卒論・修論の部屋

ハンディキャップを持つ人と旅行から見えてくるもの〜草薙威一郎さんのライフヒストリーを通して〜
地家 杏奈さん


 〜草薙威一郎氏とのインタビューを通して〜
 ここでは、年表で述べたことを、今度は草薙威一郎氏とのインタビューを通してもう一度順を追って見ていきたい。20年近くの間この分野に関わってきた草薙氏だが、実際にハンディキャップを持った人の旅行が活発になってきたと「ジワジワと実感できたのは、この2、3年」のことだという。そこで、この「実感」をもたらすまで、転機となったさまざまな活動を、その反映と見られる社会福祉の制度、政策の動向や世間の反応および日本の経済的情勢と組み合わせながら一つ一つ検討していく。

(1)旅行者ゼロの時代(戦前〜1960年代まで)

 ハンディキャップを持った人が旅行に行くようになった歴史は浅い。だが、そんなことは当然だと言わざるを得ないような時代が存在した。それが、日本が近代国家となった明治維新から第二次世界大戦が敗戦に終り混乱の時代となった1950年代までである。そして、ハンディキャップを持つ人が旅行できるなんて想像だにできなかった1960年代までをここで一気に見ておきたいと思う。なお、ここでは、草薙氏が株式会社日本交通公社に入社する前の話になるため、先行研究として、「戦後社会福祉の総括と二一世紀への展望」の中に収められている、菊池義昭『障害者福祉』を参考にまとめていきたい。そして、ここでは何らかのハンディキャップを持った人を指して敢えて「障害者」と表現することで、この当時の国の対応がいかに人権を無視し、配慮の全くないものであったかを強調しておきたい。
 まず、明治維新から戦前までの国の対応は、ハンディキャップを持つ人々を人間として認めていない時代であったといえる。例えば、身体的にハンディキャップを持つ「障害者」は、依存する家族が崩壊したりあるいは労働力として使えないと判断されると、放浪し、行き倒れとなった。だが、それでは社会秩序における治安維持が保てない。そこで、1899年には『行旅病人及行旅死亡人取扱法』が制定され、死の直前か死後にのみ救済対象とされる法律が公然と施行された。また、日本最初の救民法といわれる1874年の『恤級規則』でも、ほんの一握りの「障害者」が『命を繋ぐ』程度に救済され、重度の「障害者」は無視されていたといっても過言ではない。さらに、「精神障害者」は、この当時いわゆる座敷牢に閉じ込められていた。そして、1900年『精神病者監護法』が制定され「精神障害者」の不法監禁の防止や監督・保護責任の明確化などが諮られたものの、一方で『私宅監禁』が認められ、実質的には座敷牢がそのまま残ってしまった。
 だが、戦後になると国は「障害者」に対応せざるを得なくなる。なぜなら、第二次世界大戦で負傷し「障害者」となった傷痍軍人や広島、長崎の原爆や各地の空襲で犠牲になった人々が急増し、『緊急対策』が必要になったからである。そこで1949年には『身体障害者福祉法』を制定し、初めて全国の「障害児者」を対象に権利としての福祉制度の整備が始まる。
 ところが、こうした傷痍軍人への対策が先行していく中、医療や薬品が不足し、『一般の身体障害者』は分けて考えられる風潮にあった。そのため、「障害児」に対しては、1947年の『児童福祉法』の制定により一定の『保護』と『知識技能の付与』があったにせよ、国の対策は見るべきものがなかったといってよい。また、1949年には、『身体障害者福祉法』で全国の18歳以上の「身体障害者」を対象に『身体障害者手帳』の交付などを行ったものの、この法律では職業的更正が可能な「身障者」の更正援護に重点が置かれ、かなり限られた不十分な対策であったと言わざるを得ない。
 さらに、日本が高度経済成長期に入った1959年には、『国民年金法』により、『障害者福祉年金』が支給されることになり「障害者」への経済援助が制度として一応確立されたもののその額は微々たるもので、「精神薄弱者」は支給対象から外されるなどの問題もあった。また、1960年には、『児童福祉法』から『精神薄弱者福祉法』ができたことで成人となった「心身障害者」の制度化も進められていく。ところが、この制度化はコロニーといった大規模施設に「障害者」を収容隔離する方向につながってしまった。この動きを食い止めようと動いたのは「障害者」を抱える家族や教師や関係する施設職員であった。とりわけ、1957年に脳性マヒ者よって設立された『青い芝の会』は、1962年から国に対して本格的な反対運動を展開する。こうした人々の運動により1970年『心身障害者対策基本法』が制定され、各施設間の一貫を目的とした理念が生まれ、のちの国の障害者政策に影響を与えることになる。しかし、重度の「知的障害者」は未だ施設収容に力が注がれていたことは忘れてはならない。
 一方、旅行の分野では、1950年に当時の国鉄が身体障害者旅運賃割引規定を公示し、1951年にバス、1955年に船舶、1967年に航空と順次割引制度を始めた。だが、草薙氏はこの時期を『救済の時代』に過ぎないと言い、『経済生活の保証のための割引という形で進』められていったと証言している。このように、「障害者」が楽しむための旅行は、その発想すら皆無であり、ゼロに等しかったと言ってよいであろう。

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