卒論・修論の部屋

日米の大学ボランティア・センターとそこでのコーディネーションに関する一考察
中村寿美子さん


 今年2005年1月17日は、1995年に起こった阪神淡路大震災から10年目を迎える。それはまた、ボランティアという言葉が一般的に使われるようになって10年ほどが経過したということを意味する。
 私は、震災当時中学一年生だったが、中学、高校、そして大学とボランティアという言葉を何の抵抗もなく用いてきた。「ボランティアって何?」の問いを発するまでもなく、「何かボランティアしたいなぁ」という気持ちを気がつけば抱いていた。それは、私がボランティアを専門に勉強する学生だから、かもしれないが、どうやらそんな単純な理由だけからではないようだ。なぜなら、ボランティアを専門にしていない私の友人でも、「何かボランティアを始められないかなぁ」と言ったり、「ボランティアしてみたいけど、時間がなくて…」と言ってみたり、「どんなボランティアやってる?」と聞いてきたり、日常会話の中でごく自然にボランティアという言葉が出てくるからである。つまり私たち大学生の世代は、小学生や中学生の時に震災を経験して、メディアや大人たちが「ボランティア、ボランティア」と騒ぎ出すのをぽかんと口を開けてながめつつ、でも実はすんなり「ボランティア」を飲み込んできたようなのである。
 そういう我々は、社会に対して興味や関心を抱いたり、あるいは不信の念を抱いたり、「ちょっと何かいいことやってみたい」「ちょっと何か新しいことにチャレンジしてみたい」と思ったとき、その答えを、なんとなく「ボランティア」に探しているように私は思う。ただ、その場合「どうやって始めていいのか分からない」のという事態が多々発生する。
 よっぽど、行動力と実践力のある学生なら別だが、大抵の場合、「なんとなく」ボランティアを見ているので、ボランティアに対する思いはあっても、それがアクションにはならない。それを「いまどきの若い子は無気力だ。与えられなければ何もしない!」と批判することもできる。しかし、私は敢えてその批判には反対したい。というのは、それは無気力というのではなく、本当はちょっとしたきっかけで開花するホンモノのボランティアの芽なのであり、それを私たちの世代が持っているのは価値のあることだと思うからである。
 では、そのボランティアの芽を花咲かせるきっかけとは何であろうか?それを考えたとき、大学にボランティア・センターがあるというアイデアは非常に有効だと思った。それにはアメリカでの経験が影響している。
 アメリカに留学中、私は大学ボランティア・センターからのメールマガジンを毎週受信していた。新しく慣れない環境で学んでいた私にとって、そこから来る情報は、授業で得る知識とは違って、私をその地域の住民として、コミュニティへと駆り立てるものだった。
 そういうボランティアに関する情報を提供し、そしてコーディネートしてくれる学生のためのボランティア・センターが充実することは望ましいことだと身を持って思ったのだ。学生の自発的な活動を促進して、またそのことがコミュニティの形成へと向かっていく。あるいは企業との連携、その他NPO団体やボランティア・グループとの連携などによって、学生もコミュニティもその両者が成長できる関係を作り出していく。それが、大学ボランティア・センターの目的と役割なのではないかと感じている。  私は大学ボランティア・センターを提唱するからと言って、全ての学生が何が何でもボランティアをすべきだ、とは思っていない。ただ、ボランティアを身近に育ってきた私たちが、社会へ通ずる方法を探ったとき、なんとなく自然に「ボランティア」を答えとして挙げるならば、またボランティアをしてみたいと自然に言う学生が増えているならば、それをサポートする大学ボランティア・センターなるものが必然となってくると思ったのだ。
 しかし私は、大学がボランティアを支援することの矛盾にもぶちあたった。基本的に学生に評価を下す機関である大学が、自発的なボランティア活動に取り組むことが果たしていいのか(可能なのか)という矛盾である。現在文部科学省ではボランティアを教育カリキュラムに取り込むことを推奨する方向である。しかし、ボランティア活動を授業のなかに入れることが自発性を伴うボランティアの促進には、実はつながらないのだということを、私の意見としてここで明記しておきたい。だからこそ、教育・研究機関とは別にボランティア・センターが求められるのである。
 その理由のひとつとして、大阪大学人間科学部での私自身の経験を挙げてみる。私はそのボランティア人間科学講座に在籍し、ボランティアを学んできた。だが、それは大学でボランティア活動をやってきた、ということとは全く異なる。私が学んできたのは、ボランティアのシステムについて、あるいはボランティアの理論、ボランティアが活躍する国際の現場や福祉の現場の環境や制度上の問題やその解決策についてである。教員は、ボランティアに関する講義を行い、独自の論を展開し、議論を行った。私たちはそれらに関して勉強し研究することは求められても、ボランティア活動を強制的にすることを求められたことはなかった。教員はレポートや研究を評価したが、ボランティア活動そのものには干渉していない。だから私は、ボランティア活動がしたいときは自分の意志で自分の気の済むようにやってきた。それを教員から一人の人間としてコメントをもらうことはあっても、教員として褒められたりけなされたりしたことはなかった。もし、そこで私のボランティア活動に対する評価が各教員からなされていたら、私はボランティアに対して全くのやる気を失っていただろう。なぜならその時点で自発性が失われてしまうからである。ボランティアは強制するとボランティアではなくなるのである。
 つまり、ボランティアの研究と実践というのは別のカテゴリにあるものなのである。そして「ボランティア実践」や「ボランティア研究」がそれぞれに進んでいくことで、これからのボランティア促進が可能になるのではないかと思っている。
 学生がボランティア・アクションを起こす芽をそのまま放置してしまわないように、最適なかたちでこれから多くの大学にボランティア・センターが設置されることを望んでいる。今年は震災10年、節目の年である。国際的な紛争や、絶え間なく起こる災害、また高齢化・少子化の問題等、ボランティアの関わりが求められるであろうテーマや課題は数多くある。それらを乗り切るボランティアのネットワークとコーディネーションが各大学で発展していって欲しいと願っている。
 

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