物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

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 政界のYKK、山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎の皆さんは、激しく浮いたり沈んだり……。その間柄も混迷をきわめています。
 対照的なのが、介護保険の世界のYKKK。誰一人沈むことなく、活躍中です。

 Yは、前回登場した高齢者介護対策本部の初代事務局次長、山崎史郎さん(現・老健局総務課長)、3つのKは、2代目次長の香取照幸さん(現・雇用均等・児童家庭局総務課長)、3代目の唐沢剛さん(現・国民健康保険課長)、4代目の神田裕二さん(現・企業年金国民年金基金課長)です。
 前回の"称号"クイズ、全員を当てた方がまだおられないので、正解の一部をここで公開してしまいますね。
 「"喋る介護保険"は香取さん」と答えた方が多いのですが、正解は、唐沢さん、"歩く介護保険"は神田さん、そのいわれは、後の号に譲ることにします。

 香取さんの称号は、"介護保険の鉄人"。その整った顔だちから、カトリーヌ・カトリとも呼ばれます。
 1994年4月、介護対策本部が発足したとき、老人保健福祉局企画課課長補佐と兼務でこのプロジェクトに参画して以来、山崎さんとともに車の両輪のように介護保険を引っ張ってきた人物です。

■"劇薬?"岡本祐三さんと樋口恵子さん

 対策本部の最大の課題は、「高齢者介護・自立支援システム研究会」の人選でした。
 座長には、地方分権に造詣が深く、自治省にも一目置かれている人物を、と、東京大学教養学部教授の大森彌さんに白羽の矢がたち、前号でご紹介したやりとりののち承諾してもらうことができました。
 大森さんのファーストネーム、彌は、「わたる」と読むのですが、正しく読める人はめったにおらず、「ヤーさん」という通称が定着しています。そこで、本号のタイトルにも使わせていただきました。

写真:岡本祐三さん

 人選でかなり揉めたのが、岡本祐三さん、すこし揉めたのが樋口恵子さん、いずれも香取さんが強く推薦した人物でした。
 岡本さんは、朝日新聞のシンポジウムに度々登場していただき、朝日新聞から『デンマークに学ぶ豊かな老後』という本も出しておられたので、朝日新聞の読者には有名でした。でも、他紙の愛読者にとっては無名の存在で、肩書も当時は阪南中央病院の内科医長。
 おまけに、この病院については「同和地区を支援する新左翼の病院」「水俣病にからむ裁判で厚生省に不利な証言をした医師が大勢いる病院」という情報が流れていて、省内の一部からは「とんでもない」と横やりが入りました。

 樋口さんは、厚生省にも手厳しい批判の論陣を張る辛口の評論家として知られていました。高齢化社会をよくする女性の会の代表でもありました。(第6話 「ヨメ」たちの反乱
 「研究会の結論は、新たな保険料負担を提案することになる可能性がある。負担増を嫌う女性の意見を背負って激しく反対されると一大事」と心配する人がいたのでした。

写真:樋口恵子さん

 応援したのは、"根回しの天才"と呼ばれ、後に二代目事務局長になる和田勝さんでした。
 和田さんは言いました。
「厚生省に批判的で、発信力のある人にこそ、入っていただこう。劇薬は、最初に飲んだ方がいい」
 この和田さんの判断は、介護保険を推進する人々から、感謝されることになります。
 岡本さんは自治労に、樋口さんは女性たちに、影響力を発揮し、介護保険の実現に貢献することになったからです。ただし、それには代償がありました。

 岡本さんは著書でデンマークのシステムを紹介したこともあり、「北欧派」と目されていました。北欧の介護は税金で保障されています。
 「それなのに、税金による介護の社会化を捨て、介護保険を推進するとは"裏切り者"」と非難されたのです。
 樋口さんも、テレビの座談会で介護保険を批判する論客から激しく追及され、それが巡りめぐって、最愛の伴侶の死を招くことになったのでした。

■介護地獄を味わった東大教授・宮島洋さん

写真:宮島洋さん

 その他のメンバーはスラスラと決まりました。
 東京大学経済学部教授の宮島洋さんは、93年10月に始まった大内厚相の私的懇談会「高齢社会福祉ビジョン懇談会」(略称ビジョン懇)のメンバーに招かれ、厚生省との縁ができたところでした。このころ官房総務課長だった和田さんが、「介護と子育て支援にもっと税金を割くように、社会の関心を向けよう」と考え、厚相を口説いて設けた懇談会でした。(第18話 「未明の首相記者会見、そして34時間後……。」

 宮島さんは、こう打ち明けます。
「財政学者としてメンバーに加えていただいたようですが、実は、私自身、週2回、お袋とおやじを泊まり込みで介護する立場を経験し、研究者としての仕事もおろそかになって悩み、追い詰められた当事者だったのです」

