卒論・修論の部屋

ハンディキャップを持つ人と旅行から見えてくるもの〜草薙威一郎さんのライフヒストリーを通して〜
地家 杏奈さん


(2)入社当時の状況(1970年代)

@ヨーロッパ車いすひとり旅

 1973年、大学を卒業した草薙氏が株式会社日本交通公社に就職して間もない5月、ハンディキャップを持つ人が自由きままな旅行を楽しむという夢のような話をもはや誰も鼻で笑えなくなるような出来事が起きる。石坂直行著の『ヨーロッパ車いすひとり旅』が日本放送出版協会から発行されたのである。当時マスコミ等を通して大反響となったこの著書は、石坂氏のその後の活動を活発にさせるだけでなく、多くの読者に強い影響を与えた。例えば、日本福祉文化学会理事を務める馬場清氏は、この本をきっかけに「障害者向けの旅行ガイドブックをつくりたい」と思うようになったと述懐している。また、1997年『車いすでカリフォルニア』を著した小濱洋央・真美子夫妻もこの本を高く評価するなど、現在でも読み継がれ、語り継がれる出来事であったと言ってよい。1973年を「福祉元年」と呼ぶ所以である。
 その内容とは、1924年生まれの石坂氏が、交通事故で両脚、両腕が完全に麻痺してしまい車いす生活となったにも関わらず、1971年に付き添いなしでヨーロッパ11カ国をおよそ20日間で見てまわるという前代未聞の旅行記である。ただし、旅行を手配する際にことごとく旅行会社から断られたことと日本(成田空港)でのトラブルを除けば、ハンディキャップを持つ人の旅行が実は"挑戦"ではないということをこの本は教えている。初めて目にする電動車いすやハンドコントロールの自家用車で街にごく普通に繰り出す人々。さりげなく確実にバリアフリーが徹底された「身障者用アパート」での驚き。さらに、「身障者用のスポーツ」や福祉機器の開発に当事者がごく当たり前のこととして参加している現実。これらのことから、石坂氏は「障害物が障害者を作る」のだと実感し、「ちょっとした環境さえあれば、からだのハンディキャップが消えてしまう」ということを体感したからである。そして、「身障者なればこそ価値を評価できる<消費者>」としての立場があるという考え方に触れ、日本の遅れが物理的なバリアに留まらない致命的な人権侵害だと感じるようになる。
 石坂氏はその後活発な活動を続けるが、とりわけ1975年から7年間朝日新聞の企画委員として「車イスヨーロッパの旅」を運営し、ハンディキャップを持つ人およそ200名を視察旅行にいざなうことになる。また、上記の石坂氏のヨーロッパ旅行も担当した(株)旅のデザインルームにおいて、1984年9月には純粋な観光目的の車いす海外旅行を実現させた。そこでは、外部の組織から何ら資金援助を受けることなく、旅行会社のお客様という形で初めて行われたツアーである。第一回目の「北欧・氷河とフィヨルドを訪ねる車イスアドベンチャー」では、全国から車イス使用者13名、歩行にハンディキャップを持つ者6名、家族友人など18名が集まり大成功に終わったという。

A町田市の福祉のまちづくり

 また、この当時石坂氏の車いすひとり旅に感銘を受けたもう一人の人物を紹介しておかなければならない。1974年に「町田市の建築物等に関する福祉環境整備要綱」を施行した当時の東京都の町田市長、大下勝正氏である。彼は、国や他の地方行政に先駆けて、車いす使用者でも自由に街へ出られるように福祉のまちづくり整備指針を提案した。この経過は、大下元市長自身が著した『車いすで歩けるまちづくり』に詳しい。彼の考えはこうである。つまり、法律が制定されるのは、その立法を必要とする状況が現実に存在するからである。だから、法律は『現実からおくれて出発』するのであり、施行された頃には『おくれた現状を維持することを目的とする矛盾』をはらんでいるのだという。国は、1973年7月「身体障害者モデル都市設置要綱」を策定し、同年9月には国電中央線に「老人・身体障害者優先席<シルバーシート>」を指定する。また、私鉄としては初めて小田急線もこの導入を行った。だが、大下氏は、そんな『ちゃちなレッテル』ではなく、駅にエスカレーターやエレベーターを設置することの方がよっぽど意味があると指摘する。そして、失敗して税金の無駄遣いはできないという重圧に耐えながらも、日本で初めて車いすを楽に乗り降りさせられるリフト付き専用自動車『やまゆり号』を開発する。さらに、街中のちょっとした段差解消や車いすでも使えるトイレ等をハンディキャップを持つ人の意見を取り入れながら徐々に改善していくのである。そして、『すべての市民』が住みよい街にするためには一刻の猶予もならず、国の立法を待つことなく、以上の町田市におけるまちづくり整備指針を策定したのである。
 ただし、町田市民のみならず、当時の人々の反応がむしろ『障害者排除』であったことは想像に難くない。例えば、大下元市長は、ハンディキャップを持つ子を育てる母親達の切実な願いから市での『混合教育』を進める。ハンディキャップを持った子どもでも、普通の学校で共に学ぶことは将来の差別解消に役立つと考えたからである。だが、完全なる『統合教育』の過渡期である『混合教育』の現実は、普通学級のある校舎とは離れた校庭のプレハブ小屋に特殊学級の生徒を押しこめるという現状であった。そして、このことは黙認どころか、非常識で差別にあたるという認識すら当時の教職員や父母や教育委員会にはなかったと指摘されている。

