物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第48話 「支えきる」ということ (月刊・介護保険情報2008年5月号)

■「サミットでは、何かが起きる」■

 「サミットって、不思議なことに、かならず、思いがけないことが起きるのよ」と感慨深げに話すのは、サミット出場通算13回の生き証人で、「介護保険の慈母」と呼ばれる村田幸子さんです。(蛇足ですが、「猛母」は、自称「介護保険の聖母」の樋口恵子さん

 第1回、94年10月の「全国在宅ケアサミットin遠野」は、ホテルが1つもない遠野に、北海道から沖縄まで、1200人が集まるという、「嬉しい大誤算」に見舞われました。
 介護保険施行前年の高浜のサミット(表をご参照ください)は、法案の根幹を揺るがす亀井静香さんの「カメ風旋風」に直撃されました。
 「在宅ケアサミット」を衣替えした鳥取県西伯町主催の「第1回介護保険推進全国サミット」では、会場を震度6弱の大地震が襲いました。

 この地震についで主催者をあわてさせてのが、96年の大東市の在宅ケアサミットでした。
 法案づくりの中心人物が介護保険について詳しく説明する、というので聴衆は大きな期待をよせていました。ところがその基調講演の演者がドタキャンの事態になってしまったのです。
 47話・「介護保険のためだ。辞表を書いてほしい」で触れた「彩グループ」にまつわる汚職事件が霞ケ関を揺さぶっていたのです。
 ピンチヒッターを再三頼むのですが、当日未明になっても厚生省から返事がきません。
 2時間に及ぶ基調講演を、なんの準備もなしに引き受ける破目になったのが、その前年のサミットの中心人物公立みつぎ病院の山口昇さんでした。

 在宅ケアサミット開催を頼まれるのは、代々、その市の首長さんと相場が決まっています。
 例外はただふたり。
 政府の審議会を数多くつとめ、首長以上の実力者として知られる病院長の山口さん、そして、「大東に山本あり」と知られた理学療法士の山本和儀さんでした。

開催地 大会名 開催日 メインテーマ
岩手県遠野市 第1回全国在宅ケアサミット 1994年10月20日〜21日 保健・医療・福祉の連携をめざして
広島県御調町(現尾道市) 第2回全国在宅ケアサミット 1995年11月29日〜30日 戦後50周年平和記念国際セミナー地域から世代国境を越えた連帯へ
大阪府大東市 第3回全国在宅ケアサミット 1996年11月30日〜12月1日 ノーマライゼーションを基盤とした在宅ケアの展望住民の求めている在宅生活のあり方とは
長崎県佐世保市 第4回全国在宅ケアサミット 1997年11月28日〜29日 介護保険導入‐要介護高齢者支援のために、今、私たちがすべきこと
秋田県鷹巣町(現北秋田市) 第5回全国在宅ケアサミット 1998年10月9日〜10日 介護保険制度の施行に向けて‐わがまちの介護プランを考える
愛知県高浜市 第6回全国在宅ケアサミット 1999年10月8日〜9日 措置から選択へ‐利用者本位の在宅ケアシステムへの転換を求めて

■市長より有名な理学療法士■

 埼玉県東松山市長の坂本祐之輔さんは当選するやいなや、山本さんのもとを訪ねました。

 14年前のことです。以下は坂本さんの思い出話です。

 様々な情報を集める中で、福祉政策が全国で一番進んでいる大東市の山本先生の存在を知りました。先生は、ノーマライゼーションについて、そして、これまでの現場の実績について、熱く語られました。
 そして、「大東市にお見えになって、市長に会わなくていいのですか?」と私に尋ねました。私は、「山本先生に会いに来たのですから」と答えました。
 お陰様で東松山市は昨年、障害児を特別あつかいする就学支援委員会を全国に先駆けて廃止しました。様々な難関を克服して先生にご連絡をしたとき、先生は「うれしいなー」「坂本さん、ようがんばったなー」と何度も言ってくださり、感動して泣いていらっしゃいました」

 障害のある子もない子も机を並べる大東市の統合教育を見て、ここまでの取り組みは無理だ、と最初は、思いました。
 でも、よく考えたら、山本先生は市役所の一職員。自分は市長。だったら自分にできないことはないはずだと思い直したのです。
 就学指導委員会を廃止した年に、医療的ケアが必要な子が小学校の通常学級に入学しました。看護師を小学校に派遣して学校生活を支えています。一人の人を支えきること、という先生の言葉を支えに。

■真髄は、「やればいいんだよ」■

 本誌(月刊介護保険情報)をお読みのみなさまは、山本さんの連載「自立を支える専門職のために」が、昨年の6月号、27回という不思議な回で突然、最終回を迎えたことを、いぶかしく思われたことでしょう。
 癌で死期を見定めた山本さんは、「これからは家族との時間を大切にしたい」と連載を閉じ、遺言の書『支えきること−自立を支える専門職のために』(年友企画)を書きあげました。
 この世を去ったのは、11月19日。69歳でした。

 4月19日、大東市民会館で執り行われた「山本和儀さんを偲ぶ会」で元宮城県知事、いまは慶応義塾大学総合政策学部教授の浅野史郎さん(写真)はこう語りました。

 対談や鼎談を何度もやらせてもらいました。へらへらしゃべる私とは対照的に、山本先生は訥々とお話になるのですが、中身は含蓄に富んでいました。
困るというか、とまどってしまうのは、山本先生が途中で泣き出すことでした。最後の対談の機会になった、鹿児島の時もそうでした。「今日は絶対に泣かない」と言って始まったんですが途中で泣いてしまう。仕方がないので、私がしばらく一人で話して、山本先生が泣き止むのを待つのでした。
 印象に残っているのは、「やればいいんだよ」という言葉です。

