喋る介護保険、歩く介護保険、介護保険の鉄人、介護保険の伝道師、ミスター介護保険、介護保険の幻の父、逐電した父、跡を継いだ父、家出した長兄、養子に行った次兄、介護保険応援団の猛母、慈母、モナリザ、黒衣のフィクサー……。
介護保険の成立にかかわった人々に与えられた"称号"の一部です。
命名者は、厚生労働省元老健局長の堤修三さん。堤さん自身は老健局を去るとき、「介護保険の哲人」という称号を贈られています。
「全員わかった!」と自信のある方は、ご連絡を。豪華賞品を進呈させていただきます。
事情通でない方も、"ミスター介護保険"が誰かはお分かりになりますよね。介護保険法の成立から実施、そして改正まで、終始、全力投球してきた山崎史郎さん、現・老健局総務課長です。
その山崎さんに初めて会ったのは、1993年のことでした。講演のため北海道を訪ねた私の目の前に、分厚い説明資料を抱えた山崎さんが突然、現れたのです。北海道庁の成人保健課長。厚生省から出向中でした。
山崎さんには、前任の老人保健課の課長補佐のときの苦い思いがありました。
当時は老人病院全盛の時代でした。
「ヨメ」と呼ばれる人々の無給労働を前提とした「日本型福祉政策」が打ち出されて福祉予算が切りつめられ、家族は疲れ果てていました。それを目当てに、終生お預かり型の"病院もどき"が、地価の安い郊外に、にょきにょきと建てられていったのです。
日本の医療保険報酬は、薬を使えば使うほど収入があがる出来高払い制度をとっていました。そこで、志の低い経営者は「薬漬け」という手法を編み出しました。口からちゃんと食べられるお年寄りにまで点滴をする、といった方式です。
医療費は上昇し、日本独特の「寝たきり老人」が大量製造されました。
なんとかしなければ、と当時の老人保健課長、伊藤雅治さんたちは考えました。そして、薬の量を増やしても収入が増えない「包括払い」を取り入れました。不必要な点滴が減って、お年寄りの顔色はめきめきよくなってゆきました。(詳しくは第13話「介護力強化病院と訪問看護ステーションの登場」を)
経営第一の病院は、この制度でも収入を増す手法を考えだしました。必要な治療やリハビリを手抜きする「粗診粗療」の横行です。
山崎さんは米国生まれのMDS/RAPSというケア評価の道具を使ってこの状況を打開できないかと考えました。仲間と手分けして土日返上で翻訳し、北海道の老人病院に入院中のお年寄り1000人にこれを試してみました。私が北海道を訪ねた時は、その成果が出始めたころだったのです。
このような仕事ぶりを注目していた人がいました。事務次官の古川貞二郎さんです。
古川さんは次官を退官後、官僚機構の頂点、内閣官房副長官に就任。8年7か月という史上最長の在任期間中に、村山、橋本、小渕、森、小泉、5代の首相を支えることになった大物次官です。枕元にもメモをおいて、5、6年後の政策を担う人事のブランを練るという深謀遠慮の人。山崎さんを、「難しいことを、楽しそうにやってしまう、陰日向のない人物」、かねがねと評価していました。
そのころ古川さんは、政策の重点を介護の充実に向けなけなければならないと考えていました。同時に、財源を租税に頼ることの限界を感じていました。税財源は大蔵省がにぎっていて思うように増やせません。国民福祉税騒動で、税財源を膨らますのは至難のワザであることもはっきりしました。(第18話)
そのような制約の下で介護の財源を確保しようとすれば、他の福祉サービスを食ってしまうことにつながります。そうはいっても、医療保険や年金保険のような社会保険方式への政策転換には、大蔵省はもちろん、省内からも反発が予想されました。
古川さんには多くの「語録」があるのですが、その中に「やるか、やらないか迷うときはやる方をとり、A・Bどちらか迷うときは、『やりたくないなあ』と思う方を選ぶ」というのがあります。この問題でも困難な道が選ばれました。
