精神医療福祉の部屋


「えりもの春は、何もない春です」
 森進一のヒット曲で知られる北海道・襟裳(えりも)岬に近い浦河町。ここに、「浦河べてるの家」はある。浦河日赤病院の精神科病棟を退院した人たちが、12年前に10万円の元手で昆布を買い付け、産地直送事業を始めた。それが、いまや年商1億円、100人を超す元入院患者が働く地元の「大企業」である。
 歯をくいしばって、がんばったわけではない。合言葉は、「安心してサボれる会社作り」「利益のないところを大切に」「弱さを隠さず、弱さをきずなに」である。

 「ベテル」は旧約聖書の「神の家」からとった。精神病の豊かな個性をむしろ持ち味に、浦河の町にとけこむ姿、そこに新潟や会津若松、名古屋の人々がほれ込んだ。費用を出し合い、映像記録「ベリー・オーディナリー・ビープル(とても普通の人々)・予告編」をつくった。すでに8巻になる。
 コピー自由とあって、手から手へと広がり、全国各地で「べてるの風」を吹かせている。映像の主に会いたい、経営手法を学びたいと、人口1万6000人の町に年間1000人以上がやってくる。

 何が人々をひきつけるのか、それが知りたくて、浦河を訪ねた。仕事場では、20人ほどが、その日に働く時間帯を報告し合っていた。管理職はない。勤務時間は体調を考えて自分で決める。大きなテーブルを囲んで、だしパック、おつまみ昆布などの商品が作られてゆく。
 笑い声が絶えない。
 昆布加工のほかに、紙おむつの配達、住宅改造、清掃、引っ越しの手伝い、ゴミ処理など、町の人が必要とするものを見つけては、漁協や地元企業と協力して事業化してきた。訪問者の航空券やホテルの手配など、旅行代行業も手がける。

★「幻聴さん」と「幻覚&妄想大会」★

 入院歴十六回という早坂潔さんに連れられて、町なかにある精神病棟を訪ねた。体験者ならではの的確な助言ができる早坂さんたちは、病棟への出入りが自由だ。退院後の生活に不安をもつ入院者だけでなく、病院の職員からも頼りにされている。

 19歳で分裂病を発病したギタリストの下野勉さんはいう。「発病直後に入った別の病院では、外出は禁止。6人部屋で娯楽はテレビだけ。一列にならんで口を開け、薬を口に入れられ、合図とともに水で飲み込む。ぼうっとして寝てばかりでした」
 下野さんは、いま、浦河の町で恋人と暮らす。愛や妄想をテーマにした自作の曲を各地で演奏する。CD化の話も持ち上がっている。病気が完治したわけではない。仲間やソーシャルワーカー、医師たちの応援で、幻聴や妄想と付き合うすべを身につけたのだ。

 「ここでは、批判はされても、最後は受け入れられ、迎えられる。その体験が安心の世界をつくるのでしょう」と、浦河日赤病院精神科部長の川村敏明さんはいう。
 昔からこうだったわけではない。日高管内初の精神科ソーシャルワーカーとして、向谷地(むかいやち)生良さんがこの病院に着任した1978年当時、入院患者は近所の店に納豆を買いにいくにも「3日前の外出届」を義務づけられていた。退院者が殺傷事件を起こし、住民の目は不信に満ちていた。
 いまは、退院者たちが小中学校や高校に招かれて体験を話す。「分裂病という病気に誇りをもっていて、素晴らしいと思いました」と、ファンレターも舞い込む。

 幻聴や妄想は、「変に思われるから他人に話してはいけないもの」「薬で消さねばならぬもの」というのが、多くの精神科医の見方である。だが、ここでは「幻聴さん」と呼んで体験をおおっぴらに話し合う。
 地域の人たちと一緒に開く「心の集い」では「偏見・差別大歓迎集会」などを企画して率直に話してもらう。年1回の「幻覚&妄想大会」は、いまや、町の名物だ。

★21世紀を先取りする★
 日本の精神病院ベッドは諸外国に比べて異常に多い。退院者の在院日数も長い(グラフ)
 何10年も入院している人たちのデータを加えると差はさらに開く。
 その理由を精神病院関係者は、「日本では家族が無理解で、回復しても引き取らない」「日本の社会は、精神病への偏見が強く、退院が難しい」などと説明してきた。
 しかし、浦河では退院者が地元に貢献しながら一緒に暮らしている。軽症だから可能なのではない。各地の精神病院で「重症」と診断されていた人たちも少なくない。ここでできることが、ほかでできないことはない。 「とても普通の人々」は9巻目の撮影に入った。
 今回も「予告編」の三文字がつく。
 「べてるの人たちの生き方こそ、21世紀への予告編だ」。映像を見た人たちの間から、そんな声が出たからだという。

 経済協力開発機構(OECD)のデータをみると、日本の精神医療が特異な歴史を歩んでいることがわかる。諸外国は、医学の進歩につれて精神病院を縮小し、予算を退院した人の町での暮らしを支えるために振り向けた。日本は私立の精神病院を急速に増やす政策をとり、利益第一主義の病院経営者も参入した。彼らは患者を固定資産のように考え、退院に消極的だった。
 故武見太郎日本医師会長は、そんな経営者を「牧畜業者」と表現した。

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