物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

※写真にマウスポインタをのせると説明が表示されます



表@:高齢者介護・自立支援システム研究会委員名簿
(座長)大森  彌☆東京大学教養学部教授
(座長代理)山口  昇公立みつぎ総合病院長
岡本 祐三 ★阪南中央病院内科医長
京極 高宣日本社会事業大学教授
清家  篤慶応義塾大学商学部教授
田中  滋慶応義塾大学大学院経営管理研究科教授
橋本 泰子 ★東京弘済園弘済ケアセンター所長
樋口 恵子 ★東京家政大学教授
宮島  洋 ★東京大学経済学部教授
山崎 摩耶帝京平成短期大学助教授
(★は前回、☆は前々回に登場した方)

 「役所というところには、答弁はするけど論争はしない、というシキタリがあるらしい。審議会や研究会で委員に反論する役人は、阪大教授になった堤修三さんくらいのものです。ただ、システム研は違っていました。委員も事務局も一緒になって、トコトン議論しました。そこから、同じ目標に向かう連帯感みたいなものが生まれました」
慶応義塾大教授の田中滋さんは思い出を語ります。

 システム研とは、大森彌さんを座長に、後の介護保険制度の骨格をつくることになった「高齢者介護・自立支援システム研究会」のことです。1994年7月に設けられ、その年の暮れに報告書を纒めました。表1はそのメンバーです。今回は、そのシステム研のみなさんの物語の続編です。前回登場しなかったみなさんを、まず、ご紹介します。

■羽ばたいたシステム研の面々■

写真:山口昇さん

 山口昇さん。
 94年当時は、国診協(国民健康保険診療施設協議会)の会長で、広島県御調町にある病院の院長でした。
 広島県選出の増岡博之さんが84年、厚生大臣に就任したのが縁で、大臣秘書官だった大塚義治さんや広島出身の吉村仁さんと知り合いました。ふたりとも、その後、事務次官になった大物。これが縁で、厚生省との付き合いが深まりました。
 地域医療や「寝たきり起こし」の実績を買われてメンバーに加わり、座長代理もつとめました。

写真:京極高宣さん

 京極高宣さん。
 80年代なかば、厚生省の社会福祉専門官として社会福祉士と介護福祉士の資格制度成立のために走り回りました(第11話)。
 経済学出身で福祉と行政に詳しい人物ということで白羽の矢がたちました。

写真:清家篤さん

 清家篤さん。
 介護を論ずる上で不可欠なのは、介護スタッフの労働条件です。これに労働経済の側面から光をあててもらおうという目論見でした。新たな制度をつくる上で交渉相手になる「連合」も信頼されている人物であることもと頼りにされたようです。

写真:田中滋さん

 田中滋さん。
 同じ慶応の経済分野の教授ですが、専門は違って経営管理学。京大教授の伊藤光晴さんを中心に据えて吉村仁さんがつくった若手経済学者の研究会で、「錯綜した議論を綺麗に整理して、概念を組み立てる人」と評判になったのが厚生省との縁のはじまりです。
 私も、助教授時代の田中さんに『「寝たきり老人」のいる国いない国』(90年、ぶどう社)の"助っ人"として登場していただいた経験があります。
 「国民負担率が高まると国民は負担にあえぐ、と大蔵省や財界はいうけれど、この指標は国民の『真の負担』を反映しているわけではない」というのが田中さんの説です。これをはっきりさせるために、「純国民負担率」「正味負担率」という概念を提唱していました。
 「純国民負担率」は、「いわゆる国民負担率」から、国民ひとりひとりに戻ってくる社会保障給付を差し引いた数字です。これで比べると、スウェーデンと日本とで見かけ上34ポイントも開いているように見える「負担」率の差が6ポイントに縮んでしまうのです。

写真:山崎摩耶さん

 山崎摩耶さん。
 訪問看護の草分けです。東京の新宿区民健康センターでの実践で出会った人々を描いた『優しき長距離ランナーたち』で84年に潮ノンフィクション賞を受賞。訪問看護事業を立ち上げた伊藤雅治さん(第4話、第13話)たちが始めた勉強会、ニューホライゾン研究会のメンバーに加わったのが厚生省とのつきあいのはじまりでした。

 システム研のメンバーたちは、この研究会に参加したことがきっかけになって、大きく羽ばたくことになりました。
 京極さんは、日本社会事業大学学長となり、数々の委員会の座長、そして、国立社会保障・人口問題研究所所長に。山口昇さんは、システム研報告が出た翌95年、故矢内伸夫さん(第9話第10話)のあとをついで全老健(全国老人保健施設協会)の会長に就任して、介護保険実施の各段階にかかわることになります。

 まったく予想したことのない人生を歩むことになったのが山崎摩耶さんです。まず、短期大学の助教授から、4年制大学の教授に迎えられる話が纒まりました。ところが、その矢先、日本看護協会からも「常任理事に」とスカウトされたのです。迷った末に看護協会へ。
 こうして95年からの10年間、看護協会の「顔」として活躍することになりました。

