物語第51話「困ったときにはエリカワさん」の主人公、江利川毅さんは物理と数学が大好きで、少年時代は天文学者を夢みていました。
それが大学進学のとき一転して法学部を選んだのは、東京オリンピックのあと の不況のせいでした。
同級生の家が倒産し、借金とりが押しかけました。
ジャーナリストだった父上から、債権者の非情と債務者の無念に思いを馳せた話を聞いて、江利川さんは思ったのだそうです。
「望遠鏡で地球の外を見るより、足元の地球や社会を見なくては」と。
就職先は「公害部のある厚生省に」と思い定め、公務員試験に挑戦。めでたく、合格の電報が届きました。
「10日以内に来い、とあったので、4日目に厚生省を訪ねました。最初の3日くらいは混んでいると思ったのです。少しのんびりしていたのかもしれません」。
ところが、思いがけない事態が江利川さんを待っていました。人事担当の課長補佐に、こんな風に断られてしまったのです。
「昨日までに、もう予定人員を大幅に上回って採ってしまった。採用は、昨日まででおしまいです」
もの静かなことでは定評のある江利川さんですが、この時は、夢中で食い下がりました。
「10日以内に来いと書いてあるのに、4日目に来て採らないというのはおかしい。それなら、<3日以内に来い>と書くべきだったのではないでしょうか。他省庁に落とされた人は採らないという方針なら分かります。けれど、私は、厚生省だけを志望しているのです」
その気合いに押されたのか、人事課長が会ってくれることになりました。そして、めでたくどんでん返しで入省。
このどんでん返しがなかったら、厚生労働省は2度の危機に立ち往生したことでしょう。
この年入省の「45年組」は、表でご覧のようにきら星のような顔ぶれでした。人事課長が、例年の倍近い16人をついつい採ってしまった気持ちもわかるような気がします。
いまは亡き荻島國男さんはじめ、すでに、4人がこの物語に登場しておられます。
「内定があったうちの何人かは他の省庁にいくのがふつうと聞いていましたが、この年は全員、厚生省にきたのです。司法試験に受かった人もです」
「それと、翌年から『3日以内に来るように』と変えたようです」
昭和45年(1970年)厚生省入省のみなさん(敬称略)
| 物語登場 | 勤務先 |
浅野史郎 | 第16、50話 | 慶応義塾大学教授 |
犬飼健郎 | | 犬飼法律事務所 |
江利川毅 | 第51話 | 厚生労働省事務次官 |
大塚義治 | 第34話 | 日本赤十字社副社長 |
荻島國男 | 第12話 | 故人 |
加藤 修 | | さくら法律事務所 |
川邉 新 | | 日本製薬工業協会常務理事 |
酒井英幸 | | 日本製薬団体連合会理事長 |
辻 宏二 | | 外国運輸金融健康保険組合専務理事 |
中山和之 | | 社会保険診療報酬基金監事 |
橋本泰次 | | (独)医薬品医療機器総合機構監事 |
尾藤廣喜 | | 鴨川法律事務所弁護士 |
真野 章 | | こども未来財団理事長 |
松本省蔵 | | 公害健康被害補償不服審査会委員 |
丸田和生 | | 国家公務員共済組合連合会常任幹事 |
宮島 彰 | | 医薬品医療器機総合機構理事長 |
(平成19年11月 内政関係者名簿より) |
江利川さん同様、入省を断られ、その気迫が人事課長を動かして入省した大物が、もう一人います。
1994年、高齢者介護対策本部構想に踏み切った事務次官で、その後、各省の事務次官を束ねる内閣副官房長官になった古川貞二郎さんです。
厚生省を目指して九大4年生のときに国家試験を受けたのですが失敗。
長崎県庁につとめながら密かに国家試験の勉強をして、59年、人事院が実施する上級職試験と集団討議に合格しました。
ところが、厚生省の面接を受けるために上京する9月26日、伊勢湾台風が日本を襲いました。死傷者4万4千人、家屋半壊15万戸。
親類を見舞おうという人たちが、食料品などを背負って、九州からも名古屋方面に殺到しました。列車ダイヤは乱れに乱れ、やっとのことで大阪までたどりついたものの、「この先には行きません」と降ろされてしまいました。
途方に暮れているところに急行「阿蘇」が出るというアナウンス。必死で飛び乗り、品川にたどり着いたのは、佐賀を発って36時間後、試験前日の早朝でした。
人事院に駆け込んで願書をもらい、書類をに書き込み、厚生省や労働省を巡りました。どの省庁の担当者も、「あすは、面接会場にはできるだけ早く来て、熱意を示した方がいいですよ」と教えてくれました。
助言通り早起きして、本命の厚生省の面接を受けました。けれど、夕刻に届いた通知は「不合格」。
「生まれ変わっても、厚生労働省を受けたい」という古川さん、当時を実に鮮やかに心に刻んでいました。