 宮島さんの父上は哲学の教授。夫人との間に、4人の子宝に恵まれ、息子3人は、長男が社会学、次男の洋さんが財政学、三男は政治学で頭角をあらわすという幸せな学者一家でした。
 ところが、夫人が、糖尿病で失明、自身も、88年、脳梗塞で倒れ、91年に亡くなるまで意識がもどりませんでした。

「女房たちに負担をかけるのはやめよう、と意見が一致し、実の子4人で輪番制で泊まり込みと病院通いをすることになりました。男3人が大学の先生だったからこそできたことですが、この3年間が、実につらかった。その中から、これまで見えなかったものが見えてきました」
 92年に出版された『高齢化社会の社会経済学』(岩波書店)は、「文学にたとえれば、意識して客観化した私小説でした」と宮島さんは、述懐します。

■橋本泰子さんは、介護対策検討会に続いて

写真:橋本泰子さん

 東京弘済園弘済ケアセンター所長だった橋本泰子さん(現・大正大学教授)は、介護が必要な高齢者を、住み慣れたなじみの町で支える実践のパイオニアでした。
 現場に根ざしたその発言や提言を買われて、介護の政策を日本で初めてとりあげた89年の介護対策検討会の委員に。以来、このシステム研究会、老人保健福祉審議会、社会保障審議会…と介護の政策にかかわり続けています。
 94年12月に公表された研究会報告に次のような、一節があります。

 今後の高齢者介護の基本理念は、高齢者が自らの意思に基づき、自立した質の 高い生活を送ることができるように支援すること、つまり『高齢者の自立支援』である。
 従来の高齢者介護は、どちらかと言えば、高齢者の身体を清潔に保ち、食事や入浴等の面倒をみるといった「お世話」の面にとどまりがちであった。

 今後は、重度の障害を有する高齢者であっても、例えば、車椅子で外出し、好きな買い物ができ、友人に会い、地域社会の一員として様々な活動に参加するなど、自分の生活を楽しむことができるような、自立した生活の実現を積極的に支援することが、介護の基本理念として置かれるべきである。

 山崎史郎さんによれば、この文章の後半は、最終段階の原案を橋本さんが見て、特に求めて挿入し、岡本さん、樋口さんが、強力に応援した結果盛り込まれた文章だそうです。

 障害者の自立支援法にもこの哲学が埋め込まれていたら、不幸な対立は生まれなかったのではないかと悔やまれます。

■縁は異なもの

 ところで、樋口さん・岡本さん・香取さんの縁結びには、私もちょっぴり関係しています。
 岡本さんに初めて会ったのは、87年、朝日新聞の医師向け雑誌『モダンメディシン』の編集部がデンマークの介護にまつわる政策転換のリーダーを迎えて企画した座談会の席上でした。副編集長の秦洋一さんが「出席者に岡本祐三さんを加えよう」と提案したのです。
 「デンマークには寝たきり老人のいう概念がない。一人暮らしの要介護のお年寄りも、起きてお洒落して、自宅で暮らすことができている」という私の報道を「良いところだけ見せられたのではないか」と岡本さんは強く疑っている、「だから適任だ」という理由でした。
 これがきっかけで岡本さんは、デンマークに何度も出かけてくださることになったのですから、出会いというものは不思議です。

 著書『デンマークに学ぶ豊かな老後』のあとがきに岡本さんはこう書いてくださっています。
「大熊由紀子さんの"深謀遠慮"によって、筆者が北欧ショックを受けることができたのは、実に幸いであった」
 私にも、幸いでした。最も手ごわい「敵」が消えて、味方が増えたのです。そればかりか、北欧の自立支援の哲学やケアシステムが、高齢者介護・自立支援システム研究会に生かされることになったのですから。

 朝日新聞はこの87年、2日がかりの国際シンポジウム「高齢化社会を考える」の準備を進めていました。予定された討論参加者は、日経連の亀井正夫さん、連合の山岸章さんはじめ、米・英・独の高名な教授たちでした。松山幸雄論説主幹から生まれて初めてコーディネーターを命ぜられた私は、事務局に掛け合って、岡本さんと樋口さんを加えてもらいました。
 おふたりの発言は説得力があって、聴衆にも、読者にも、強い印象をあたえてくださいました。その席で樋口さんと岡本さんの縁が結ばれました。

 香取さんと私の縁を結んでくれたのは、皮肉なことに、後に介護保険の強烈な反対者となり論陣をはることになった人物でしたが、当時は香取さんの力量にに惚れ込んでいました。香取さんとの縁は続いて、90年、埼玉県の老人福祉課長出向してからも、介護について意見を交わすようになりました。
 91年、岡本さんが団長、樋口さんも参加するデンマーク視察団に香取さんに参加を勧めるたのはそんな縁でした。
 香取さんが周囲の反対を知りながら樋口さんと岡本さんを委員に推薦し続けた背景には、91年のデンマーク視察の旅で生まれた信頼がありました。
 残る5人のサムライの物語は次号に。

(写真は、社会保険研究所提供)
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