物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第47話 「介護保険のためだ。辞表を書いてほしい」 (月刊・介護保険情報2008年4月号)

■「坪井栄孝さんに吹き込まれました」■

 「診療報酬を上げても、奥さんの毛皮に化ける病院もある」という岡光序治保険局長の発言が「毛皮発言」と呼ばれ、物議を醸したことは前回ご紹介しました。
 そんな岡光さんとこの発言のあった年、96年4月、日本医師会の会長になった坪井栄孝さん(写真)とは犬猿の仲に違いないと思ったら、まるで違いました。
 「介護保険の基盤を在宅介護に置くべきだと確信したのは、実は、栄孝さんに『在宅ホスピスの思想』を吹き込まれたからなんです。あの人のお父さん〜材木屋のオッチャンちゃん〜が倒れたとき、栄孝さんは、部屋を改造し、自宅で介護し続けました。郡山の家を訪ねてそれを目の当たりにして感動しました。それだけでなく、身内以外にも、そうしている。この人、偉いなあ、と」

 そのころ、私も、坪井さんを招いて、「誇りある生と安らかな死を求めて」というシンポジウムを朝日新聞主催で開いていました。
 記録を読みかえしてみると、坪井さんは、こう発言していました。
 「20年前、故郷に帰りました。東京で治せる癌は郡山でも治したい、という思いがありました。21世紀に入ると、癌は70%は治ると予想されていました。けれど、30%は治せないかもしれない。そこで、治せない状況の人たちに、どうお手伝いができるのかと考えてホスピスケアを始めました。
 ホスピスケアは、プログラムです。庭の花が見たいという患者さんに家へ帰ってもらい、痛み止めの治療を続けます。自分で手入れした庭、そこに花が咲くと、顔が違ってきます」
 「ホスピスケアは、インフォームド・コンセントがないと成り立ちません。私のところで完全に告知できる患者さんは残念ながらまだ81%ですが、完全にお手伝いできるよう準備を整えてから告知するのを原則にしています。
 ホスピスは、死の待合室ではない。死が目的でもない。生きることが目的のプログラムです。死が目の前にあって、その死までの間の生をどうするか。その立場にある患者さんを全力投球でお手伝いするのが、ホスピスプログラムの精神だろうと考えています」

 介護保険は、いま、ターミナル期の患者にも使えるようになりました。志高い医療・福祉のスタッフが、家族も本人も満足する看取りを各地で実現し始めています。
 坪井さんの言葉は、12年たったいまでも新鮮で、岡光さんが、ここに介護保険の理念を見出したのも、納得できます。

■「ポケットを、1つから2つに」と説得■

 第42話「危うし、介護保険」では、町村会、市長会、その意向を汲んだ梶山静六官房長官と厚生省の攻防をご紹介しました。
 厚生省の目標は、「社会的入院」に代表される、医療への偏りを正すことでした。
 1994年、55年体制以来初めての自民党以外の政権、細川内閣ができたとき、「チャンス到来」と考えた厚生省官僚(第18話)は、大内啓伍厚生大臣の私的諮問機関として「21世紀福祉ビジョン懇談会」をつくりました。半年の審議の末、医療と福祉の給付構造を4:1から3:2に、つまり、医療から福祉に重点を移すビジョンをとりまとめました。 介護の医療化に歯止めをかける仕掛けでした。
 具体的には、「老人関係の施設を生活型施設、療養型施設、短期家庭復帰支援センターに再編し、介護保険ではこれらの施設に定額払いによるケアと定型的な医療を給付し、医療保険の出来高払いを限定する」ことを目指していました。

 こうした老人医療費の抑制は医療提供サイドの反発を招きました。
 とはいえ、老人保健制度は財政破綻に直面していました。介護部分に独自の財源をつけて老人保健制度を安定させることは医師会にとってもプラスになります。そこで、医師会も介護保険制度の創設を提唱していました。
 「そこで、要介護患者を病院から介護施設や在宅に移すことによって、収入が入ってくるポケットを、1つから2つに増やすことができるでしょう、と栄孝さんを説得した。それで、すんなりまとまりました」と、手術待ちの岡光さんは病室で告白しました。
 そうはいっても、すんなりとは行きませんでした。医療費に慢性疾患の占める割合が高まっているなかで、厚生省のいう「定型的な医療」の解釈をめぐって攻防がくりかえされることになります。医師会は「介護保険に医療の役割を明記し、サービス提供における医師の主導性が確保されるようにせよ」と主張し続けました。

 表は、あまりに状況が頻繁に変わるので、"今週の介護保険"、"今日の介護保険"という言葉まで生まれた96年の介護保険案の変遷をまとめたものです。
 96年5月の厚生省試案までは、介護保険制度の目的に医療にはふれていなかったのですが、修正試案では「医療と福祉に関わる主体が、それぞれの機能を発揮しつつ重層的に支えあう制度」とされました。
 法案要綱案になると、総則で「加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により介護を要する者等がその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行い……」「保険給付は、……医療との連携に十分配慮して行わなければならない」と付け加えられました。
 そして、9月の与党修正で、医師会は要求を全面的に採用させることに成功。介護保険法案要綱では総則がさらに修正されました。

