消防庁長官と鳥取県知事が介護保険と切っても切れない縁で結ばれていたことは、
前回、ご報告しました。
今回は、泣く子も黙る
「マルサ」の元締と医学教育の元締の存在なしには、「訪問看護ステーション」が、日の目を見ることはなかったかもしれないという、奇しき「えにし」の物語です。
話は、1990年に遡ります。
厚生省老人保健福祉部のスタッフに、ある日、岡光序治部長から「風鈴を探せ」という号令がかかりました。
風鈴とは厚生省独特の用語。国民に負担増を求める、嫌われそうな法案を出すときにつける「国民に喜ばれるような施策」のことです。
当時、老人保健制度の財政は年々厳しくなっていました。切り抜けるには、高齢者の一部負担を増額するしかないという結論になりました。ところが、衆院選挙を控えた政治家は負担増で票が減ることを警戒し法案に及び腰です。これを乗り切るのにどうするか。
そこで「風鈴を探せ」となったのでした。
その前年に老人保健課長になった伊藤雅治さんは「訪問看護が増えるような制度をつくってはどうでしょう」と提案しました。
病院から派遣される訪問看護と市町村保健婦による訪問指導はすでにあったのですが、どちらも必要とする人のもとに届きにくく、伸び悩んでいたからです。
「看護職が開設者となれる事業所をつくり、その事業所に診療報酬を直接支払う新しい仕組みをつくれば、看護職がこの分野に大勢進出するのでは」と伊藤さんは考えたのです。
これを聞いて、岡光部長はいいました。
「そんな制度つくるといったら、医師会が猛反対するぞ」「まず、医師会に打診にいってこい」
無理もありません。日本医師会は「訪問看護制度は、医師法違反」と77年、反対を表明。78年には、「訪問看護は病院機能を低下させる」という厚生大臣あての勧告書まで出していたのです。
ところが、小児科医で日本医師会副会長の村瀬敏郎さんに伊藤さんが話してみると「なかなか、いいじゃないか」という意外な返事です。
事情にくわしい人はいいます。
「村瀬さんの腹心だった理事の坪井栄孝さんが自身の病院で訪問看護も緩和ケアもやっていて、訪問看護にすこぶる理解があったので、その影響ではないでしょうか」。
それはともかく、村瀬さんは、「伊藤さん、ヨーロッバの在宅ケアの仕組みがどうなっているか、一緒に見にいってみましょう。旅費はこちらもちでもいいですよ」と積極的です。こうして、90年8月、連れ立ってドイツとフランスに出かけることになりました。(旅費提供は丁重に辞退したそうですので、念のため)
そこで出会ったのが、ゾチアルスタチオン、英語でいえば、ソーシャルステーション、訪問看護とホームヘルプの拠点でした。
このドイツをお手本に老人訪問看護ステーションの構想が煮詰まってきた矢先、やっかいな問題がもちあがりました。日医の次期会長と目されている村瀬さんが賛成しているというのに、都道府県医師会の中から反対の声が高まってきたのです。
「『看護婦が勝手に患者の家を訪ねたりしたら、患者をとられてしまうのではないか』と不安の声があがったのです。私も村瀬さんも、『それは、誤解。訪問看護によって開業医の活動範囲や診療範囲が広がります』と説いて回りました」と伊藤さんは当時の苦労を語ります。
そこに、またまた、難問が立ちふさがりました。
制度化を了承する条件として「訪問看護にあたっては、かかりつけ医の指示書が不可欠。これは譲れない」と日本医師会が言い出したのです。
一方、日本看護協会の有田幸子会長は、「診療の補助行為は医師の指示が必要かもしれないけれど、保助看法に定められている療養上の世話にまで医師の指示が必要というのはおかしい」と一歩 も譲りません。
難問を突破する知恵を出したのが、老人保健課の若き医系技官、新木一弘さん。深夜の会議の席上でした。
図の老人訪問看護の指示書をごらんください。真ん中に破線が引いてあります。
破線から下が「診療の補助」で医師の指示が必要。破線の上は「療養上の世話」なので医師の指示は及ばない、という理屈です。
これを、医師会と看護協会に示したところ、「いいでしょう」とういうことになりました。
双方とも、意地の張り合いに、いささかくたびれていたようでした。
新木さんは、いまは文部科学省の医学教育課長。医師と看護の教育の元締です。
伊藤さんたちは新しい事業を始めるために、看護の現場にしげしげと通いました。
写真は、厚生省老人保健福祉部老人保健課の面々が、開業ナースの元祖・村松静子さんの在宅看護研究センターを訪ねた日の1こまです。
前列左から、いまは看護課長の野村陽子さんの初々しい姿、伊藤雅治さん、石塚正敏さんです。
