物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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「全国在宅ケアサミットin遠野」のポスター

 介護保険の猛母、介護保険の慈母、介護保険のモナリザ、黒衣のフィクサー。
 老健局長だった堤修三さんが、介護保険の誕生にかかわった女性たちに贈った称号です。
 "猛母、樋口恵子さん"は、第6話 「ヨメたちの反乱」に登場していただきました。今回は、"慈母、村田幸子さん"にまつわる「遠野物語」です。

■未知の男性から手紙が■

 1994年の4月はあわただしい月でした。
 厚生省に高齢者介護対策本部が設置されました。ドイツでは介護保険がスタートしました。未明の記者会見で国民福祉税構想を発表して非難にさらされた細川護煕首相が退陣しました。新生党党首の羽田孜さんが、ワザ師、小沢一郎さんの筋書き通りに、首相の座につきました。

写真@:村田幸子さん

 そんな4月、NHK解説委員の村田幸子さん(写真@)のもとに未知の男性から1通の封書が届きました。
 手紙の主は、岩手県高齢福祉課長の福田素生さん。82年厚生省に入り、OECD勤務をへて、岩手県に出向中の身でした。几帳面な字で綴られたその手紙には、遠野市で計画している「在宅ケアサミット」のコーディネーターをお願いしたい、NHKテレビで紹介していただければ、さらにありがたい、と記されていました。

 いまは岩手県立大学教授をつとめる福田さんは、当時のことを鮮明に覚えていました。
 「遠野の皆さんが県庁にこられ、『在宅ケアの先進地の中心人物を一堂に集めたイベントを催して勉強したい、できればNHKで放送してほしい、ただ、予算がない』というのです」
「予算はふつう、前年にセットしておかないとつかないものです。でも、『今ごろこられても困ります』とは、言いたくなかったのです」

■理想とほど遠い、現場の本音■

 90年、福祉8法が改正され、「市町村福祉の時代」といわれ始めていました。
 92年、岩手県に赴任した福田さんは県内の全市町村を訪ねました。それだけではなく、昼の話し合いの後、会員制で夜の懇親の場をセットして担当者の本音、悩みを聞きました。そして、理想とほど遠い現実が横たわっていることを知ったのです。

 たとえば、こんな本音が語られました。以下は福田さんの著書『社会保障の構造改革』(中央法規)からの抜粋です。

 「年寄りの世話は嫁を中心に家族でするという考えがまだ根強い。国はマスコミの浮ついた議論に焚きつけられて先に進みすぎているのではないか」
 「田舎では、役場も住民も、福祉サービスより何度も同じ道路を掘り返し、乏しい現金収入を補ってもらう方を望むのが実態」
 「保健や福祉の課は、これまで吹きだまりのようなところだった。自分が財政課にいたときは、福祉予算といえば、まず、最初に切る項目だった」
 「初めて課長になって福祉課に来てみたら、いきなりややこしい老人保健福祉計画をつくれという。なんで、自分がこんなものをつくらなくちゃいけないのか」
 「現在の職員体制では、家庭訪問どころか、役場に相談にくる住民の声に耳を傾けることさえできない。きめ細かな福祉サービスなど絵空事だ」
 「住民にもっとも身近な市町村のニーズにきめ細かくこたえる、といえば聞こえがいいが、実態は地域のボスなど特定の人の政治力で、施設の立地場所や入所者の選定が歪められている」
 「補助率が10分の10であっても、仕事が増えるだけだから、やりたくないと考えるのが、役場の職員ではふつう」

 福田さんは考えました。
 公務員の中には「どうしたらできるか」を考えるより、「できない理由」を探すことの方が得意な人も少なくない。こういうときは、実際に成功している事例を示して、できない理由を封じる、さらに、ネックになっていることについての具体的な対策を示す、という道しかない。遠野の企画は、市町村福祉を実現する突破口の1つになるかもしれない。
 "親元"の厚生省を説得。老人保健健康増進等事業から、1200万円を引き出すことに成功しました。
 次は、誰に登壇してもらうかです。
 県に出向している同期の仲間10人余に手紙を書きました。地域の福祉を動かしている、医師以外の人物を紹介してほしい、と。

■外来診療を丸ごと出前する遠野方式■

 話は遡って83年、東北大学医学部を出て8年目の医師、貴田岡(きたおか)博史さんが県立遠野病院の副院長としてこの地にやってきました。第23話「出すぎた杭の面々」の網野皓之さんが伊那谷の無医村、泰阜村に着任したのと奇しくも同じ年です。

