物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第51話 困ったときは、エリカワさん (月刊・介護保険情報2008年8月号)

◆前代未聞、2度目の事務次官◆

2007年の真夏の午後のことです。
内閣府の事務次官を退官したあと、天下りを避けて民間組織の理事長をつとめていた江利川毅さんのもと、運命のベルが鳴りました。
電話の主は、柳沢伯夫厚生労働大臣です。
厚労省を離れて、すでに10年もたっているのに、いったい、何の用だろう?

それは、厚生労働省の事務次官を引き受けてほしいという要請でした。
「厚生労働省は、いま、非常事態です」
追いかけて、塩崎恭久官房長官からも説得の電話です。
「安倍総理も、いい案だといっています。」
江利川さんは、一晩考えた上で、断りました。
「辻哲夫次官の後輩の中村秀一さんや水田邦雄さんという適任者がいます」

ところが、柳沢さんは諦めません。追いかけて、さらに説得しました。
「あなたは『厚生労働省以外の省庁からの採用』という位置づけです。あなたが断れば、他省庁の出身者を厚生労働次官に考えることになります」
「それは私にとって"殺し文句"でした。」と、江利川さんは告白します。

こうして、
・2つの省庁の事務次官をつとめる
・後輩のあとをついで事務次官になる
という前代未聞の経験をすることになりました。
社会保険庁をめぐる不祥事で厚労省が揺れに揺れ、四面楚歌となった異常事態の中でのできごとでした。

◆突然、介護保険の中心に◆

異常事態の中での異例人事は、その10年前にも、江利川さんの身に降りかかりました。1996年12月4日、岡光序治事務次官が収賄容疑で警視庁捜査2課に逮捕されたのです。(物語47話)
厚生労働省は激震に見舞われました。岡光次官が介護保険法の国会審議の先頭にたっていたこともあり、介護保険法案にも、厳しい目が注がれることになりました。
江利川さんは、当時、年金局の審議官でした。1年後に官邸の首席内閣参事官になることが内々想定されており、「年金局なら1年で動かせるから」という人事上の配慮からのポストだったようです。
ところが、激震のあおりで、介護保険担当の審議官が空席となり、急遽、老健局の審議官に。そして、高齢者介護対策本部事務局長に。
以下は、江利川さんの10年前の日々の回想です。

法案の作成プロセス、たとえば、審議会での議論、関係団体との意見調整、各省庁との交渉などに参画していないので、何が関係者にとって機微に触れる問題なのかなど、重要で微妙な点を体得していません。キャッチアップがまず課題でした。
衆議院厚生委員会での最初の審議の時は、徹夜で作業しても答弁が間に合いませんでした。法案審議の初日の徹夜はよくあることですが、私の知識が乏しく、おまけに、一つ一つ議論しないと私が納得できないために、余計な手間をかけてしまいました。
これは、その後の審議でも同じで、毎回、徹夜で準備し、そのまま国会審議に臨みました。課長補佐の神田裕二さん(現・保険局総務課長)が、昼も夜も百%補佐してくれました。

◆「これで、世の中がよくなるのか?」と小泉厚相◆

 最初の委員会審議の当日のこと、朝早くから小泉厚生大臣と打ち合わせをしたのですが、午後の分の資料は間に合わず、午前の分だけの打ち合わせでした。資料はゼロックスしたばっかりの、できたての温かな資料で、その温かさは、いまも覚えています。
小泉大臣から「これで世の中がよくなるのか」と質問され、「今よりは、ずっとよくなります」と答えたら、大臣は大きくうなずき、常にそういうスタンスで答弁されていました。
関係団体が必ずしも積極的賛成ではなく、医療側、福祉側、自治体側、みな、不安を持っていました。積極的な推進者がいない法案です。この大きな気球を落してはいけない、ゴールまで飛んでもらわなければいけない、そんな思いで関係者と当たりました。
賛成者を探して、浮力を付ける、風を吹かせる。反対者や消極的な人たちには反対と言わせないように、妨害や抵抗をさせないように気を配りました。
具体的には、こんな風だったようです。

◆江利川さん流説得術◆

@医師会を反対側に回さないために。
「真に豊かな国といえるためには、人生の最期を迎えたときに、自分の人生はよかったと思えるような国でなければなりません。介護保険制度は、物質的、経済的に豊かになった我が国が、真に豊かな国になれるかどうかの試金石。知的水準の高い職能グループの代表であられる医師会は、まさか反対なさいませんよね」というトーンを講演などに織り込みました。

A福祉団体の警戒感を解くために。
福祉団体は、民間事業者が入ることに警戒感を抱いていました。
福祉の聖域に株式会社が入っていいのかという空気があったのです。
「保険あってサービスなし、にならないためには、民間事業者の参入はいわば時代の要請」と考えた江利川さんは、こう説きました。
「皆様は、ご自分たちがやっておられる業務に自信と誇りを持っておられると思います。きちんとやっていれば、民間業者をおそれることはありません」