「老健制度をつくるとき、八木哲夫事務次官が本部長になって対策本部を立ち上げ、うまくゆきました。私はまだ国保課長だったのですが事務局長に据えられました。あのときのように、厚生省あげて取り組もうと考えたのです」と古川さんは懐かしそうです。
古川本部長のもと、初代事務局長は、第17話に登場した阿部正俊審議官(後に、参議院議員)。阿部さんが老人保健福祉局長になってからは、前回、官房総務課長として登場した"根回しの名人"和田勝審議官が事務局長に任命されました。そして専従スタッフのトップ、事務局次長として、山崎史郎さんが北海道から呼び戻されたのでした。
「苦労をかけることになると思う。いろんな人が君を蹴飛ばしにくるかもしれない。渡辺芳樹くん(現・年金局長)を兼務で助っ人につけよう」と古川次官から言われました、と山崎さんは回想します。その渡辺さんは、スウェーデン大使館勤務の経験があって、この分野に明るく、八方目配りができる人物でした。
こうして、いよいよ、高齢者介護対策本部が誕生することになり、記者クラブに発表している94年4月8日、細川首相が、またまた、突然の記者会見をしていました。
「寝たいってことですよ。休みたいってこと」。
こんどは、辞意表明でした。
高齢者介護対策本部設立は、細川内閣と大内厚相の最後の仕事となったのでした。
山崎史郎さんの最初の仕事は、7月に立ち上げる高齢者介護・自立支援検討会の座長役を口説くことでした。
白羽の矢をたてたのは、「市町村は最初の政府」と唱えていた、行政学が専門の東大教授、大森彌(わたる)さんです。
図をご覧ください。北欧、ドイツ、日本の介護保障の特徴を2つの軸で私流に分類してみたもので、円の面積は財源の大きさを表しています。
X軸は財源が社会保険か租税かを表しています。
ドイツは全額社会保険料、日本の措置制度と北欧は全額租税。日本の介護保険は、税と社会保険料をあわせた折衷型制度です。
Y軸は、中央集権的運営か市町村主権か、です。
北欧の介護保障は、租税といっても市町村税ですから、市町村が主役です。日本の措置制度は、細かいところまで中央で決める中央集権です。
税方式といっても、中央で万事、細かく決めてしまうか、市町村の事情、必要度によって住民の意向を確かめながら集めて使うかで、結果はまったく違うことになります。
ドイツは州が主役。日本の介護保険は市町村を主役にする北欧型を目指していました。
「介護保険」という名称から、ドイツの介護保険を手本にしたと誤解する人が多いのですが、事務局には「ドイツを手本に」と考えている人は、いませんでした。
介護サービスのメニューも、市町村を事業の主役にすえることも、デンマークやスウェーデンなど北欧がモデルでした。
ただし、費用調達の方式としては、北欧流の市町村税方式は日本の歴史的背景にはなじまず、実現も難しいという判断から、医療保険のように税金と社会保険料をあわせた日本型の財源を本命にすえたのでした。
大森さんは当時を鮮明に覚えていました。
「山崎さんが訪ねてきたとき、私は、開口一番、厚生省は本気で措置制度を廃止する決心をしているのですかと尋ねました。すると『かならず廃止します』という。次に、専従を置くのですかと尋ねました。『置きます』という。背水の陣だな、と思いました」
大森さんが措置制度の廃止を強く主張したのには、学問的理由の他にもうひとつの背景がありました。
"生まれながらの大学教授"といった風貌(写真)からは想像できまませんが、大森さんは幼くして父を失い、町工場で働きながら夜学で高校を卒業した経験の持ち主です。バーテン、道路作業員、くず鉄業、あらゆるアルバイトを経験しました。
生活保護を受けていることが、小学校の担任教師の口から、級友に知られてしまい、惨めな思いもしました。
人間の誇りを傷つける「措置」という制度の宿命を、身をもって体験していたのでした。