医療費と医療の質の部屋

患者さんによる「病いの語り」が医療を変える− DIPEx-Japanの活動
別府宏圀さん DIPEx-Japan理事長・「正しい治療と薬の情報」編集長

 EBM(エビデンス・ベイスド・メディシン=根拠に基づいた医療)という言葉が、医療関係者の間でしきりと語られるようになったのは、この10〜15年くらいのことですが、最近ではこのEBMに対する失望感を耳にすることが多くなりました。
 期待が大きかっただけに、医療の改善にあまり結びついていないように感じられることが、EBM自体の欠陥と早合点されているのかもしれません。大勢の患者さんを対象に、適切な手続きで検証した"エビデンス"は医師が治療方針を決定する上でとても大事な拠り所になります。しかし、それをいま目の前にいる患者さんに適用して、必ず良い結果を生むという保証があるわけではありません。
 私たちが手にしている情報や知識は所詮限られており、ときには、"エビデンス"と呼ぶことすらためらわれるほどの不確かな事実をもとに意志決定が行われることもあります。ひょっとすると、EBMの普及がもたらした成果の一つは、医学が持つそのような不確実性を皆が共通に認識するようになったことなのかもしれません。

DIPEx――EBMを補完するデータベースの誕生

 EBMはけっして万能の器ではありません。医療者と患者間のコミュニケーション・ギャップを数値データだけで埋めようという考え自体にも無理があります。患者さんが聞きたいことはエビデンスを巡る議論よりも、もっと幅広い内容です。彼らは、また、自分たちが語りたいことに一向に耳を傾けようとしない医療者にも失望しています。そのようなギャップの存在に気づいたことが、これから紹介するDIPEx(ディペックスと読む:Database of Individual Patients Experiences:「個別患者の体験をまとめたデータベース」の意)が誕生するきっかけとなったのです。

 コクラン共同計画の設立にも深く関わったヘルクスハイマー博士は今年84才になりますが、数年前に膝関節の置換手術を受けました。そのときの体験を短い詩にして親しい友人に送りました。

After 70 Years the knee was tired, weak, rebellious,
though still a friend and part of me.
They replaced grating bone with plastic and steel, fixed to the old bones, bound by faithful muscle and skin, new parts of me on probation.
[訳]
70年もたてば「膝」は疲れ、弱まり、反抗的になる
とはいえ、いまだに我が友、我が身内ではあるのだが
きしむ骨はプラスチックと鋼鉄に置き換えられ
古びた骨に取り付けられ、誠実な筋肉や皮膚に包まれて
そは、我が身体の新たな一部となるための猶予期間
 長年医薬品情報誌の編集長を勤め、医療のあらゆる分野に通じている人物でも、いざ自分が病気に罹ってみると知りたいことが山ほどあることに気づいたのです。
 同じころ乳癌に罹患したマクファーソン医師も同様でした。彼らが、まず最初に思ったのは、自分と同じ病気になった人の体験を聞くことだったのです。どんな検査をうけ、どんな治療を行ったか、その結果はどうだったか、楽だったか、苦しかったか、どんなにして時間を過ごしたか、どんな解決法が一番役に立ったか、その体験の全てを聞きたかったのです。そこで、彼らはまず質問用紙を用意して、自分と同じ病気になった他の患者に、その体験を書き留めてもらうように頼みました。

 しかし、断片的に書かれたこのようなメモは情報として利用するには不便なことが、すぐに分かりました。次に行ったことは、他の患者さんに直接インタビューして、その話を聞くことでした。これなら、時間経過に沿って、いわばその病気体験のすべてを物語ってくれるのですから、聞き落としも少ないし、足りない情報はこちらから質問して確かめることもできる。このようにして患者の「語り」を収集する作業が始まりましたが、そこに医療社会学の分野で癌患者等を対象に豊富な社会調査研究を行ってきたジーブランド博士が加わりました。できるだけ幅広い体験を集めるには、さまざまな患者をインタビューする必要があります。そのためには、地域・年齢・階層の違いにまたがる、いろいろな人々から話を聞かなければなりません。
 こうして、マクシマム・バリエーション・サンプリング(註a)という手法が取られることになったのです。聞き取りを行うのであれば、インタビューをビデオに撮り、それをネット上に公開するのがよいという発案もあって、インタビューにはさまざまな工夫が凝らされ、試行錯誤の末に、ようやくパイロット研究の結果がはじめて公表されたのは1997年秋のことでした。