 貴田岡さんは着任早々、愕然としました。リハビリテーションが功を奏し、杖で帰っていったお年寄りが、その後さっぱり顔を見せないのです。病院のメーシャルワーカーに調べてもらって、その人たちが家で「寝かせきり」になっていることを知りました。
 市の担当係長、佐藤正市さんも悩みを抱えていました。寝たきり状態のお年寄りが入浴サービスを受けるには、「感染症にかかっていないことを証明する診断書」を提出することが義務づけられていました。移動入浴に携わる人々の安全のためです。ところが、該当するお年寄りは病院には行けない。医師にも来てもらえない。
 その結果、入浴サービスを受けられずにいたのです。

写真A:病院のスタッフと訪問診療する貴田岡博史副院長(右から2人目)

 そこで、市内の「寝たきり老人」100人すべてに外来診療を「出前」しようと話がまとまり、85年、「遠野方式」の訪問診療が始まりました(写真A)。
 ふつうの往診とはスケールが違います。内科医による問診、レントゲン撮影、血液検査、尿検査、生化学検査、心電図検査、看護指導、介護指導がセットになり、しかも無料でした。

 泰阜村の網野ドクター同様、貴田岡さんも行政に無理難題を吹きかける名人でした。
 調理師の免状をもつ遠野市の異色課長補佐、菊地永菜さんは、飲み仲間でもある貴田岡さん(いまは県立遠野病院院長)について親しみと信頼をこめてこぼします。
 「週2回の訪問入浴も大変な時代に『3回にしよう。褥瘡予防にはそれがなにより』という。耐性菌のMRSAをもった患者さんの実家が畜産農家だ分かると、『自宅に戻そう。MRSAより強い菌が家にウヨウヨいるからMRSAを撃退してくれるはず』なんていう。その度にあきれ腹をたてるんですが、結果がいいので、流石、と感心してしまう」

 菊地さんや貴田岡さんたちは毎年3日の休みをとって先進地を訪ね歩きました。そして思いついたのです。
「そうだ。先進地のパイオニアに遠野に集まってもらえば、遠野市のみんなで勉強できるじゃないか」。
 貴田岡さんたちが探しあてていた意中の人物に、福田さんが同期生に手紙を書いて集めた情報を加えて、文末の写真のような、実に見事なパネリストとコメンテーターが揃いました。

■1000人の会場に1200人が■

サミットに集まった演者の出身地

 こうして迎えた94年10月の「全国在宅ケアサミットin遠野」。ホテルが1つもない遠野に、北海道から沖縄まで1200人が集まるという、嬉しい誤算となりました。急遽、近隣のホテルに頼み込み、バスを借り切ってビストン送迎することで難を切り抜けました。
 もうひとつ難題がありました。遠野市最大の会場には、1000人しか入れないのです。
 そこに救い主が現れました。番組づくりのために待機していたNHKの技術陣がお手のもののワザを駆使して、別室にテレビ中継してくれることになりました。こうして、めでたく全員が参加できることになりました。

 シンポジウムは、村田幸子さんの名コーディネートで、この上なく盛り上がりました。
 ホームヘルパー、訪問ナース、保健婦、理学療法士、社会福祉協議会事務局長、在宅介護支援センター職員、医師、町長……とバラエティに富んだパネリストの現場での仕事ぶり。それを、村田さんの発案で、予めビデオにおさめてディスカッションの間に挟みこんだのです。参加者はまるでその町を訪ねている気持ちを味わいました。

 なによりの収穫は、「誰か一人が本気で動けば、地域は動く」という勇気を「お土産」に、参加者たちが地域に帰っていったことでした。
 「パネリストには、医師以外のあらゆる職種を」という福田さんの遠望深慮の勝利でもありました。

 この成功に勢いづいて、サミットは"慈母"を迎えて毎年開かれるようになりました。

 山口昇さんの御調町、山本和儀さんの大東市、福祉自治体ユニット代表幹事が首長をつとめる佐世保市鷹巣町、高浜市。2000年、介護保険推進全国サミットと名を変え、西伯町、加賀市、東松山市、大牟田市、尾花沢市、再び遠野市。そして、第7回が8月末、北海道の本別で開かれます。その仕掛け人"黒衣のフィクサー"については後の回で。

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