卒論・修論の部屋

ハンディキャップを持つ人と旅行から見えてくるもの〜草薙威一郎さんのライフヒストリーを通して〜
地家 杏奈さん


(5)"TOURISM FOR ALL"―怒涛の90年代 その1―

@着々と進む世界の動き

 1989年、イギリス旅行業委員会(British Tourist Board)によって一つの報告書が発行される。それが、「TOURISM FOR ALL」(旅行をすべての人に)である。これは、「障害を持つ人や高齢者本人にとどまらず、それらの人をケアしている家族や低所得者、ひとり親家族などを含めたいわゆる社会的弱者あるいは交通弱者」などすべての人が、旅行や外出をする場合に直面する問題について「現状分析と勧告」を行っている。そして、ロンドンの地下鉄に代表されるバリアフルな環境の中でいかなるサービスを提供するべきかを考察している。
 また、アメリカでは、1990年「ADA(Americans with Disabilities Act)法」(障害をもつアメリカ人法)が制定される。ADAは、「雇用、交通、公共的施設の利用、電話通信での障害をもつ人々への差別を禁止し」た。これによって、例えば、交通機関は改善するにも、厳密に決められた期日定められている。また、「公共的施設」の"公共"とは、単に公共的に運営されている場所だけではなく、一般の不特定多数の人が日常的に利用する公共的な場所という定義をすることで、民間施設にも対象を広げている。ただし、圧倒的な車社会のためになかなか公共交通機関の改善が注目されないこと、また施設改善に莫大な費用がかかる場合は義務が免除されることなどの不備もある。しかし、ハンディキャップを持つ人が法律上、広範囲にわたって最大限の平等を享受する権利を保障される意義は大きい。
 さらに、国連においては、1991年10月のWTO総会において、その外郭団体である世界観光機関の旅行安全委員会によって「90年代における障害のある人々に対する観光機会の創出」に関する決議が行われ、1994年12月には、第49回国連総会において「障害者の機会均等化に関する標準規則」が採択される。
 これらは、制定されたからすなわちすぐさま「ハンディキャップを持つ人が旅行しやすくなった」と結論づけることはできない。現在のイギリスやアメリカが、驚くほどアクセシブルになったとは言えないことを見れば明らかである。宣言や法律は所詮「決まりごと」に過ぎず、それから将来にわたってそれをどのように生かすかが重要である。しかし、少なくともイギリスやアメリカはこの時期ハンディキャップを持つ人が旅行をすることに「注目していた」と言うことはできる。

