卒論・修論の部屋

ハンディキャップを持つ人と旅行から見えてくるもの〜草薙威一郎さんのライフヒストリーを通して〜
地家 杏奈さん


(3)国際障害者年をめぐる動き(1980年代前半)

@国際障害者年

 1976年の第31回国連総会において、その5年後の1981年を「国際障害者年」(略してIYDP:International Year of Disabled Persons)とすることが全会一致で可決された。これは、当時のリビア国連大使が各国に呼び掛けたことに端を発するが、1975年に「障害者の権利宣言」が採択されてから、同年の「国際婦人年」、1979年の「国際児童年」採択に続く自然な流れであったと言える。だが、IYDPはハンディキャップを持つ人にとっては一つの大きな転換点となったといえよう。なぜなら、国連に加盟する全ての国に対し、10人に1人は何らかの機能障害を持っているという認識の下、<完全参加と平等>をテーマにハンディキャップを持つ人に対して改善すべき次の5大目的を掲げたからである。
1.障害者の社会への身体的及び精神的適合を援助すること。
2.障害者に対して適切な援護、訓練、治療及び指導を行い、適切な雇用の機会を創出し、また障害者の社会における十分な統合を確保するためのすべての国内的及び国際的努力を促進すること。
3.障害者が日常生活において実際に参加すること。例えば公共建築物及び交通機関を利用しやすくすることなどについての調査研究プロジェクトを奨励すること。
4.障害者が経済、社会及び政治活動の多方面に参加し、及び貢献する権利を有することについて、一般の人々を教育し、また周知すること。
5.障害者の発生予防及びリハビリテーションのための効果的施策を推進すること。
(昭和56年3月 大阪市教育委員会 関係資料集 より抜粋)
 そして、注目すべきは、国連は国際障害者年行動計画(1979年採択)において各国がとるべき措置を具体的に指示している。それによって、アメリカ、西ドイツ(当時)、スイス、マレーシア始め各国が動き出し、日本政府も国際的信用を失わないためには具体的措置を取らざるを得ないという外圧を受けたのである。
 そこでまず政府は、1980年3月25日、当時の総理府に国際障害者年推進本部を設置し、同年5月13日には中央心身障害者対策協議会を発足。国際障害者年特別委員会を設け施策の基本的事項を審議する。一方、草薙氏とも親交のあった太宰氏を代表として、石坂氏や東京青い芝の会の寺田純一氏、そして車いす利用者でもある参議院議員八代英太氏を中心に、当事者としての意見を述べる国際障害者年日本推進協議会を同年4月19日結成する。これにより、初めて日本障害者リハビリテーション協会を中心とした当事者の横断的組織ができあがった。
 では、具体的にはどのような改善が見られたのであろうか。政府は、<啓発活動・障害者対策・国際協力>といった重点3分野を掲げている。1981年、当時の鈴木善幸種首相は声明を発表し、12月9日を「障害者の日」と宣言した。また同年10月、国際障害者年記念全国身体障害者スポーツ大会(びわこ大会 選手数940名)、11月には、第一回大分国際車いすマラソン大会(参加者数117名)を開催する。さらに、初めての障害者技能大会として、東京で第一回国際アビリンピック(以後4年毎)を行う。また、建設省(当時)は、1981年2月に「官庁営繕における身体障害者の利用を考慮した設計指針」を策定し、翌年3月「身体障害者の利用を配慮した建築設計標準」を発表する。1983年3月には、運輸省(当時)が「公共交通ターミナルにおける身体障害者用施設整備ガイドライン」を策定した。

