卒論・修論の部屋

「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」と自立生活運動
大塚健志さん

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 第2章、3章でみてきたように、「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」はこれまでに多くの障害をもつ当事者を海外に派遣し、研修生たちは帰国後、研修を通じての経験をもとに様々な分野で活躍している。この事業が、現在の福祉の分野をひっぱる「障害者リーダー」の多くに共通する経験のひとつとして注目され20年以上も続く事業となったのは、日本とアメリカ、両国の当事者運動の歴史の流れと、この事業の特徴がうまく噛みあった結果だと考えられる。

1 「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」の特徴

 福祉の分野における海外研修派遣事業は国や地方自治体、公益法人(10) によって幅広く行われてきた。しかし、その参加対象は、施設従事者や障害をもたない福祉関係者が中心であり、当事者が実際に研修に参加するという当事者中心のものはのものはきわめて少なかった。ダスキンの事業の1番の特徴は、まず当事者を中心に置いたところである。
 このことはダスキンの海外研修派遣事業の初期の研修生の研修内容が自立生活に関わることであるということも関係があるといえる。もちろん多くの障害者福祉のどの問題もそうであるが、とりわけ、自立生活運動を当事者抜きに語ることは出来ない。アメリカの自立生活センターの活動そのものや、政策的な福祉システムの実態は障害をもたない人たちが研修や視察をしても情報として知ることが出来るものかもしれないが、それを日本に持ち帰り日本の当事者のニーズや状況にあわせて応用、発展させることは当事者抜きでは不可能である。そういう意味でこの事業が「当事者を長期的に海外へ派遣する」というスタイルをとったのは特徴的であった。
 次に、研修生の海外での生活・研修方法のスタイルが特徴的であった。研修生たちは、選考の段階から、研修先やそのプログラムを計画することに始まり、海外の生活においても多くのことを自分で決定していかなければならないという状況を経験することになる。研修生活自体が、自立生活の体験の場になっているのである。
 さらに第3章における研修生への調査の結果からその特徴を考察していくと、まず海外で長期的な研修生活を送るということが多くの研修生たちが大きな自信を得て、「より積極的になった」「視野が広くなった」という回答が見られる(表A-1)。これは帰国後の福祉の分野のリーダーとして活動していくために必要不可欠な資質の1つである。
 障害をもつ人に対しての物理的、心理的なバリアが大きい日本において、障害当事者が運動を起こし活動していくには人並み以上のバイタリティが不可欠であり、そのバイタリティを海外研修を通じて得たのではないだろうか。このような留学による意義は障害をもたない人の海外留学でも同じなのかもしれない(11)が、この同じという部分は重要なことである。
 留学への奨学制度には「健康な体であること」という条件が示されているものが多く、障害をもつことを理由に留学の奨学生として選ばれることはまず、ない。しかし障害の有無に関わらず、同様の意義があるといえるこの結果は、「健康な身体である」という項目は必要ないという根拠になるだろう。
 福祉の分野に限らず様々な分野で、能力はあってもその可能性を狭められている日本の障害をもつ人たちにとってダスキンの海外研修制度は大きな意味をもっていたことになる。
 次に「障害をもつこと」に対する意識/障害をもつということからの解放感に関する回答(表A-2)であるが、ここからわかることは、研修以前は「健常者」とは異なる特別な「障害者」という否定的な枠に閉じ込められていたということを表していることである。それは調査結果の表C-2、表C-3などにみられる回答のように、障害をもつ人が活き活きと生活する状況を実際に身近に体験することや、アクセスに関する不自由をあまり感じないという環境の中で生活することからきている。
 それを最も顕著に表現しているのが、現在熊本県議員を務める平野みどりさんの回答に見られた「自分の障害を忘れそうな日常」という表現である。どんなに深くノーマライゼーションの理念を熟知することよりも、実際に障害によるマイナス要素を意識しない生活や、多くの同じような障害をもつ人たちと接する生活のほうが否定的な「障害者」をいう枠からの解放に結びつくのではないだろうか。
 次に、表C-1のような研修先での具体的な経験に関するものが多く見られる。自立生活運動の始まりの時期は日本とアメリカではそれほど大きな差はないが、これらの回答からはやはりその支援のシステムやツールには大きな差があったということが伺える。
 また表C-3のように、研修期間での具体的な経験以外の海外生活そのものの経験に関する回答が多く見られる。その中でもとりわけ、外国という日本とは文化や価値観、国民性の異なる場所で研修・生活するという経験の影響が大きいようであった。アメリカで生まれた自立生活の「どのような人生を送るか、自らが選択し、決定し責任をもって生きる」という理念に大きく関わっている。日本人にはあまり見られない個人主義的なアメリカ人の国民性や文化に触れる体験は自立生活の感覚を磨くのに大きな影響があったのではないだろうか。
 この結果からいえることは、価値観や文化、特に言語が違うというアメリカの環境に置かれると、研修生たちは障害をもつ、もたないに関係なく「多くのマイノリティの中の1人」という存在になるということである。つまり日本においては、障害をもつことが決定的なマイノリティ要素として働きそれに縛られてしまうわけであるが、海外の環境においては、日本からの研修生たちには外国人であるというマイノリティ要素も働き、さらに特にアメリカでは多くのマイノリティが混在する状況なので、障害をもつことをその人の個性のひとつとして認識することがより容易なのかもしれない。このような経験が新たな先ほどの「障害をもつこと」に対する意識に変化に影響を及ぼすのだろうと考えられる。
 また表A-3にみられる回答のように、実際に権利の主張や自己決定に対する意識が高まったという結果がみられた。これは「与えられる福祉」というイメージから、「権利としての社会サービス」という変化や、自立生活運動の特徴である「障害をもつ人がサービスの担い手へ」という変化をもたらすのに必要不可欠な意識である。どんなに当事者たちが自立生活への意識が高く、自己決定することを望んでいても、(文化や国民性を含めて)日本という住み慣れた場所には、「子の面倒は私が」という親や、「もし事故でもおこったら責任問題が」という周囲の有り難迷惑なお節介が自己決定をさせない力として働いている。しかし海外の環境の中ではそのような力もなく、逆に自己決定を迫られる状況がつくられるのだと考えられる。

