優しき挑戦者(阪大・ゲスト篇)
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メインストリーム協会副代表:玉木幸則さん(2003年4月23日・午前)
記録と編集:伊藤友美子さん・稲積真理子さん
―玉木幸則さんの紹介―
ゆき:
今日は、玉木幸則さん、西宮市のメインストリーム協会の副会長さんをお招きしました。メインストリーム協会という名前を聞いたことある人、手を挙げていただけますか?こんなに少ないの?(笑)「メインストリーム協会を知らずに福祉を語るなかれ」というくらい、とっても有名な自立生活運動の組織です。
では、「自立生活運動」って、分かりますか?『憐れみの福祉さようなら』という朝日新聞の社説をお配りしてありますので後で読んでください。11年前、91年12月に書いたものです。『福祉が変わる医療が変わる』(ぶどう社)という本に入れたとき「サービスの受け手が担い手に」という副題をつけました。「障害者」と聞くと、「かわいそうな人」「サービスを受けする人」と長年思われてきました。それを逆転させたのが自立生活運動です。
―玉木さんのお仕事―
玉木:
今日はテーマ的に何しようかなと思ってたんです。仕事は、簡単に言うと、どんな障害があってもですね、地域でその人らしく生活できるような社会環境を整備していく、もしくは生活していくために必要なサービスを提供していく仕事なんですね。で、そのことを最後の方にちらっと話できたらいいかなと思います。 ゆき: 今日は、ゲストの玉木さんが、海外からのゲストをお二人連れてきてくださいました。紹介してくださいますか? 玉木: はい。自己紹介してね。
―ゲストのゲスト―
キム:
みなさん、初めまして。私の名前はキム・ゼ ウォンです。韓国の留学生です。今は、メインストリームで研修してますけど、色々勉強になりました。よろしくおねがいします。
ゆき:
東京にヒューマンケア協会という、1986年、日本に初めてできた自立生活運動の拠点があります。そこで2ヶ月勉強されて、日本語がもう、とても、上手です。でも、大阪の言葉は、ヒアリングがまだできないのですって。視覚障害をおもちです。
レイナ:
みなさん、こんにちは。私の名前はレイナです。台湾から来ました。私も研究生で、日本で色々障害者関係の福祉について勉強しています。おととい東京から大阪のほうに来ました。今、韓国のキムさんと同じメインストリーム協会で勉強しています。よろしくおねがいします。
ゆき:
お掃除の会社のダスキンが障害者リーダーを育てる活動をしておられます。初めは、日本の若い障害者を海外派遣して、リーダーに育てていたのですが、最近は、日本にアジアのみなさんを呼ぶことも始められました。その研修の場としても、メインストリーム協会が頼りにされています。
―言語障害のある方の声とは・・・―
玉木: こんにちは。玉木と申します。結構僕は喋り好きなんです。今日、難しいことはあまり喋らんとこうかなと思ってます。では、最初に聞きたいんですけど、僕、言語障害があるんですが、言語障害のある人の声を聞いたことある方、ちょっと手挙げてください。・・・はい、少ないですね。なかなかねえ、イメージ的にですよ、言語障害があって、90分も大丈夫かいなと。ほんまに聞けるんかいなと。ひょっとして30分くらいでここでババーンて倒れるんじゃないかというようなイメージの方が多いと思うんですね(笑)。しかもね、最初僕の声ってのは聞きとりにくいと思うんですよ。こないだも某ラジオ番組でコメントとして僕の声が流れてたんですけど、僕もね、よう分からんかったんですよ(笑)自分でね。あれ?オレ何言うとったんやろな、と(笑)。それくらいねえ、僕の言葉ってのは聞きとりづらいということを自己確認しまして。でもね、これ不思議とねえ、30分くらい我慢して聞いとってください。そうすると、不思議とね、聞き取りやすくなるんですね。これは何でかっていうと僕がね、30分喋り続けてボイストレーニングをやってね、僕の声が聞きやすくなったのかっていうと、そんなことはないですよ。それはね、多分みなさんの耳の方が僕の声に慣れてきたんじゃないかな・・ということですね。これ多分実験で、今日確かめて欲しいんですけども、早い人やったら15分くらいで、遅い人でも40分くらいすればこの耳障りの良い声がですね、すんなりと入ってくんじゃないかな、という気がします。