 2001年7月には、DIPEx のサイトが立ち上がり、高血圧症患者と前立腺癌患者による「語り」がインターネット上でも公開されました。DIPExはたちまち多くの人々の関心を惹き付け、立ち上げから5年で英国内で最もよく知られたサイトの一つになったのです(http://www.dipex.org/)。
 扱われる疾患・病態ごとのテーマは30以上におよび、がんや難病と診断された患者がまず訪れるのはこのサイトであると言われるまでになりました。毎月150万件以上のアクセスがあり、いまでは英国で最も信頼性の高い、優れた医療情報源として、数々の賞を受賞しています。DIPExはまた、患者にとって貴重な情報源であるばかりでなく、医師・看護師・薬剤師などの医療専門家の教育にも利用されるようになりました。医学教科書だけで疾患を理解してきた彼らにとっては、このサイトこそが、病気を抱えた一人の人間としての患者を教えてくれる場所となったからです。

DIPExにはどんな情報が盛り込まれているか

 DIPExのホームページを開くと、まず現れるのは画面中央にある「Where should I go next?(次にどこへ行けばいいの?)」の枠です。枠内に赤い文字で記された"Experiences(体験)"にマウス・ポインタを合わせて左クリックすると疾患・病態ごとに別れたテーマ一覧(表)が現れます。この中から調べたい病気を選ぶのです。
 DIPExでは、患者の体験を聞きたい場合、大きく分けて二つのルートを用意しています。一つは、その病気に関する全体像を系統立てて知りたい場合、もう一つは自分と同じくらいの年齢、同じような患者の体験を聞きたいという場合で、前者の場合は、「Talking about ・・・・(〜について語る)」の方を、後者の場合は「Individuals・・・・(個別患者)」の方を選択します。
 「トーキング・アバウト」には、その病気の患者全ての体験を総合・分析した結果が20〜25項目くらいのトピックに分けて記されています。それぞれの説明には具体的に患者の語ったインタビューが引用してあります。たとえば、乳癌手術後の「乳房再建術」について見てみると、結果に満足している患者の言葉や、反対に再建術を選択しなかった患者の理由などを聞くことができます。

 「インディビデュアルズ」には、それぞれの患者の姿が年齢別に分けて一覧できるようになっており、自分と同じような年齢で乳癌との診断を受けた患者が、どのように説明をうけ、どのような選択をしたか、そしてその結果はどうだったか等を語ってくれるのです。
 はじめて癌と診断されて、どんな検査や治療が行われたのか、その苦痛や負担はどれくらいか、どんな準備をしておけばよいか等、さまざまな疑問や不安に戸惑っている患者にとって、このような具体的な体験談がもたらす効果はとても大きいのです。一つ一つのビデオはせいぜい数分の長さですが、自分の興味に従って次々に拾い見して行けば、自然に全体が分かってくる仕組みになっています。
 その他、分かりにくい専門用語の解説や、患者支援組織の連絡先を調べることもできますし、「Cancer-backup(癌支援)」など他の信頼できるサイトへ飛ぶこともできます。