 宮城で障害児を普通学級に受け入れた時の話です。
 「学校の先生は、障害児を受け入れた経験がないし、知識もない。学校の設備もバリアフリーになっていない。先生方も困りますよね」という私の問いかけに対しての答が、「やればいいんだよ」でした。
 なるほど、やればいい。なんと単純明快で、真理を言い当てている言葉でしょう。
 「やってみてわからなかったら、教えてやる。設備が整っていなければ、直せばいい。それもやってみるからわかること」と。
 宮城県知事として、さまざまな課題に取り組んでいた時に、山本先生のこの言葉を思い浮かべて、勇気をもらったことが何度かありました。
 みやぎ知的障害者施設解体宣言を出した時もそうでした。
 「時期尚早、百年経っても、時期尚早」というよりも、山本先生の「やればいいんだよ」のほうが、よほどわかりやすい。
 これこそが山本哲学の真髄ではないかと秘かに思っていました。

■座長から声を荒らげて……■

 リハビリテーション医として多くの人から尊敬を集める茨城県立健康プラザの大田仁史さんは「山本和儀さんの大東市は地域リハビリテーションの永遠の星」といい、追悼集に、こう、思い出を寄せました。

 盛岡での全国地域リハ研究大会で、小児のリハのシンポジウムの座長をご一緒させていただいた時のことです。
 フロアからの「学校にエレベーターがなくても、かえって健常な児童に助け合いの気持ちを育むのでよいのではないか」という発言に対し、声を荒げて「階段の上り下りに、いちいち友達の力を借りなければならない子供の気持ちがわからないのか!そんな考えでリハなど語る資格はない!」と座長席から会員の不明を叱ったことでした。
 山本さんが組み立てたノーマライゼーションの町、大東市の仕組みは、日本で地域リハ活動をする者の星でした。
 迷ったときは山本さんに聞けばよかった。常に当事者を中心に置いた考えでした。
 山本さんの大東市は今でも私の星です。

■「まいた種は浦安でも芽をふきました」■

 浦安市長の松崎秀樹さんからもメッセージが寄せられました。

 浦安市の障がい児の保護者たちが市役所の障がい担当者とのやりとりに疲れ、「政治から変えたい」との思いで目を向けたのが、私が初当選した98年の市長選挙でした。
 私が就任してまもなく、親たちから、「行政との交渉の明け暮れで、ともすると挫けそうになり、めげそうになった時の心の支えが、大東市の山本和儀先生だった」と伺いました。
 その後、何回となく浦安市にお越し頂いた時にお目に掛かりました。余り能弁な方ではありませんでしたが、浦安市に影響を与え続け、障がい児を抱える保護者の有志の会が、NPO法人を経て、今では浦安市になくてはならない社会福祉法人「パーソナルアシスタンス・とも」として、全国区的な活躍をする法人へと導いてくださいました。
 浦安市の障がい福祉の向上に貢献を頂いた恩人です。今年の3月10日、親たちの悲願でもあった「就学指導委員会の廃止」が、市議会で全員の賛成で可決されました。
 山本和儀先生のまかれた種が、浦安の地でも大きく逞しく芽をふいていることをご報告申し上げます。

■「呼びつけるのではなく、職場へ、学校へ、家へ」■

 厚生省から佐世保市の部長に出向していた山本尚子さんは、翌年の佐世保の在宅ケアサミットの準備をするために大東市を訪ね、医師として訓練をうける中で体験したことのないものの考え方に出会いました。
 「病院や施設やセンターに呼びつけてリハビリテーション訓練をするのは、本来のリハビリテーションではない。職場へ、家へ、学校へ出向いてアドバイスすることが専門職の役目です、とおっしゃいました。なるほどと思いました」

 若き日、山本さんは、「大手前整肢学園」の子どもたちの「なんで、家に帰られへんの」という言葉にショックをうけました。
 自身の子どもを学園に連れていったとき、見たこともない車いすに戸惑っているわが子の姿にさらにショックを受けました。
 それが原点でした。

■楽しくて、しかも、効果があった■

 DPI日本会議の事務局長の尾上浩二さんは、仮死早産で生まれ、脳性マヒと診断され、小学5年生で「大手前整肢学園」へ。そこでの日々は恐怖でした。膝を伸ばすために20kg、30kgの砂袋を足の上に乗せられ、腰、ヒザ、アキレス腱を8箇所くらい手術され、しかも、少しもよくならないのです。
 「たった1つ楽しかったのが山本先生のプールの時間でした。思い返してみると、訓練は、痛くて自分にとっては意味のないものだったのですが、山本先生のは、楽しくて、しかも、効果があったのです」

 「"生活の障害"を支えるのが専門職の仕事。それはその人の人生を支えきることである」と呼びかけた遺作の本の最後の6ページは「ありがとう」という言葉とともに、志を同じくした方々の名前がぎっしり書かれています。
 医療職、福祉職の名前の中に、伊藤雅治、伊原和人、大島一博、大谷藤郎、香取照幸、河幹夫、北村彰、炭谷茂、関山昌人、中村秀一、古都賢一、山崎史郎、依田晶男。この連載に登場した方、これから登場なさるカリスマ官僚の名前が並んでいました。

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