―障害者に対するイメージ、間違っていませんか?―
玉木:
多分みなさん方、まだまだ障害者のイメージがね、あんまりよろしくないやろうというふうに思うんですよ。
―間違ったイメージの原因はなんだろう―
玉木:
その一つの原因としては、多分、一つはマスコミに原因がある。新聞とかテレビとかね。よく新聞なんかにも活字が踊ってますね。「障害を乗り越えて」!何を乗り越えるんですか?って(笑)。乗り越えなあかんもの、実は僕持ってるんやろか?・・・ね。そういう部分も今日のテーマにしていきたいなと。とりあえず乗り越えるっていう言葉が当てはまるんかどうかっていうことを今日みなさんに考えてもらいたいなと。
―「障害者」という前に「玉木」を知ってほしい―
玉木:
私は障害者だから、とかですね、体が不自由だからっていう人の見方っていうのは極論いうと差別に繋がる。間違いなくね。それは今日の友達もそうだけど、あなた外国人だから、っていう見方、どうなんだろうか?よく高校生の子達にも言う言葉としては、「今日日の高校生は」・・・ね、「今日日の大学生は」。そういうひとくくりにした人の評価っていうのは多分心地よくないと思うんですね。
―結婚秘話!―
玉木:
今34歳です。34歳。で、結婚は早かったんです。何をどう間違ったのか(笑)。早かったです。結婚は26歳で。このままでは結婚するきっかけがね、まだその時は僕は、自分に自信が無かったっていうか、ちゃんとお付き合いしていた人がいて、その人と遠距離恋愛してたんですね。
大阪になんとか就職したんですけども、大阪と神奈川でつき合ってて。一年・・(聞き取り不能)・・大方五年くらい遠距離恋愛してて。で、その時はまだ僕は自分に自信が無かったということで、変な話、これを逃すと後がない。これを逃してしまうともう(笑い)って。
―二人のお子さん、広大くんと洋香ちゃん―
玉木:
それで、子供が二人いまして、子供、上の子は男の子で五歳です。広大(こうだい)くんて言いますが、またこの子がね、優しすぎて弱いんですね。なんかもう、ふにゃふにゃふにゃふにゃ・・・今朝もね、ずっとお母ちゃんに怒られて、「早よしなさい、遅れますよ」とか言ってね。
―聞きたいのに聞けない、聞かない、人の障害―
玉木:
一番大事なとこやと思うんですけど、まず僕の障害のことをね、最後に説明しておこうかなと思うんですが、何でそんなこと言うかっていうと、なかなかね、人の体の特徴について言ってくれないね。なかなか聞いてくれない。特に日常会話に至ってはもう絶対触れない。ほとんどの人はね。
僕なりにちょっと分析してみると、なんで僕の障害のことを聞いてくれないかっていうことを考えた時に、一つはね、体のこと、特に皆さんから見ると、ウィークポイントですよ。体の悪いところ、そのことを聞くことは失礼なんちゃうか?もしくは体のことを聞いてしまうとその人を傷つけるんちがうか。ていうような気持ちが強いからなかなか聞いてくれない。聞いてくれないから話すきっかけも無いので、「結局なんであんな体なんやねん?」という疑問が残ったままずーっといってしまう。
―玉木さんの障害は「脳性麻痺」―
玉木:
この障害、脳性麻痺っていいます。この言葉よく聞かれてるんですけど、「じゃあ脳性麻痺について何か答えてもらえますか?」て聞くと、多分答えられないでしょう。ね。それはたぶんちゃんと聞いてないから。
―原因は出産時の事故―
玉木:
僕の場合、出産時の事故だった。出産予定日の一週間過ぎても出てこんかったんですね。