ビデオ映像とプライバシーの問題

 DIPExの特徴は大勢の患者の体験をビデオ映像とともに提供している点です。数値や文章だけでは分からない、患者自身の苦しみや喜び、細かな感情の動きまでもが、その語り口や表情の変化から読み取れるので、見ている人々にとっては強い感銘を与えます。画面上に顔が現れ肉声が聞けるということは、また、その情報としての信頼性を高める上でも重要です。事実、インターネットで語られる不特定のチャット(おしゃべり)の中には、あやふやで無責任なやりとりもしばしばみられますが、そのようなことはDIPExにはありません。もちろん病気の種類や内容によっては、姿を出したくない場合もあるので、患者の希望に従って、シルエットだけであったり、俳優を使った吹き替えを用いることもあります。映像として本人の姿を出す場合も、どこの誰であるかが特定できないような配慮がなされており、プライバシー(個人情報保護)はきちんと保証されるようになっています。また、「語り」の中で特定の医師や医療機関を中傷したり、反対に宣伝したりする場として使われるのは好ましくないので、インタビューの中で出てくる具体的な病院や土地の名前はすべて一般名に置き換えられています。

 しかし、患者のプライバシーを保護する配慮はなされていても、顔がネット上に現れる以上、近隣の人々や職場の同僚に知られることもありうるのではないかと思い、英国での経験を尋ねてみましたが、これまでのところ、DIPExのサイトで語ったことがきっかけで中傷されたり、精神的に傷つけられたというケースはないという返事でした。

インタビューの実施とデータベース作成はどのように行われるか

 DIPExのテーマとして、どのような病気や障害を取り上げるかは運営委員会で論議してきめられます。テーマが決まると、その疾患領域に関して過去に発表された研究論文の検索が行われ、さらに専門家の協力を得て諮問委員会が組織されます。この委員会はそれぞれのテーマ毎に編成され、医学専門家のほか、医療社会学研究者、患者支援グループ、当該疾病の経験がある人々によって構成され、そのテーマのどこに問題があり、どのようなインタビューを行うべきかが検討されます。
 DIPExのインタビューは開放型の質問(オープン・エンデッド・クェスチョン)が基本であり、病気と診断されたときから時系列にそって、どんなことを考え、どのように感じたかを、自由に話してもらうのが基本です。聞き手の側から誘導したり、2者択一の回答を迫ったりすることはありません。しかし、多くのインタビューをまとめて、その内容を分析するためには一定の内容にそった半構造化した質問項目も用意されており、その質問項目の検討も諮問委員会で行うことになっています。

 テーマ(病気)がきまると、そのテーマに関してインタビューを行う担当者(1〜2人)が選ばれます。彼らは、インタビューの計画立案から、患者の選択と交渉・インタビューの実施・映像の記録・データ分析・結果要約までの全行程を自分の責任で担当することになるのです。多くの場合、インタビューは患者の自宅で行われるので、担当者は自分でビデオや録音の機材を携行して、患者宅を訪問します。インタビューの時間は通常1〜2時間ですが、ときには6時間以上におよぶこともあるそうです。録音・録画されたインタビューはテープ起こしをしたあとで、患者に目を通してもらい、不適切な発言の削除・修正を行って、文字情報としてのインタビュー原本ができあがります。担当者は、このようなインタビューを1テーマにつき30〜50人について繰り返し行い、膨大な量の聞き取りテキストが完成します。

 これらのテキストは、その病気の患者が抱えているさまざまな問題をとらえた貴重なデータベースです。そこには、医療が解決できる問題もあれば、家族や社会が解決を見いださなければならない課題もあります。結果は予測の範囲内であることもあるし、まったく予想もしていなかった新たな問題に展開することもあります。それらの中から、注目すべきトピックスを選び出し、解析することがインタビュー担当者の責任です。このようにして、インタビューの結果を要約し、まとめ上げた文章が「トーキング・アバウト」であり、その中から特に引用すべき重要なインタビュー場面を選び出し、数分単位のビデオ・クリップに編集したものが「インディビデュアルズ(個別患者)」です。