A「もう、我慢できない」日本の動き

 一方、日本はどのような状況であったのだろうか。ハンディキャップを持つ人の具体的な旅客数を長期にわたって取り上げた統計は存在しない。ただ、草薙氏の「感触」は一つの目安になるであろう。氏は、国際障害者年である1981年の旅客数を100とすると、1991年が300、1995年が700、2000年が2000であると述べている。すなわち、90年代の前半で2倍強、後半でさらにその3倍近くになっていることが注目される。このような増加の背景には、やはり日本政府としての「注目」があった。たが、その重い腰を上げるまでには、「もう、我慢ができない」市民団体の活躍があり、以下それについて詳しく述べていきたい。
 まず、1990年代に入りなぜ市民活動が活発化したのか。それには1991年ごろからのバブル崩壊が大きく影響しているのではないかと、草薙氏は指摘する。高度経済成長期をひた走り、1986年のプラザ合意でバブル景気となった日本では、人々の関心がレジャーに移るなか(図1)海外旅行者数が急増した(図2)。バブル崩壊後は、数年間わずかな減少が見受けられるものの、人々が旅行にかける支出は一向に変わってはいない(図3)。それは、バブル崩壊による労働時間の減少のために人々が余暇に当てる時間が増加したことも関係しているに違いない(図4)。しかし、一方で「組織の豊かさではなく個人の本当の豊かさとは何か?」が問われ始めたのもこの時期である。日本人の住生活はまるで"うさぎ小屋"であると皮肉られ、企業も経済一辺倒ではなく社会貢献すべきだという風潮から、1990年には社団法人企業メセナ協議会が発足している。また、草薙氏もこの頃からハンディキャップを持つ人の旅行に関してマスコミによる問い合わせや取材が増加したと述懐している。さらに、「本業以外の」執筆依頼も増え、1992年には「障害者アクセスブック―海外旅行編」を発行した。これは、ガイドブックの域を超えて、ハンディキャップを持つ人が行う旅行の意義や今後の課題を述べた最初の著書として注目される。
 こうした動きの中で、人々が充実感を覚えるのが確実にシフトしていく。図5を見ると、1991年の段階で今まで上位を保ってきた「仕事」が最下位である「趣味やスポーツに熱中しているとき」に追い付かれている。つまり、個人生活の豊かさのためには余暇活動こそが重要であるという見方が徐々になされていく。これは、すなわちハンディキャップを持った人も例外ではない。
 そこで、余暇活動で常に上位を占める旅行に注目して、1991年4月<誰でも自由に、どこへでも>旅ができる社会環境作りを目指して結成された市民団体が「もっと優しい旅への勉強会」である。草薙氏を代表とするこの団体は、その他の旅行業界関係者やマスコミ勤務の人、さらにハンディキャップを持つ人々からなり、「学び隊」に代表される自主勉強会などの活動や定期勉強会等をもとに、現在では全国にネットワークが広がりつつある。
 そして、この団体が最もその意義を発揮したのが、1994年2月に東京都の江戸東京博物館で行った「もっと優しい旅へのシンポジウム」である。全く手作りのボランティアによるものでありながら、日本女子大学教授(現・名誉教授)の一番ヶ瀬康子氏やトラベルデザイナーのおそどまさこ氏、全国頚髄損傷者連絡会会長でJTBにも勤務されている今西正義氏などおよそ300人が参加した。さらに、最も意義深かったのが、『ほとんど無理やり参加してもらった』運輸省の人や目が不自由であった参議院議員の堀利和氏の参加である。運輸省はこのとき「観光における高齢者・障害者対策」とした大臣のメッセージを寄せ、現在行っている"対策"を発表したが、むしろ行政が参加したことで現状を知る良い機会を得たと受け止めるべきであろう。このように、このシンポジウムは生活を豊にする余暇活動の一つとしての旅が全ての人にとって大切な機会であると訴えるだけでなく、今まで直接話し合うことのなかった旅行関係者や行政とハンディキャップを持つ人が一同に会したという点において意義深い。
 そこで、このシンポジウムは1995年当時の運輸省観光政策審議会答申に強い影響を与えるのだが、そこに至るまでの行政の動きを、堀利和氏の講演内容を参考にしながら述べていきたい。このシンポジウム以前の動きについては、1992年に国連「障害者の10年」の最終年を迎え、また1993年から「アジア太平洋障害者の10年(ESCAP)」開始の外圧があったことによるのも大きいことを付け加えておく。
 まず、厚生省では、1993年に全国の旅館やホテルについて「シルバースター登録制度」を開始する。この制度では、高齢化社会を迎えるにあたって設備や料金面で高齢者にサービスの一定基準を満たしているものを登録するのだが、ハンディキャップを持つ人にとっても利用促進となる点で意味がある。そして、今まで地方自治体の努力目標にされてきた福祉のまちづくりを、1994年には「障害者や高齢者にやさしいまちづくり推進事業」として一ヶ所あたりに一億円強の予算をつけた。
 また、建設省では、1992年に「人に優しい建築物(ハートフルビルディング)整備促進事業」を制度化した。これにより、「高齢者や障害者に配慮した公共的な建築物」に無利子や低利子融資を行い、本格的なまちづくり支援が開始した。しかし、地方自治体ごとに設備基準が異なるなどから建築士等の間に混乱が生じ、また推進しないことで法的罰則もないことから建築物の整備の実効を図る事が困難になってきた。そのため、1994年に「高齢者・身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の推進に関する法律(ハートビル法)」を公布する。これによって、日本で初めて全国レベルのアクセス基準が定められた。これは、具体的な建築基準を規定したものではないが、特定建築物の措置を決定し、それに従わない場合は罰金を含む罰則を求めている点で大きな前進といえよう。現在の国土交通省の統計によれば、1994年当初の認定件数はわずか11件であったが、わずか5年後の1999年にはその10倍以上の1428件にも上っている。しかし、全特定建築物のおよそ0.1%にしか当らないこの数字はまだまだ不十分なものと言わざるを得ない。
 さらに、運輸省では、今までコストがかかり過ぎるとして避けてきたエレベーター設置事業を、1993年「鉄道駅におけるエレベーター設置指針」を策定することで補助金としての措置を政府予算に組み込んだ。また、1994年には、財団法人交通アメニティ推進機構を発足し、百億円基金の運用益で設備促進するようになった。そして、このシンポジウムの最大の成果ともいうべき答申が1995年6月運輸省観光政策審議会から出される。草薙氏は、当時の荒井観光部長に言われたことが忘れられないという。彼は、パーキンソン病で車いすを利用する母親と共に「奈良から東京に旅行してみて、その大変さがよく分かった。観光政策審議会の答申に生かせるように最大限の努力をする」と約束してくれたのだという。そして、その答申で初めて『旅はすべての人にとって本源的な欲求であり』、観光を考える基本的視点の一番目に『すべての人には旅をする権利がある』と明文化した。そして、具体的方策には『障害者、高齢者などの人々の旅行促進と環境整備』が提言され、目標設定の中に『障害者、高齢者等の旅行日数』を含むことを明記した。そして、1995年7月には運輸省、自治省の後援で旅行関係産業が一堂に集まり、旅についての総合的な情報提供を行う見本市「旅フェア'95」が千葉県の幕張メッセで開催される。そこで、草薙氏は運輸省や社団法人日本観光協会に"頼まれて"ハンディキャップを持つ人の旅行促進ブースである「ぼらんたび」をJTBと共同出展する。そこで、旅行に関する展示や障害の擬似体験コーナーを設け、この旅行を多くの人々にアピールした(期間中の参加者はおよそ11万人)。草薙氏は1998年までぼらんたび実行委員会代表を務めるがその間には、立ち寄った当時の運輸大臣から「国として障害を持つ人の旅行促進に力を入れる」とのコメントも受けたという。
 このような経過を経て、ハンディキャップを持つ人の旅行施策が<社会福祉>としてではなく<観光を楽しむ>ためのものという認識にシフトしてきたといえる。そして、1993年「心身障害者対策基本法」を改め制定された「障害者基本法」には、ハンディキャップを持った人が『文化』を含めたあらゆる分野への参加の促進が明記された。さらに、1995年に障害者対策推進本部が策定した「障害者プラン(ノーマライゼーション7ヵ年戦略)」では、生活の質の向上には『障害者の旅行促進のための方策の推進』が必要だと宣言している。このように、ハンディキャップを持つ人の旅行に関して、1995年あたりにそれまでの市民活動の影響を受けて漸く行政が政策課題として認識してきたといえる。

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