最終的に「もう出ない」っていうことで、UFOキャッチャーみたいなの掴むやつ。鉗子といいますが、鉗子分娩ででてきた。赤ちゃんが出てきて一番最初に何をするかっていうと、あれ、泣きますよね。あれ何で泣くかっていうと、実は「苦しかったー」「痛かったー」って思って泣いてるわけじゃなくって、あれは「今から肺呼吸を始めますよ」という証で泣くんです。ところが僕の場合は産声すら出てこなかった。ということは呼吸が止まってたっていうことです。だからいわゆる仮死状態で生まれてしまった。
―玉木さんの場合の症状は・・・―
玉木:
その一つが、僕の場合はたまたま脳なんですね。脳の機能がちゃんと動いてないわけですね。だから例えば今もですよ、「ちゃんと喋れ」っていう信号がでてるはずなんですけど、その信号機が若干壊れてるから、こういう声になったり、汗もそうですね。全部、脳のコントロールで汗の調整がやってますから、機械のコントロールがつかない時に、汗がいっぱい出てる。だから燃費が悪いんです。早い話が。燃費悪いですよ、ほんまに。そういう感じですね。だから歩く時もちゃんと歩けない。それはあの、信号伝達が悪いからそうなる。
―障害者と分かった時のお母さんの反応―
玉木:
そういう感じなんですね、僕の障害ていうのはね。今度、母親の反応をちょっと紹介したいなあと思うんですけど、実は僕が障害者って分かったのは、遅れてたんですね、ごっつい。僕が聞いた話によると、三歳前ですわ。
―羊水検査の目的とは・・・―
玉木:
良いか悪いかは別にしても、たとえば出産前であれば羊水検査があってね、羊水検査も法律の関係上、お医者さんが告知されるわけですね。告知というか、宣伝。「こういう検査がありますけど受けませんか?受けますか?そういう検査で障害が分かりますよ」ていう告知がある。
その検査を例えばうちの奥さんに俺がですね、「受けてこいや」って言ったとした時に、どうなるんかって自分で考えると、実はその検査をうちの奥さんに受けてもらうことによって、自分の存在を否定することになるんちがうか。もうこの世の中には障害者はいらなくて、もう、できれば内容が良くて。だからそのためには検査を受けて、生まさんようにしてもかまへん。ていうことは、いわば俺は社会にとって邪魔やと。今の社会にとって俺はお荷物やと。いうようなことを自分で認めてしまうことになるんちがうかと。
―玉木さんの障害がどうやって発覚したか―
玉木:
ほいで、そうそう、僕の場合は遅かったいう話ですよね。当時はさっき言うたように、まだ乳幼児検査が制度化されてなかった時でね。行政サービスのほうでね。
まあ僕は一人っ子なので、けっこう大事に育ててもらってたんですよ。だからちょっと病気してもすぐ病院に行って。
―なぜお母さんはショックを受けたのか―
玉木:
なんでショックを受けるかっていうことですよね。なんでショックを受けたんかっていうことですよね。
―障害児と分かった時、周りは・・・―
玉木:
それが、周りが周りなんですよ。周りもね、障害児は、やっぱりマイナスですから、プラスにならない。だから、嫁姑とか親戚、血縁関係、どろどろしてますよ。例えばうちのお母ちゃんが僕を生んだ時に、言ったか言われたか知らんけど、一般的な想像で言いますと、「ああ、障害児ができた」と。それは嫁さんの日ごろの行いが悪いから始まってね、嫁さんの血統が悪いんやとかね、家系に問題があるんやとかね、前世が悪かったとかね、何の根拠も無いことを周りは言うわけですね。
そん中で、色々話してく中で、お見舞い・・・違う、「お祝いって言うても、それ、どうしよう。今困ってはるし、祝いどころちがうやろな」いうことになって、結果的に、「じゃあ、お見舞いでも渡しとこか」、まあ、お笑い話なんですけどね、そういうことに、実は、なってる。実は多いんですよ。
―障害者の情報の少なさがショックに繋がる―
玉木:
例えば、うちのお母ちゃんがショックを受けたんもですね、情報として、何も知らんかったわけです。例えば、障害の赤ちゃんが、僕は二歳の終わりなんですけど、いわゆる行政サービス上の障害者手帳を取得したのは六歳なんですよね。