石塚さんは、第8話でご紹介した「寝たきりゼロへの10カ条」の生みの親。伊藤さんの先代の老人保健課長、野村瞭さんの走り書きメモをヒントに「寝たきりは 寝かせきりから作られる、過度の安静 逆効果」など、名調子の10カ条を作り上げ、国際医療センター、東北厚生局、環境省をへて、いまは、厚生労働省の食品安全部長です。
後列は、中川晃一郎さん(現・千葉県松戸健康福祉センター長)、訪問ナースの松沼瑠美子さん、村松さん、"破線の生みの親"新木さん、松田茂敬さん。松田さんは、いまは参議院厚生労働委員会調査室長です。
訪問看護ステーションの基準が2・5人と定められた秘密が、この写真に隠されています。この部屋を拠点にしていたナースは、カメラのシャッターを押した守田美奈子さんと写真に写っている村松さんと松沼さん。松沼さんは産後まもない身で半日勤務だったので「フルタイム換算で2・5人」だったのでした。
日赤看護短大の講師をしていた村松さんにかかってきた1本の電話が、そもそもの始まりでした。
集中治療室の看護婦長をしていたときに出会った58歳の女性の家族からでした。この女性はICUで命はとりとめたものの、意識不明、気管切開、経管栄養、膀胱にもチューブという姿で一般病棟に入院していました。そして、2年たち、転院を強く求められたのでした。
「家でみたいので助けてください」というSOSに、村松さんは、11人のナース仲間にボランティアを呼びかけました。83年のことです。
図のようなアットホームな"病室"をしつらえての創意工夫にみちた看護日々と出会いの数々は『在宅看護への道-起業家ナースの挑戦-』(医学書院)を、その後の展開は『看護の実力』(照林社)をどうぞ。
この経験の中で、「病院の外にもナースを必要とする人がいる」としみじみ思った村松さんは、86年、在宅看護研究センターを立ち上げました。
長時間の付き添い看護もあるので「訪問」ではなく「在宅」に、実践だけでなく研究や研修で同じ思いのナースをサポートしたいと「研究」の文字を入れました。
財団法人や社団法人にする資力がなく、NPOの制度も生まれていなかった時代です。土日も含め、必要な人に必要なだけ看護を提供したいという思いから有限会社を選びました。
その結果、「営利追求とは何事か」「日赤の人道博愛精神はどこにいったのか」という批判にさらされることになりました。
けれど、厚生省が看護ステーションの新しい仕組みをつくるとき、もっとも頼りにしたのは、制度に縛られることなく、とことん、利用者の身になって柔軟に考えてきた村松さんのところだったのです。
図は成長した98年時点のシステムです。
話を厚生省に戻します。
医師会・看護協会板挟み問題をクリアした老人保健課の次の難問は診療報酬でした。
医療機関からの訪問看護の報酬は4700円ですが、これでステーションの拠点を構えたら、制度をつくっても、赤字でたちまちつぶれてしまいます。
「この問題を解決してくれたのが、大蔵省から出向してきた山名規雄さんでした」と伊藤さんは、いまも、感謝しています。
山名さんが考えたのは、図のような3階建ての仕掛けでした。
こう書くと山名さん、百戦錬磨のベテラン大蔵官僚のように聞こえますが、実は、入省4年目の若手でした。
大蔵省と厚生省の間には若手交流人事の慣習があるのです。
大蔵省側は厚生省に、「いま最も忙しい課に配属してほしい」と依頼する伝統があったそうで、山名さんを含め6代続けて老人保健福祉の部局へ。伊藤課長が奮戦した改正老人保健法を大蔵側で査定した田中一穂さんも厚生省経験者でした。
山名さんのいまの仕事は、看護とはほとんど無縁、伊丹十三の「マルサの女」で有名になった東京国税局の査察部長です。
一方、厚生省から大蔵省に出向したのは、後に事務次官になる多田宏さん、羽毛田信吾さん、大塚義治さん、いまは阪大教授の堤修三さん、介護保険に長くかかわった山崎史郎さん……。この連載の登場人物だらけです。
それにしても、ナースが開業できるようにする、などという、この日本では革命的なことを考えた伊藤さんの原点は?
ご本人に尋ねても「さあ」というばかり。
でも、伊藤さんの経歴からみると、ごくあたりまえの発想なのかもしれません。
医政局長をつとめた身で、東大の医療政策人材養成講座を受験。1度は「元局長がこられるところではありません」と断られながら再度挑戦。勉強の成果を生かして「患者の声を医療政策に反映させるプロジェクト」を立ち上げた伊藤さん、社会保険病院組織の理事長として「医療事故がおきたら真実を話し、謝罪しよう」という運動の先頭に立っている伊藤さん、医学部時代はインターン制度反対卒業試験ボイコットのリーダーだった伊藤さん……なのですから。