2 日米の自立生活運動の歴史と「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」
 ここからは第1章で述べた歴史的な流れと「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」について考えてみる。
 まず、70年代前半のアメリカでの自立生活運動の誕生・確立があり、日本でも当事者の動きが活発になった。自立生活の試みが一部で見られ始めた70年代後半にエド・ロバーツが来日した。80年代に入って国際障害者年、DPIへの日本からの参加、と日本の当事者の運動と、海外の当事者の運動と自立生活という理念が交わりを見せ始めた。この最中の1981年に「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」は始まっている。
 これはまさに日本の当事者運動の流れにマッチした時期であった。海外研修を通じてアメリカの障害者リーダーとのつながりを得たこともあり、アメリカを中心に日本と海外の当事者との連携を強める結果となった。
 ここで過去の研修生の主な研修先や研修内容の変遷をみてみると、初期、特に10期までは各地のCILや、リハビリテーション施設(12)などでの研修が中心であり、自立生活運動の基盤となるべき内容を中心とした研修生が多くみられる。(財)広げよう愛の輪運動基金の元事務局長である山本好男氏によると、この時期の研修生たちは、「アメリカと日本の現状の違いを目の当たりにし、日本に帰ってからも当事者運動を推し進める運動家としてのリーダーとして奮闘する人が多かった」という。その結果として、日本の自立生活運動の拠点ともなるべき「ヒューマンケア協会」はダスキン海外研修の初期のメンバーを中心にして設立されている。このような流れによって「福祉は与えるものではない」という認識が日本にも少しずつ広まっていった。
 また14期以降は研修先国がアメリカ以外にも広げられ、その研修内容も障害者スポーツ(パラリンピック)に関することや、障害に関わるIT技術、盲導犬に関することなど、より具体的なものが多くなり、また、例えばダンスやパントマイム、人類学、音楽療法など、直接「障害・福祉」に限らない研修内容も目立ってきている。山本好男氏によると「研修生たちがそれぞれの得意な分野や個性を伸ばす方向に変化してきている」という。
 このような変化から考えると、初期の頃の研修生たちの帰国後の運動の成果によって日本の当事者が活動する基盤や運動のスタイルが確立されたといえるだろう。また初期の研修生たちは理論や方法、情報を日本に持ち帰っただけでなく、それらを用いて自立生活を実践していった。そして彼らが海外で自立生活を営む障害をもつ人たちを目の当たりにしたように、今度は日本でそれぞれが「自立生活のロールモデル」として近年の障害をもつ人たちに影響を与えてきたのだといえる。このような積み重ねが「福祉」という分野からその他の分野へ障害をもつ当事者が進出していく土壌を育てた。
 このような影響を受けて、次に近年の研修生たちは、よりよい自立生活のスタイルを探究するとともに、福祉以外の分野と障害をもつ人をつなげていく役割を担ってきている。そういう意味では事業名の「障害者リーダー」という意味合いも初期の頃とはだいぶ変わってきているのではないだろうか。
 日米の自立生活運動の歴史を考えると、それは日本が単にアメリカの進んだ自立生活のシステムを学び、取り入れたなどという単純な説明はできない。第2章でもみたように、日本にはアメリカのそれとはまた異なった独自の当事者運動の流れや自立生活の起源がある。
 アメリカの自立生活センターの手法が日本でそのまま利用できないように、その国の文化や国民性と福祉の問題は切り離すことは不可能である。海外の情報やシステムを得るだけなら、わざわざ海外まで行く必要はない。「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」の研修生たちは海外の情報やシステムを目の当たりにし、それをそのまま輸入するだけの存在だったのではない。そこで受けた衝撃や刺激、問題意識をもとに自らの実践や運動を通じて日本にあった自立生活のスタイルを育てていったのである。
3 これからの日本とアジアの当事者運動と自立生活運動

