薬といっていいくらい強い。市長会、町村会は断固反対。にもかかわらず、厚生省はその難しさを分かっていないらしいという。大蔵・厚生連合軍と自治省の大戦争になるだろうと予測されていて、それで同情されたのです」
よかったね、といってくれる人もいました。
「上司になる岡本室長が若手の人望を集めていたからです。見識とバランス感覚をもっている方でした」
その岡本さんの最初の言葉を、平井さんはいまも鮮明に覚えています。
「平井君、ものごとを潰すのは簡単だけど、つくるのは本当に難しい。だけどそれは貴いことだ。そのことを腹に入れておかなければいかん、そういわれました。それが、私の支えになりました」
「ただ、岡本さんは、当時珍しかったイタリア製の鞄をもって出勤するという方。『平井、毎日同じカッターシャツで、汚いぞ』といわれて、下町育ちの私はショックでした」
「イタリア製の鞄」のイメージから、軟弱な男性を想像して消防庁の長官室を訪ねたら、予想ははずれました。
どちらかという体育会系風の豪快な人物。鞄の件は、半分本当でしたが、イタリア製ではなく、フランスのルイ・ヴィトン製でした。
「平井君は毎日同じシャツに同じネクタイで、確かに汚かった。でも、無理もなかった。厚生省から毎日、やってくる山崎(史郎)、香取(照幸)たちチビッコギャングは、背後の高齢者介護対策本部に大勢の若いものをかかえている。一方、こちらは、私と平井と係長が一人。おまけに、平井君の仕事は、厚生省との交渉ごとだけじゃなく、環境庁、通産省はじめ公共事業以外はみんな受け持っていました。シャツを取り替えに家に戻る暇もなかった。私が役所を出るのは、いつも未明2時、3時。平井の仕事は朝の5時、6時までかかっても終わらない。かわいそうに平井のアタマには十円ハゲができちゃった。『山崎、香取、お前たちのせいだぞ』とよく言ったものです」
この物語の第43話「毎日徹夜、未明の会議」に、こんなくだりがあります。
厚生省介護対策本部の日常生活は、96年当時は、毎日ほぼ徹夜でした。内輪の会議は未明4時ごろから開いて、朝8時ころからの会議に資料を間に合わせるというのが通例でした。
ある日、山崎さんが、当時の自治省幹部の自宅に、朝6時ごろ「抗議」の電話を入れました。
「先方が『一体何時だと思っているんだ』と言うので、『こちらは徹夜続きですから、しかたがないでしょ。自治省は余裕があるかも知れませんが』と言ったら、先方は、『何を言っているんだ。介護保険のことで、こちらも夜通し会議をして、30分前に帰宅したばかりだ』と大変な剣幕でした。当時の自治省も介護保険について毎日省内会議を開いていたようで、介護本部だけでなく、政府部内は必死だったのです」
岡本さんは、この「物語」を読んでいたそうで、笑いながらいいました。
「『当時の自治省幹部』って私のことですよ」
平井さんも、いいました。
「山崎さんや香取さんは連日のようにやってきて、年次の上の岡本さんをつかまえて、『介護保険は地方分権の試金石』『福祉自治体ユニットの首長さんたちは介護保険に賛成しています』なんていう。でも、反対している首長の方がずっと多い。この方たちは、『分権』という言葉で説得できるほど生易しくないんです。
ご紹介した岡本さん、平井さんの「言葉」だけ追うと、厚生省と自治省は、まるで犬猿の仲みたいです。でも、2人とも実に親しみをこめて厚生省の面々について話すのです。そして、いいました。
「戦友、同志といった間柄でした」
「同じ理想に向かっているという共有感がありました」
※写真は左が岡本さん(総務省消防長官室で)、右が平井さん(鳥取県知事室で)
いまは内閣府政策統括官の山崎さんも、いいます。
「当時、今もそうですが、厚生省と大蔵省、自治省の3省の関係は非常に複雑で、いろいろな場面で各省の利害が異なるため、疑心暗鬼となるのが通常なのですが、こと介護保険については、 各省間でだまし合うようなこともなかった『非常に稀で、幸福なケース』だったと思います」
「非常に珍しいことですが、介護保険の仕組みの中には、大蔵省や自治省からの提案をベースにしたものもあります。『財政化安定基金制度』の仕組みや『3年ベースの保険料算定』はそうしたものです」
市町村長が介護保険制度を警戒し、反対する理由はいくつもありました。
岡本さんは、その理由を一覧表にしました。そして、平井さんに宿題を出しました。首長たちの不安のタネを解決する答えを見つけ出すように、と。
その答えの1つが、後に、介護保険法第147条に規定された、財政安定化基金でした。
予想以上に保険料収納率が低下したり、給付費が増えたりして、介護保険財政が悪化したり、赤字を穴埋めするために市町村が一般会計から繰入れを余儀なくされるというような事態を回避するための方策です。そのために、市町村に資金交付や資金貸付を行うことを目的に、都道府県に基金が設置されました。つぎのような柱からなっています。
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・財源は、 国3分の1、 都道府県3分の1、 市町村の拠出金3分の1(これは、1号保険料が財源)
・努力しても保険料収納額が予定に達しないとき、不足額の2分の1を基準として交付金を交付する
・給付金が見込みを上回ったとき財政収支にならないよう必要な資金を貸しつける
・借り入れを受けた次の中期財政運営期間(3年)でその費用を1号保険料に算入して返す
町村長の反対勢力の中心人物は、京都府園部町長の野中一二三さんと福岡県添田町長の山本文男さん。どちらも、町村会の副会長でした。
山本さんは"参院のドン"といわれた村上正邦・元自民党参院議員会長と親交が深く、野中さんは実力者の野中広務さんの弟。
そこで、厚生省では"根回しの名人"、介護対策本部事務局長の和田勝さんが説得にあたりました。
「野中さんは官房長官だったお兄さんのところに駆け込んだりしない。そこは立派でした。山本さんの家は福岡空港からはるかに遠い、天狗が出るという山の近く。村上さんの大きな写真がドーンと飾ってありました」
「『都会に出てしまったサラリーマンからも財源が入ってくる安定した仕組みです』『山本さんが熱心に進めておられる広域化連合も介護保険で加速できます』といって説得しました」
「実は、野中さんと山本さんにはライバル意識があって、一方が柔軟になると、もう一方が硬化するという風で、これには、苦労しました。」
園部町は合併して南丹市となりましたが、添田町はいまも健在、山本さんは10期めの町長をつとめ、いまは町村会の会長です。
表を再度ご覧ください。大蔵、自治両省は、昭和49年入省組。
ところが、それより4年格下の山崎さん、6年も下の香取さんが、対等なクチをきいて交渉するのですから、まるで釣り合いがとれません。
そこを埋めるように、深夜11時、12時に自治省、大蔵省を訪ねて、ムードを和らげたのが厚生省45年組の江利川毅さん、46年組の堤修三さん、辻哲夫さんでした。