「翌朝一番で厚生省に行き、人事課長に直談判しようと決心しました。都電の大蔵省前で降り、外務省前の桜の木の下を高ぶった気持ちで歩いたことを、いまも覚えています」
高揚してはいても冷静だった古川さん、課長に会う前に人事課の担当者に会って状況を把握しました。
「採否を決める会議で僕の取り扱いが最大の問題になったことを知りました。脈はある、と思いました」
2日間、睡眠も食事もとれず、173センチの身長に体重は50キロに痩せ、目だけギラギラ光っていたこと、長崎県庁にすでにつとめていることが、どうやら、マイナス材料になったようでした。
「人事課長に会うや、厚生省に入って人々のために仕事をしたい、と熱っぽく訴えました。それしか、ありませんでした」
課長はいいました。
「きみのような熱意ある人材が厚生省には必要だ。でも試験は終わった。努力してみるから長崎に帰っていてくれ。君も、県庁の仕事があるだろう」
このとき、古川さんは、一世一代のウソをついたのだそうです。
「仕事は済ませてきました」
もしも、長崎に帰ったら、「努力したがダメだった。来年がんばってくれ」という話になると思ったからだそうです。
思いは通じて、夕方、内定の知らせ。
「内閣副官房長官になったとき、このときの経験から地方出身者や仕事をしながら受験した人が不利にならないように、色々工夫しました。でも僕は強運でした。ああいう肝の太い人事課長に巡り合えたのですから」
古川さんも、江利川さん同様、前例のない2つの経験の持ち主です。
一つは、東大出身でない初の厚生省事務次官。
39代目の古川さんが「初」というのですから、なんと長く東大帝国が続いてきたことか。
九大出身の古川さんが高く評価されたせいでしょう。京大出身の、羽毛田信吾さん、近藤純五郎さんが事務次官のポストにつく道が開かれました。
古川さんのもう一つの前例のない経験は、内閣副官房長官を8年7カ月つとめたこと。その間、肺癌で肺の5分の1を切り取る手術までしているのですから驚きます。9年前のことです。
閣議が夏休みの時期だったので、ほとんど誰も気付きませんでした。
8年7カ月の間に、総理大臣は、村山→橋本→小渕→森→小泉、なんと5人も代わりました。内閣改造ごとに辞任届けを出すのでその数は13枚に及びました。
この「介護保険物語」にとって重要なのは事務次官に就任した翌年の94年4月、古川さんのリードで、高齢者介護対策本部が発足したことでした。
「政策の重点を高齢者介護の充実に向けなければならない。財源に限りのある中で、どう解決するか。これは省をあげて取り組む問題だと考えました。大内啓伍厚生大臣に相談し、老健制度創設のときの厚生省の経験を生かそうと考えたのです」
80年、八木哲夫事務次官を本部長に老人保健医療対策本部が省をあげてつくられました。担当審議官だった吉原健二さんが事務局長にスカウトしたのが国保課長だった古川さんでした。
「そのときの本部より、さらに強力にするために、事務局長を審議官の阿部正俊さんに格上げしました」
写真は、本部を立ち上げたときのものです。
左から事務局次長の山崎史郎さん(現・内閣府政策統括官)、本部長の古川さん、大内厚相、事務局長の阿部審議官、事務局員の増田雅暢さん(現・上智大教授)、事務局次長の渡邉芳樹さん(現・厚労省年金局長)、事務局員の篠原一正さん(現・厚労省統計情報部社会統計課長)です。
話を、高齢者介護対策本部(見取り図・クリックすると拡大)の事務局長兼審議官だった97年当時の江利川さんに戻しましょう。
国会の議論と並行して、江利川さんは、いくつかのシンポジウムに出ることになりました。
その中で思い出に残っている一つは、NHK・BSの介護保険についての2時間の討論会です。司会は第28話「慈母の遠野物語」にご登場の村田幸子さん。
「村田さんが、事前に、椅子には浅く腰掛け、手はテーブルに置くぐらいの方がいいですよ、と姿勢のアドバイスをしてくださいました。椅子の背にもたれると、視聴者に尊大な印象を与えるのだそうです。討論では、肝心なときに最後の発言をさせていただき、まさに"介護保険の慈母"の慈愛に助けられました」
もう一つ思い出に残るのは、市民シンポジウム。
「NHK・BSの討論会で同席した武蔵野市長の土屋さんと市民とのシンポジウムでした。市長が私の出席を望んでいる、そんな出席要請だったような印象が残っています。シンポジウムでは、私の主張も相当理解していただいたような気がしていました。ところが、市長が、『この人の、この優しそうな顔、丁寧な説明に惑わされてはいけません。この人の後ろには、強大な国家権力があるんです』と何度か、本筋でない、感情論で参加者に訴えたのには、少々驚きました。今では懐かしい思い出です」
物理・数学が好きだった江利川さんのいまの趣味は、俳句です。
父上を偲んだ、こんな句があります。
「秋の書架 亡父(ちち)の背中を見つけたり」