 日本は「福祉先進国」と呼ばれる国々から様々なことを吸収し、日本の環境に合わせてそれらを取り入れてきた。それは日本の経済的な豊かさなどの海外との交流の基盤があったからだといえる。次は日本がこれまでの経験を生かし、アジア全体の当事者運動をリードすることが求められている。
 1992年に北京でアジア33カ国によって「完全参加と平等」をスローガンに決議された「アジア太平洋障害者の10年」にみられるように、障害をもつ当事者の運動はアジアの発展途上国なども包括するようになってきた。そのような事情も踏まえて「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」を行なう愛の輪運動基金では、1999年からアジアからの障害をもつ人を福祉分野の研修のために日本に呼び、アジア・太平洋の障害者リーダーを育成する事業として「ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業」がスタートした。
 2002年の第4期までで、韓国、中国、東南アジア各国から34名の障害をもった研修生を受け入れている。アジアからの研修生たちは日本からアメリカに渡った研修生たちと同じように様々な分野にわたった研修をし、母国の当事者運動を引っ張ってゆくリーダーとなっている。日本の障害をもつ当事者の運動が海外研修事業の卒業生たちによって推し進められたように、この事業がアジアの国々の当事者運動に大きなエンパワーメントとなり、またアジアの国々と日本の当事者運動をつなぐ架け橋となることが期待される。

(10)フルブライト基金など障害をもった学生を海外留学生に選ぶ例もいくつかみられるが、これも障害をもつ人のみを対象にした制度ではない。
(11)小林・星野(1992 pp38)の調査によると、日本の一般大学生への調査では、留学体験後の意義として48.2%の留学を終えた学生が「視野が広がった」と答えている。
(12)10期までの88名の主な研修先は、各地のCILが33名、ランチョロスアミーゴス病院が17名、IHB(Industrial Home for Blind)が9名となっている。

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