老人保健福祉審議会最終報告(96.4.22) 厚生省介護保険制度試案 (96.5.14) 介護保険制度修正試案(96.5.30) 介護保険制度案大綱(96.6.5) 与党合意による修正事項(96.9.19)
日本医師会との関係 「医療と福祉に関わる主体が、それぞれの機能を発揮しつつ、重層的に支えあう制度」 「保険給付は、要介護状態の軽減若しくは悪化の防止又は要介護状態の予防に資するよう行われるとともに、医療との連携に十分配慮して……」 介護、機能訓練、看護、養上の管理等医療を要する者が、能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス係る給付を行い……」
保険者 市町村 (多数意見)
国等(併記)
市町村・特別区 都道府県ごとに介護保険者連合会を設置し市町村を支援 左に同じ 財政安定化基金の設置。認定審査を都道府県に委託可能に
被保険者 65歳以上
20歳以上又は40歳以上(併記)
40歳以上を被保険者
65歳以上(第一種)
40〜64歳(第二種)
左に同じ 左に同じ 左に同じ
事業主負担 医療保険料と同様の負担、労使協議にゆだねる(併記) 被用者保険には事業主負担、国保には国庫負担 左に同じ 左に同じ 左に同じ
利用者負担 定率1割、2割、8%(併記) 介護給付費の1割
食費は利用者負担
左に同じ 左に同じ 左に同じ
保険料 ・地域ごとの設定、全国一律という案
・応益保険料と応能保険料の組み合わせ
1種=市町村のサービス水準に応じた保険料額、年金から特別徴収を検討 1号=年金から特別徴収
2号=医療保険者が一体的に徴収
左に同じ 左に同じ
公費負担 介護給付費 1/2 が多数
総介護費用 1/2 の意見
介護給付費の1/2
国と地方団体は各1/4を負担
介護給付費の1/2 国は1/4、都道府県および市町村は各1/8を負担 認定事務費の1/2を国が市町村に交付
家族への現金給付 消極的意見と積極的意見を併記 現金給付は原則として当面行わない 左に同じ 左に同じ ショートステイ利用枠拡大等の家族支援策も
実施開始 円滑かつ早期実施
段階的施行も検討
在宅サービスは1999年度、施設サービスは2001年 2段階(当初 月500円) 左に同じ 左に同じ 左に同じ、加えて、2000年度から在宅・施設サービス同時実施

■恩義を忘れ、弱みを逆手にとった『負い目』■

 そして、運命の日、11月17日がきます。朝日新聞のかつての同僚、辰濃哲郎さんのトクダネです。辰濃さんは、91年9月から約4年間、厚生省を担当していました。岡光さんが、薬務局長や官房長を経て事務次官への道をのぼりつつあったころです。辰濃さんは当時のことを、苦悩の表情でこう話しました。

 「その朝は、憂うつでした。前夜からの打ち合わせで2時間しか寝ていないボーッとした頭の中で、だれかに代わってほしい、と思いました。同僚と、会社の車に乗り込み、岡光っちゃんの自宅へ向かいました。
 岡光っちゃんは、それまで厚生省が医師会の顔色をうかがって手をつけられなかった『医薬品の適正使用』を進め、次々と施策を打ち出していた。局長室で話す彼は自信にあふれ、相手に威圧感さえ与えました。そうかと思えば、ひとなつっこい笑顔でホッとさせる。うそはつかない人でした。
 厚生省の担当を離れて1年。『岡光が、業者から金をもらっていたらしい』。警視庁の担当記者からの情報に半信半疑で取材を始めました。結果は限りなく黒だった。
 11月16日深夜、緊急会議。『さて、だれがいく』と、社会部長代理。『僕が行きます』。『しょうがねえだろうな。お前が行くしか』。

 翌朝、『まだ寝ています』と、ドア越しに奥さんの声。一時間ほどして、彼が出てきた。いくつものトクダネに協力してもらった恩義は忘れ、必死でした。業者から車を借りていたことはすぐ認めました。1時間半ほどたったところで、こう切り出しました。『僕が知っている岡光っちゃんは度量の大きい人だった』。
 沈黙が続ました。持っていた仁丹をすすめました。3粒。そのうち1粒を口に入れると、彼はティッシュを取り出し、残った2粒をていねいに包んでポケットに入れました。目に、うっすらと涙。『うかつだったかもしれないなあ』。3時間が過ぎていました。
 次の日、朝刊の一面トップに「岡光・厚生次官に利益供与」、社会面にインタビュー記事。
 岡光っちゃんの人間としての弱みを僕は知っていた。情に訴え、その弱みを逆手にとった『負い目』は一生消えないでしょう」

 このトクダネが出たときには厚生大臣は菅直人さんから、小泉純一郎さんに交代していました。
 病床の携帯電話で、岡光さんは、いいました。
 「大臣は言いました。辞表を書いてほしい。介護保険のためだ。」
 11月19日辞任。12月4日、収賄容疑で逮捕。控訴、上告、上告棄却ののち、2003年6月15日、懲役2年、追徴金約6370万円の判決が確定。広島刑務所呉拘置支所を経て、山口刑務所へ。刑期より半年ほど早く刑を終えたのは2004年の暮れのことでした。

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