A旅行から見えてくる国際障害者年

 では、国際障害者年によってハンディキャップを持つ人の旅行はどうなったであろうか。実は、何も変わっていないのである。つまり、政府の国際障害者年に向けての政策でハンディキャップを持つ人が街に出やすくなったわけでもなければ、経済的に楽になったわけでもない。12月9日が「障害者の日」であることを知っている人が現在でもどれだけいるであろうか。所詮実現したことは政府が国際的面目を保つために計画した政策策定に留まり、実施は「今後の課題」という強制力のないものに成り下がっている。それどころか、当時の鈴木首相の下、行政改革を推進するために出された補助金等の縮減に関する法改正で福祉水準は大きく切り下げられ、ハンディキャップを持つ者はその最大の被害者となった。それらは、雇用率の低下、共同作業所でのわずかな収入にかこつけた生活保護費の減額、複雑できめの細かい徴税のしくみなどに現れている。そして、残念ながら多くの地方自治体もまた国に追随した形に収まってしまったといわざるを得ない。つまり、旅行と同じく、ハンディキャップを持つ人に対する日本の政策もまた何ら変わらなかったのである。

BDPIによる国際的な動き

 しかし、国際的には着実に改革が行われつつあった。1980年6月カナダ中央部の都市ウィニペグにおいて、第14回RI(国際リハビリテーション協会)世界会議が行われる。この協会は、当時唯一あらゆる障害を持つ人をカバーする世界団体として機能していた。だが、この中心は医師、理学療法士、看護者、ソーシャルワーカーといったリハビリテーションの専門家によって組織されていた。そこで、IYDPを契機に、RIに対抗する形でハンディキャップを持つ当事者を中心としたDPI(障害者インターナショナル:Disabled Peoples' International)設立委員会が準備される。このとき、今までの潮流に洩れず国の政策の遅れから北米中心に進められ、アジアでの関心は低いままになっていた。だが、このときの唯一の参加者であったシンガポールのロン・チャンドラン・ダドレー氏や前述した日本の参議院議員八代英太氏の努力により、1981年12月シンガポールにてDPI第一回世界会議が行われ、初めて世界レベルでの障害当時者の権利擁護団体が誕生する。このときダドレー氏は初代世界議長に就任し、八代氏はアジア太平洋ブロック議長となった。400名強の参加者の中、日本からは20名の車いす利用者、目や耳にハンディを持つ人、てんかんを患う人など総勢70名が参加した。当時、草薙氏も添乗員3名とともに飛行機や宿泊施設の手配などを行ったほか30名以上のマスコミも赴いた。その中で、DPIは今後の方針としての声明(マニフェスト)を出している。そこでは、IYDPの<完全参加と平等>を追求すべく、ハンディキャップを持つ人自身が発言し、一市民としての権利を持つことが強調されている。とりわけ、RIでの医学モデルに反対して、「障害―個人の機能の制約(disability)/ハンディキャップ―不平等な扱いによる社会的制約(handicap)」として明確に区分した定義が注目される。すなわち、彼ら当事者は医学的に基づいた自分たちの定義を拒否し、物理的・社会的環境こそが彼らの社会参加への大きな壁となっているのだと主張したのである。これは、当時のDPI規約や1992年に改訂された新規約にもそのまま受け継がれ、現在に至っている。
 また、DPIの活動目標はそれだけに留まらない。当事者の代表として国連でのさまざまな協議に参加する資格を得、発言することで、常に見張り役としての機能を果たそうとしたのである。例えば、1982年第37回国連総会では、IYDPを受けて「障害者に関する世界行動計画」が決議されるが、そこでも上記の「定義論争」を持ち込み、彼らが単なる保護の受け取り手(医学モデル)ではなく一市民としての権利や発言権をもつことを主張した。そして、「障害者の機会均等化に関する基準規定」が生まれるわけだが、この時点ではしかし、結局医学モデルが取られてしまったことは否めない。ただ、当事者参加により今後見直しを巡る話し合いが持たれるよう決定したことで、その影響力は大きかったことをうかがわせる。実際のちに、国連の経済社会理事会(ECOSOC)や国連教育科学文化機関(UNESCO)、国際労働機関(ILO)においてDPIが協議機関としての正式な資格を持つように認められた。そして、国連は、国際障害者年諮問委員会において1983年から1992年までを「障害者の十年」とすることを決定するが、DPIはその見張り役として行動計画実施に深く関わることになる。
 1998年メキシコシティーで行われたDPI世界会議には、76カ国1500名が参加し、4年毎のこの会議は、2002年には日本で行われることが決定している。世界を北米、南米、アフリカ、ヨーロッパ、アジア太平洋の5ブロックに区分し広がる加盟組織は、2000年現在124カ国に及ぶ。