質的研究とデータの二次利用

 インタビュー担当者に与えられたもう一つの責任は、このようにして行ったインタビューをきちんとした質的研究論文(註b)にまとめ上げて学術誌に発表することです。学術誌がそれを採択する際には第三者による査読が行われますから、このような責任が課せられていることはインタビューの質を担保することにもなります。また、インターネット上でも論文でも利用されなかった膨大なインタビューの記録をそのまま埋もれさせないために、これらの貴重な記録は他の研究者が二次利用することができる仕組みにもなっており、すべての画像とこれをテープ起こししたテキストは、厳重に管理・保管されます。このような仕組みはデータの質や透明性を高める上でもきわめて重要な点です。

DIPEx-Japanの設立とその後

 英国にならって、日本でもDIPEx-Japanを立ち上げようという準備が始まったのは平成18年の初めでした。翌19年初めには「ディペックス・ジャパン:健康と病いの語りデータベース」という組織が正式に発足し、同3月には、厚生労働科学研究に申請した「がん体験をめぐる《患者の語り》のデータベース」作成のプロジェクトが採択されました(主任研究者:和田恵美子・大阪府立大学)。
 専用のホームページが作られ、英語から日本語に吹き替えした乳がん・前立腺がん患者インタビューのビデオクリップがサンプルとしてアップされ、トーキングアバウトのテキスト部分全体の邦訳も掲載されました(http://www.dipex-j.org/)。8月末から9月にかけては、和田班の研究チームがオックスフォードを訪れて、患者インタビューの訓練やデータの収集・解析に関する技術指導を受け、いよいよ乳がん患者と前立腺がん患者を対象に、日本での独自の調査が始まろうとしています。

これからの課題

 DIPEx-Japanが、患者にとって信頼しうる情報源となるためには、解決しなければならない問題も山積しています。日英の文化の違い、医療制度の違い、まだ数少ない質的研究の専門家の育成、そして何よりも、この大きなプロジェクトを支えるための財源をどのようにして確保するかという問題もあります。英国ではチャリティー活動の伝統があり、DIPExの活動を支える重要な財源になっていますが、そのような習慣や制度・文化がまだ根付いていない日本で、この大きな計画を支える経済的な基盤をどのようにして形成するか、多くの人々の協力が望まれます。
 そして、何よりも必要なのはこのプロジェクトに共鳴・賛同して、一緒に活動して下さる方々です。興味を抱かれた方はどうぞDIPEx-Japanのサイト(http://www.dipex-j.org/)を開いてみて下さい。

註a: Maximum variation samplingとは出来るだけ多様な対象者を選ぶようなサンプリングの方法。研究者の先入観や恣意に左右されず、問題の全貌を把握するためには、幅広い対象から聞き取りを行うことが必要である。DIPExの場合は、30〜50人が経験的に適当と考えられている。

註b: 数・量データや統計学を用いて仮説を検証することよりも、具体的な事例を重視し、観察された事象をさまざまな角度から分析することで問題の所在を明らかにする研究手法。

参考図書
1)公開フォーラム記録集「患者の語り」が医療を変える ディペックス・ジャパン:健康と病いの語りデータベース刊、東京、2007年
2)大熊由紀子、開原成允、服部洋一編著 患者の声を医療に生かす 医学書院、東京、2006年
3)アーサー・クラインマン著(江口重幸、五木田紳、上野豪志訳)病の語り―慢性の病をめぐる臨床人類学 誠信書房、東京、1996年
4)柳原和子著 がん患者学 晶文社、東京、2000年
5)脊損痛研究会著 痛みと麻痺を生きる 脊髄損傷と痛み 日本評論社、東京、2006年
6)マーガレット・ガータイス他編(信友浩一監訳)ペイシェンツ・アイズ 日経BP社、東京、2001年
7)生井久美子著 私の乳房を取らないで―患者が変える乳ガン治療 三省堂、東京、1993年

(精神保健ミニコミ誌クレリィエール414(2008年4月号)より)

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