「魂の器」としての介護の拠点を求め続けた京大教授の外山義さんの物語を続けます。
介護保険施設のあり方に大きく転換を迫った外山さんの研究は、岐阜県立飛騨寿楽苑を舞台に行われました。1970年に開設された6人部屋(写真@)、80「床」の平均的な特別養護老人ホームです。
時代遅れの雑居の特別養護老人ホームについて、日本の専門家だけがこう主張していました。
「雑居などと、人聞きの悪い言葉は使わないでほしいものです。その方が、和気あいあいとして、いいんです。日本の老人の人情や文化は、西洋とは違う。これが、日本人にはあっているんです」。
ほんとうに「和気あいあい」なのか、それを客観的、数量的に初めて検証したのが外山さんでした。
方法はこうです。
お年寄りの顔を一人一人覚えた15人の学生が廊下側のベンチに分散して静かに座ります。そして、1分間ごとに記録をとってゆきます。朝7時から夜7時まで、誰とだれがどのような会話を交わしたかを記録します。
結果は、常識を覆すものでした。
昼間の8時間、10室中8室で最高2回しか会話がなかったのです。2回あったのが2室、1回が3室、会話のまったくなかった部屋が3室。3回以上の会話があった部屋も、「お金がなくなった、あんたが盗ったんではないか」といったトラブルがほとんどでした。
※図上でクリックすると図が拡大し文字が読めるようになります
外山さんたちは、さらに、「どういう姿勢で、どちらを向いて、何をしているか」を同じ1分間スタディで観察し、80人分を重ねてみました。それが、図@です。
窓側のベッドの人の80%が、他の5人と視線があわないように背を向ける姿勢をとっていることが分かりました。廊下側の人は67%が廊下を向いています。中央の人は97%が上を向いていました。
「和気あいあい」どころではありません。
外山さんはこれを、「雑居部屋ゆえの閉じこもり」と命名しました。
「ひとと交流したいという気持ちがおきてくるためにこそ、個室が必要」と主張しました。
この研究のさらユニークなところは、飛騨寿楽苑が個室に改築された後、引き続き観察を続けたことです。正確には、改築後も観察を続けるというのが当初からの計画でした。入居している人もスタッフも顔ぶれは変わらないという条件のもとで変化があったとすれば、それは「住環境のせい」と推理できるからです。
結果はどうだったでしょう。
お年寄りの行動は驚くほど大きく変化していました。
ベッドから離れ、互いの部屋を訪問するようになりました。口から食べる人が増えました(図A)。トイレの自立も進みました(図B)。残飯も半分に減りました。同室の人に気をつかわずにすむので家族の訪問がぐんと増えました。そして、なにより、笑顔と会話が増えたのです。
外山さんの建築家としての評価を高めたのは、東北大助教授時代からかかわった秋田県鷹巣町(合併後北秋田市)の「ケアタウンたかのす」でした。一緒に建設にあたった茂木聡さん(コスモス設計)は、外山さんの当時の言葉を追悼集『魂の器をもとめて』に記しています。外山さんはしばしばこうもらしていたのだそうです。
「設計をしていて、これほど緊張したことはない、住民全部が私の肩にのしかかってくる感じだ。僕は本物をつくらなければならない責任がある」
1区画が完成したところで、「ケアタウン探検隊」が催されました。(写真A)1週間で700人が訪れ、町の人から様々な注文やアイデアが出されました。こうして、町民の思いのつまった「在宅の拠点」の誕生したのでした。
このような住民参画の動きに注目していた人物がいました。
愛知県高浜市長の森貞述さん(写真B)です。
森さんは、65年に慶応大学商学部を卒業。マーケティング部門の大学院の難しい試験に合格し、研究者として大学に残るつもりでした。
ところが、醤油製造の老舗を継がなければならない羽目になってしまいました。泣く泣く大学院をあきらめ、食品工業試験所で醸造の勉強、そして、故郷に戻ってきました。料亭の茶碗蒸しなどに欠かせない小麦からつくる白い上等な醤油をつくる由緒ある家でした。
87年市議、そして、89年には市長に。揺るぎない信頼をえて、現在4期めです。
鷹巣町が自治体で初めて24時間体制のホームヘルプに踏み切ったことを知った森さんは、研究熱心の血が騒いで、現地を訪ねる機会をうかがっていました。住宅関連の見本市が山形県で開かれ、高浜名物の三州瓦を出品することになったとき、「チャンス到来」と夜行で鷹巣へ。
当時のことを森さんは、しみじみといいます。
「朝8時前に駅について町役場に急ぎました。見本市を控えているので会ってお話しできたのは30分ほどでしたが、強い印象を受けました。福祉をめぐる政争の中で闘っていらっしゃる岩川さんていう方の思いを痛いほど感じました」
以来、町村合併ムードに安易には追従しない同志として、福祉自治体ユニットの代表幹事同士として手を組むことになりました。
森さんは、商学部出身、商家出身の強みを生かして、「じい&ばあ」(写真CD)「あ・うん」(写真EF)など、民家を活用したユニークな在宅拠点をつくって"オンリーワンの福祉の町"として道を切り開いていくことになりますが、詳しくは後の回でご紹介することにして、外山さんに話を戻します。
急逝する3カ月前の夏、外山さんは鷹巣にいました。
「ケアタウンたかのす」には、町の文化の拠点としてのミニ・コンサートホールがついていました。ところがコンサートホールなのに、グランドピアノがありません。その資金集めのためのシンポジウムに外山さんは手弁当で駆けつけたのでした。
いまでは"遺言"になってしまった外山さんの言葉が最近出版された『こんなまちなら老後は、安心〜セーフティーネットを鷹巣から北秋田へ、そして全国へ』(CLC)に記されていますので、一部引用してみます。
個室化した後の「飛騨寿楽苑」と「ケアタウン」の、認知症ケアのレベルを比較した研究について話している部分です。
「双方の会話の内容を全部記録しました。その会話が職員の側からスタートしたのか、お年寄りの側から出たのか、それから、会話の中味が介護に関連する内容の会話なのか、それとも生活の内容に関連するものか」
「ケアタウンは、日常生活の会話が3.4倍も多かった。これは、職員とお年寄りの関係性を映し出していると思います。お年寄りが主人公になることができていて、自分の気持ちを素直に言えている。障害や病気のこと以外の、ふつうの暮らし、地域の暮らしの延長線上の話題やなんかでてきてきるということなんです」(写真G)
「これからも僕は、繰り返し繰り返し、この定点観測地にもどってきてエールを送り続けたいと思います」
「僕の願いは、第2、第3、第4の鷹巣が全国にできることです」
その年の11月、外山さんは、約束をはたすことのできないところへ旅立っていってしまいました。
岩川さんにも思いがけない運命が待ち受けていました。
「町村合併すば、特例債が入って町は潤う」「福祉は身の丈で」と唱えた対立候補に破れ、いまは、再起を目指す身です。新しい首長は奇しくも「個室はこの町にはもったいない」が持論だったお医者さんです。
福祉自治体ユニットの代表幹事は、首長しかなれません。岩川さんに代わって登場したのが千葉県の我孫子の福嶋浩彦さん(写真H)です。
福嶋さんもまた、不思議な経歴の持ち主です。
筑波大学を無期停学、そして「除籍処分」。その2年後には最年少で市議、95年には市長。
介護保険に数々の注文をつけることになった福嶋さんについてはのちの回で。