B介護は、保険に向かない、要介護状態に自分はならないという一般論に対して
「亡くなる前に6ヶ月以上要介護状態になる人は約50%。夫婦2人とも要介護にならない確率は4分の1。それぞれの親についても4分の1。ということは、3夫婦ともに要介護にならない確率は、わずか64分の1。自分であっても親であっても、要介護の人を抱えれば家庭は大変です。98%の人が関わりを持つ制度。みんなが係わりを持っているから保険になじむのです」

◆小泉・坂口極秘会談も◆

法案は、江利川さんが事務局長に就任する前の月、96年秋の臨時国会に提出され、衆議院での審議は97年の通常国会、参議院は秋の臨時国会になりました。
国会審議は、現地視察、公聴会なども入れて、衆参ともに100時間を超しました。江利川さんは国会審議では、小泉厚生大臣の横に座って、答弁の3分の2ほどを受け持つことになりました。
国会議員の説得について、江利川さんはこう明かしました。

厚生省の法案は、どんな法案であって国民生活に深い関わりを持つので、与野党ともに賛成するような内容であるべきだと思っていました。ですから、野党の新進党には再三にわたって説明に行きました。
政調会長だった、坂口力議員(後の厚生労働大臣)は、基本的には賛成の立場でしたし、私の接触した新進党内の多くの議員は賛意を示してくれました。
 小泉厚生大臣と坂口さんに、極秘に2度くらい会っていただいて、修正を含め腹を割った協議をしていただきました。かなりうまくいっていたと思います。

ただ、新進党の有力議員が、私の記憶では、こう主張されました。
「保険方式でなく、税方式でやるべきだ。自分が自民党の財務委員長の時に消費税を導入した。高齢化社会の備えるためという理由だった。それなのに、高齢化のために新たに保険制度を作るのは、消費税を導入した理念に反するし、それを主張した自分としては、絶対反対である」

消費税を導入しても、所得税などを減税して、歳入としてはプラマイゼロですから、「高齢化に備えた収入」は入っていないのです。
ただ、そう説明しても、政治姿勢、政治生命に関わる事柄ということなので、政治的に受け入れられない、そういう流れでした。
採決ぎりぎりまで、賛成に回ってもらうように努力をしましたが、幹部の考えを変えてもらうところまでは行きませんでした。

◆新進党は、最後まで反対、ただ……◆

新進党は最後まで反対しました。採決の時、私は委員会の答弁席にいて、田中真紀子議員が反対したのが印象に残りました。このプロセスを一緒に動いてくれた事務局次長の香取照幸さんから、坂口議員は採決の時に議場を退席されましたと聞かされ、深い感激を覚えました。

与党の国会議員では、衆議院では長勢甚遠理事、参議院では上野公成理事が忘れられません。
長勢議員は、介護保険制度には心情的に受け入れがたいものがあるという個人的なお考えでしたが、理事としては法案成立にご尽力してくれました。
夜中に議員宿舎まで行って、付帯決議の相談をしたり、いろいろな打ち合わせの後、夜中に飲みに連れてってもらったり。こちらは翌日の国会答弁がありますから、半分焦っていましたが、でも、思い出に残る体験でした。
上野議員は、まずは野党のやりたいように審議を進め、質疑の重複が目立つようになったところで、終局に向けて交渉をしていただきました。
衆議院は香取さん(現・社会保障担当参事官)、参議院は唐沢剛さん(現・人事課長)、2人の事務局次長を担当者にして、ばっちりフォローしてもらいました。これも、国会審議の進め方としては、ユニークなものがあり、いい経験をしました。

◆参議院で、建設的な政策論議◆

参議院には、この問題のプロのような、深く印象に残っている議員がいます。
亡くなられた今井澄議員、議員を辞された朝日俊弘議員の両医師、弁護士でもある浜四津敏子議員、それぞれ専門的立場から、厳しい、しかし、建設的な政策論議がありました。
自民党の宮崎秀樹議員からは、委員会の場で「在宅の要介護者を見たことがあるか、ないなら案内してやる」と言われ、「議員のお供をして勉強させていただきたい」と答えましたら、その週の土日に岐阜県まで行って、家族介護の実態を見る機会を得ました。
両親の介護で疲れ切っている娘さん、夫を床ずれにならないよう2、3時間おきに寝返りさせるので夜もぐっすり眠れないと言う妻など、行く先々で涙ながらに訴えられました。
社会的な支援なしでは家庭が崩壊するとの感を深くし、一つ一つがプラスの経験でした。

◆あわや「入省お断り」のピンチに◆

厚生労働省が危機に直面するときには、いつも、なくてはならない存在になる江利川さんですが、あやうく、入省を断られるところだったことは、あまり知られていません。
合格の電報を受け取って4日目に厚生省を訪ねた江利川さんに人事担当の課長補佐はいいました。
「去年は9人だったのに、昨日までに、もう15人採ってしまった。 気の毒だけど、採用は、昨日まででおしまいです」
江利川さんが、どうやって、もぐり込めたのか。「ピンチのときには江利川さん」という頼りになる存在になったのはなぜか。
それは、次回に。

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