B虎ノ門支店での勤務と視察旅行

 このような、その当時の人々の、差別以前の無神経さは、草薙氏が当時従事していた旅行会社からもうかがえる。つまり、ハンディキャップを持つ人が旅行に行くことなど考えもしない状況であった。ただ、1960年代までと違うのは、何らかの目的を持った団体旅行はいくつかなされている点である。1973年には、「第一回車いす市民集会」が仙台市で開かれ、草の根レベルではあるが、全国からおよそ200名のハンディキャップを持つ人々が集まった。これは、日本で初めて車いす利用者が集まった集会として注目される。当時参加した脊髄性進行性筋萎縮症(筋ジストロフィー)を持つ勝矢光信氏は、とにかく「仙台に行くこと自体が大きな目的だった」と回想している。勝矢氏は障害者レクリエーション研究会研究員でもあり、現在までに数多くの海外旅行などを経験し著書も多い人物である。また、JTBの当時の銀座支店では、1975年に「空とぶ車いす大会」においてカナダへ行き、「障害者交流旅行」を実施している。これは、旅行会社を通した初めての大規模な団体旅行として位置付けられる。
 また、国は1973年3月に国立久里浜養護学校を設立したのち、1979年4月から心身障害児の養護学校教育を小・中学校と同様に義務教育化した。そのため、学校の遠足の受注や添乗は当時からあったものの、会社内でそれを専門とする者はまだいなかったという。
 一方、草薙氏は当時海外旅行を専門とする虎ノ門支店に勤務していた。これだけ現在旅行のノーマライゼーションに邁進しておられる氏であるから、当然そういう意志を持って旅行会社を選ばれたのかというと、決してそんなことはないという。むしろ当時そんな希望を見せようものなら「採用されていない」ことは確実であり、「将来はないよ」と言われるのがおちであったという。だから、草薙氏のこれまでの努力は決して看過できないにしても、今の仕事と出会うことができたのは偶然であり、幸運であったと言わなければならない。
 では、草薙氏の当時の主な仕事は何であったかというと、それはハンディキャップを持たない社会福祉関係の学者と共に、北欧やアメリカなどの福祉先進国に行く視察旅行であった。こういう類の旅行はおよそ3週間ほどの長期に渡り、各国の福祉行政担当者から講義を受けたり、福祉施設を見学するのが主なメニューであった。そして、草薙氏はこの間に「一流の人とみっちり」話すことができたという。例えば、現在も精力的に「世界の社会福祉」シリーズを出版し、社会福祉分野のパイオニアでもある仲村優一氏や東京女子大学の現理事長である阿部志郎氏などである。中でも、草薙氏の人柄をしのばせるのが太宰博邦氏との出会いであろう。当時厚生事務次官という役職にいた氏は、1976年にオーストラリアで行われた国際社会福祉会議出席旅行に参加し、その時旅行を手配したのが入社数年後の草薙氏であった。「偉すぎて、近くで一緒に食事ができない」ほどの人だと周りが近寄らないときも、草薙氏は打ち解けてその後も長い付き合いが続く。草薙氏は太宰氏が「実行力、見識、人柄を兼ね備えた人」だと評価されることを体感するわけだが、その後、太宰氏は民間の社会福祉にも強い影響力を持つようになった。あるとき草薙氏は、イギリスで見つけてきた「The source book of the disabled」という本をプレゼントする。この本は、イギリスやアメリカのハンディキャップを持つ人に生活全般のアドバイスを書いたもので、その中には『休暇』の項目もあった。それが太宰氏に高く評価され1984年には「障害者暮らしの百科」として翻訳本が出版された。
 つまり、草薙氏は常にアンテナを巡らせ社会の動きに敏感であったといえる。ただし、当時彼は決して社会福祉にのめり込んでいたというわけではないと述懐する。社会福祉関係の視察旅行が多かったために、その旅行の内容を充実させるにはどうしたらよいか、どこに行けばその国の情勢をつかむことができるのかを「商売として勉強」したのだという。例えば、日本がまだ「老人ホーム」が足りないと言っていた時期に既にデンマークでは、「老人ホーム(プライエム)はもういい。これからは、個室化し、あるいは在宅ケアサービスに移行すべきだ」と叫ばれたりしていたわけである。彼にとって文字通り「驚きの連続」であったことがうかがえる。
 しかし、この驚きの経験と彼の素直な感性がのちの活動の基礎になっていることは記憶しておかなければならない。

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