それと同じ情報のレベルとして、例えば障害児が生まれた時には、教育はこういう制度があり、こういうサービスが受けられますよと。教育は普通学校もあって、養護学校もあって、選択して入れるし、特別な教育も受けられるしとか、学校卒業して、就職とか、地域の小規模作業所があったり、一般就業できる人もいたり、それから進学する人もいたり、社会に出た時に一般就業できなかったら、施設とかあったりという、いろんなサービスのことが、さっきの健康保険の仕組みと同じくらいにね、みなさんの中に落ちてたとしたら、お母ちゃんみたいに、そんなに落ち込むことはなかっただろうと。そんなに自分に抱え込むことはなかったんちがうかな、という気がするんですね。
―「障害あるんなら治してやろう」の発想―
玉木:
まあ、幸か不幸か、うちのお母ちゃん落ち込みも早いけど立ち直りも早くて(笑い)、「そうか」と。「障害あるんか。しゃあない」。ここまでは良かったですよ。しゃあないから、もうこのまま生きていくしかないな、と思ってくれたら良かったんですけど、「しゃあない。あるのはしゃあない。それを治してやろう」と。今度またややこしいんですね。
でも結局は治りませんからね。別に治す必要も僕は無いと思ってます。
―障害を自覚したのは小学校入学時―
玉木:
あと一つね、言っとくこと、体のことですが、あ、ちなみにまだ自己紹介ですからね、忘れんといてくださいよ(笑)。
―小学校入学に試験と誓約書が―
玉木:
養護学校が義務化になったのは1979年ですから、僕が小学校に入学したのは1975年くらいやかな。義務化になる前ですよ。義務化になる前からもう障害者=養護学校という図式が出来上がっていた。それで、その時大変やったけど抵抗しました。「やっぱり普通の学校入りたい。入れてくれ」いうことで。それを言うとどうなったかっていうと、検査が始まったんですね。ほいで、小学校はみんな無試験なのに僕だけ試験受けて。たぶん大阪大学はいるより難しかったですよ。(笑い)だからといって僕が今入れるかっていうと、入れませんよ。大阪大学はね。 ほんで、おかあちゃんとしてはもうこれ一枚にハンコつくだけやったらつくわ、っていう感じでついたんですけども。やっぱしおかしいことですね。今やったら、そういうことしてる・・・(聞き取り不能)・・・やったら、大きな社会問題ですからいろいろ問題になりますが、当時は残念ながらそれは当たり前やった。なんか「当たり前」も実はね歴史とともに変わってくるっていうことですよね。それがすごく大事なことやないんかな、と僕は思いますけども。
―普通学校と養護学校に分離―
玉木:
こんなことおかしいという僕の本題には全然到達しておりませんが、普通学校と養護学校との分離教育の問題ではね、いろいろ論議がなされているんですけれども、明らかにね僕はね、分離教育あかんなあって思ってるんです。僕も普通学校に行ってよかったな。実は僕、高校は養護学校に行ってますから、両方を比較できるわけですけれども。
―大事なのは慣れるということ―
玉木:
そんなことよりも、僕は人と人との接点ていうか、つながり、慣れることが大事なんですね。今日最初に言った冗談のような話ですけども、どうですか、僕の声。慣れましたか?普通に聞けています?最初よりも気が抜けて力抜いて聞いてます?それなんですよ。ごっつい大切なことはね。確かにね、僕も普通学校に行って最初は思った。もうめっちゃ・・・(聞き取り不能)・・・かった。これは事実ですわ。ま、子供ってゆうのは珍しいものが好きですから、ちょっと珍しいもの見るとつっつきたくなるもんです、ね。そのつっつく一つとしては、僕の物真似から始める。歩き方のまね、しゃべり方のまね、それがエスカレートすると、ちょっとこかしたろかってね。そういう風になってくるわけですよ。