C人工透析旅行の開始

 一方、その当時の旅行会社の状況はどうだったのであろうか。実は、国際障害者年を迎えるにあたって「ちょっと目を向けた」感がある。国が国際的に歩調を合わせようとした政策だけであったとしても、旅行会社として国際的ムーブメントに注目しなければならない。そこで、1980年前後から旅行会社としてはどんな対応をすべきかが話し合われた。その背景には、ハンディキャップを持つ人々の旅行の需要は少なく大きな変化がない中でも、その要求は決して弱まることがなかった事実も後押ししている。例えば、1982年には、車いす利用者が北海道社会福祉協議会の予算で北米視察旅行を行っている。
 だが、草薙氏は当時を振りかえって、「一体何をしたらよいのか分からない」状態だったと感じている。前述の「話し合い」で分かったことは、一般にハンディキャップを持つ人でも飛行機に乗ることができるのかすら分からないことが「分かった」だけであった。そこで、とにかく各国の資料や国内交通機関の内部資料などをひたすら集めていたのがこの時期であったという。
 そんな中、人工透析という重いハンディキャップを負いながらも日本で初めて旅行をした者がいる。現在、株式会社大阪旅行の役員や95年4月に発足した日本腎臓移植ネットワークの理事を務める油井清治氏である。油井氏は1979年、急性腎不全になったことで以後人工透析がなくては生きていけない体となる。人工透析とは、腎機能の低下で排出されない血液中の老廃物を体外に排出するため、血液を入れ換える治療をいう。油井氏はこれを週3回、一日5時間をかけて行わなければならなかった。当然仕事には支障が生じてくるが、家族や同僚の支えで復帰した。それどころか、1981年12月には仲間の患者十数人と5日間の北海道一周旅行に出掛けたのである。当然、旅行中も人工透析が必要になることから現地の医師を説得することから始めなければならず、文字通りの「冒険旅行」となった。しかし、これに成功した油井氏は、翌年、自らが務める旅行会社で台湾透析ツアーも企画する。そして、現在までにのべニ万人の透析患者や家族、介護者の海外旅行ツアーを実施するのである。
 なお、JTBもまた1980年代より海外人工透析ツアーを開始している。
 このように、ハンディキャップを持っていても、ごく当たり前のこととして旅行を楽しみたいという声が沸沸と表出してきたのがこの時期の特徴であるといえよう。
 また、この時期のもう一つの先進事例としてあげられるのが、1983年に開園した東京ディズニーランドである。そこには、テーマパークとして進んだアメリカだけでなく、ハンディキャップを持つ人でも使いやすいように設計された福祉先進国としての「アメリカらしさ」もうかがえる。というのは、開園当初から肢体不自由な人や車いす利用者向けに対策が取られたが、そのやり方がとても「さりげない」のである。例えば、本来の目的は車いすのためのスロープであっても、決して取って付けたようにはせず、建物の雰囲気に合わせた「木の廊下」として工夫がなされていたりする。そして、さまざまなお客さんが利用するようになる度に、その意見や苦情を反映し改善するという姿勢も学ぶべきところが多い。このように、どんなお客さんにとっても夢のあるテーマパークであろうとする方針から独自の対策を生み出すことは、福祉対策ではなく、単なる収益拡大の一手段に過ぎないということも注目に値する。

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