■もう一組の9人のサムライ■

表A:1994年7月時点の高齢者介護対策本部事務局の陣容と現職
事務局長和田  勝(三重県)国際医療福祉大学大学院教授
事務局次長山崎 史郎(北海道)厚生労働省老健局総務課長
渡邉 芳樹(スウェーデン)厚生労働省年金局長
次長補佐増田 雅暢(岡山市)内閣府少子・高齢化対策担当参事官
伊原 和人(伊丹市)厚生労働省企画官(障害保健福祉部併任)
香取 照幸(埼玉県)厚生労働省雇用均等・児童家庭局総務課長
主査池田 宏司OECDに出向中に事故で死去
泉  潤一大阪府健康福祉部高齢介護室介護支援課長
事務局員野村 知司厚生労働省精神保健課課長補佐
渡辺 幹司岡山市保健福祉局福祉部長
☆は併任、(  )内は出向していた土地

 冒頭の田中さんの言葉に出てくるトコトコン議論した高齢者介護対策本部事務局にも、9人のサムライが集められていました(表2)。
 以下は、精神保健福祉課課長補佐、野村知司さんの回想です。

 「事務局次長の山崎さんは、昼間、事務局で顔をみることはめったになく、外に出ていろんな人に会っていました。だから、打ち合わせは、日付が変わった深夜になるのが常。そこに、"ナマイキな口をきく、どこかの課の係長"が、なぜかいつも座っていて、山崎さんと、時に仲良く、ときに激しくやり合っている。係長なのに、なんであんな偉そうな口をきけるのか不思議でした」
 「係長」に見えたのは、年より若く見えてしまうのが悩みの香取照幸さん。山崎さんより2年後輩ですが、係長ではなく、課長補佐で、老人保健福祉局企画課と対策本部を併任していたのです。
 「そこにいても」「対等に口をきいても」、不思議はなかったのです。

 野村さんの思い出話は続きます。
 「香取さんはアタマがよくて、弁がたつ。論争したら勝ち目がないので、たいていの人が引き下がってしまう。ところが、ただひとり、果敢に論争を挑んでいた。それが伊原さんでした」
 伊原さんを無理やりこのチームに引き込んだのは事務局長の和田勝さんでした。
 伊原さんは人事院の海外派遣の試験に合格してアメリカに行くことが決まっていました。それを、「この仕事のメドがついたらかならずアメリカに行かせるから」と和田さんが説得したのだそうです。

 伊原さんは、伊丹市役所に出向していた29歳のとき、『国民皆介護保険制度の創設を!』という提言を月刊総合ケアに書いていました。91年、研究会発足の3年前のことです
 「それを知っての人選だったのですか?」と尋ねたら意外な答えが返ってきました。
 「まったく知らなかった。僕が登場した「物語介護保険」の第18話『未明の首相記者会見……』の冒頭に伊原くんが登場しているのでびっくりしました。
彼は、逃げない、へこたれない、責任感が強い。そこを見込んだんです」

■自治体で措置制度のの限界を知った若手たちが■

 もうひとつの理由がありました。入省したての4人は別として、スタッフはいずれも自治体で仕事をした経験の持ち主です。
 ジャーナリストを目指して中央公論に入った後、米シラキュース大学大学院で政治学を学び、厚生省に入省した増田雅暢さんは91年から94年まで岡山市の部長に出向していたときの経験をこう話します。
 「在宅ケアのカナメはヘルパーなのに予算が決まっていてニーズに応えられない。やむなく、生活保護や非課税の世帯に対象を限る。だから、一般の人に広げられない。ヘルパーは自治体の嘱託なので土日は働かない。夜もダメ。措置制度の限界をいやというほど知らされました」

 その増田さんと同じ岡山市の部長に出向中の渡辺幹司さんが忘れられないのは、伊原さんを手伝って、高齢者介護の社会的コストの推計計算をしたときのことです。
 「窓のない地下の部屋で必死でした」
 苦心の推計は次のようにまとめられています。
 93年3.・3兆円。内訳は、家族介護60%、施設サービス35%、在宅サービス5%。
 2000年推計7・7兆円。家族介護45%、施設サービス40%、在宅サービス15%。
 家族が受け持っている介護のコストは、介護時間と家事援助型ヘルパーの補助基準額をもとに計算しました。

 地下にある窓のない居心地の悪いこの部屋は、「瞑想の部屋」と名付けられていました。「せめて、名前だけでも志高く」と。
 その「瞑想の部屋」でシステム研究会報告書の原文が書き下ろされました。
 そこに盛り込まれた新たな介護システムの思想と論理については次回に。

(写真は、社会保険研究所提供)
▲上に戻る▲

次のページへ

物語・介護保険 目次に戻る

トップページに戻る