優しき挑戦者(国内篇)
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■「常に真実をお話します」■
横浜線の矢部という小さな駅を降りると、近隣の人たちから頼りにされている社会保険相模野病院の看板が目に入ります。
医療の世界では長年、新米のお医者さんに、こう、叩き込んできました。
きっかけは、主治医をつとめた患者さんの死でした。内野さん自身はカルテを示して、何がおきたかを丁寧に説明したいと考えました。 ■変人→却下→抵抗■
1995年に産婦人科部長になった内野さんは、宣言しました。
自信をえた内野さんは、02年、副院長になるやいなや、「真実説明を病院全体に広げたい」と提案しました。
早速「常に恥ずかしくない行動を」という職員行動規範を周知しました。
このころには、日本でもヒヤリハット報告が奨励されつつありました。 けれど、それが再発防止につながらず、「気合をいれてがんばります」という根性論に流れてがちだったのでした。 ■「患者さんが気がつく前に話す」■
07年、内野さんはさらに思い切った方針を打ち出しました。
同時に、患者や家族からの理不尽な暴力や暴言からスタッフたちを守るための表示も貼りだしました。
不思議、というか、当然というか、このような方針転換のあと、患者数は増え始めました。相模野病院は、赤字病院から黒字病院に生き返りました。 ■「泣きたいくらい意地を張って」■
この内野さんを、私は、国際医療福祉大学大学院の「現場に学ぶ医療福祉倫理」の授業にゲストとしてお招きしました。
レポートから、ほんの一部をご紹介します。 ◆
医師不足の最中でも、「志の低い医師は、病院の方針を守るためには辞めていただいた」「人は弱いから、低いほうへと流れていく、それによってくずの集団が出来上がる」「泣きたいくらい意地を張って、やせ我慢して行くとなんとかなる」「1ミリ後ろに下がると、100メートル下がることになる」という、内野先生の言葉に感動しました。 ◆
臨床で働いていたころの、忘れられない出来事を反芻する機会となった。「早くまるく収めたい」「隠蔽したい」というトップの意向で、カルテの書き直しを師長から促され、泣きながら先輩ナースに助けを求めたこともあった。医師の誤薬の説明内容に納得できないのに、何も言えずにただ立ち会っているだけのこともあった。 ◆
相模野病院にお手伝いと指導に行ったことがあります。決して印象はよくありませんでした。 (大阪ボランティア協会の機関誌『Volo(ウォロ)』2008年11月号より) |
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