ところがね、最初に言った大人の心配、いじめられるんちゃうかなっていうのはありえへんと思いますね。よっぽどいじめるやつは性格悪すぎるかね、よっぽどその人に羞恥心がないかっていうとこですよね。もしね例えば1年生から6年生まで毎日僕のものまねをやる、例えばこかすとかね、そういう子供がいたと仮にしたら、ね、小学校卒業するときに、たぶん卒業式のときに校長先生に表彰されるやん(笑)あなたよく6年間毎日毎日よく同じことをやり続けてました。いや、ほんとですよ。あのオオブンシャモシの言葉とかで「継続は力なり」とか。あれいかに人間が同じことをやり続けることが難しいかっていうことであって。
―分離教育の弊害―
玉木:
それを慣れる環境でないんです、今の社会が。学校もそうです。未だに分離教育をすすめてる。国連からでもごっつい日本は圧力かけられてますからね。先進諸国の中で分離教育を主に推進してるの日本だけですからね。1993年でしたかね。国連の障害者機会均等に関する基準規則っていうのが出たのは。その内容でいくと、教育とか交通とか就職とか、いろんな分野にわたって障害者に関する機会均等とはこういうものやてゆうことが、名目とされた。
その中の教育問題のことみていくと、教育は基本的に統合された環境で教育されて、初めて機会均等であるというすばらしい名文がある。にもかかわらず、その障害者の機会均等に関する基準規則は、未だに日本は批准してない。そこらへんのね、教育って部分をしっかりと考えていかないと、なかなかその社会とともに生きるとかね、ノーマライゼーションていう言葉がね実はもう今お題目になっとるん違うかなという気がしますけど。最近小学校の総合科目かなんかの教科書にもノーマライゼーションという言葉が出てきますけどね。僕らから実際なはそんな言葉をさらけてこなかったんですね。だから、子供のうちからノーマライゼーションていう言葉は知っているわけです。知っているけどね、じゃあね、何がノーマライゼーションかというところが、全然普及していないということです。もういっぱいついしゃべりますね。せっかくやから、時間がないにもかかわらず。せっかくやから言うとこうかなと思って。こっから本題にはいります。(笑い)
―身辺自立とは?―
玉木:
結局ね、僕らは自立生活っていうことをずーっとゆうてるんですけども、これをね、言い続けなあかんかっていうことなんですよね。一つはその自立の話をしていきましょうかね。自立っていうとね、もういちいち聞くと時間がないのでね、皆さん方の代弁を僕がかってに思い込みにしますが、一般的に僕三つくらい分類されてるかなと思うんです。自立の考え方がね。
―経済的自立とは?―
玉木:
次に、皆さんくらいの年ですか。大学生になって、例えば夏休みでも、ごっつい長い。もうくそみたいに長い。その時に家でぶらぶらしてると、おかあちゃんに呼び止められるわけです。「あんたな。休みやから何しようと、そりゃ勝手やけど、せめて小遣いくらいはバイトでもしたらどないやねん」大阪のおばちゃん強いですよ。もう、あんたにかじられて、すね、おかあちゃんのすねなくなってるやないか。もう、見てみ」とか言われてね。
―精神的な自立とは?―
玉木:
最後に精神的な自立ていうことあるんやけど、これはもう、いろんな考え方があります。もう十人おれば十通りの考え方があるというても過言ではないです。
―障害者も自立できるのだ―
玉木:
今じゃあ、身辺自立なり、経済的自立なり、精神的な自立の考え方に、例えば重度の、最重度の肢体不自由の障害をもった人をあてはめてみましょう。自分のことは何もできません。ご飯も自分で食べられません。トイレも自分でいけないというその人にあてはめてみると、自分のこと自分でしましょうてゆわれても、動けないんですよね。できないわけです。自分で歩いてみ、言われても歩けないわけですよね。ほんな、いわゆる身辺自立はできない。そういう方がね、例えば働く意思があったとしても、今の社会のシステム上ね、最重度の障害者を胸張って雇用してる企業があるかてゆうと、ほとんどないわけです。働く意思があっても働けない状況がある。
―自立とは自分で考えること―
玉木:
じゃあ、何が自立かってゆうことにいきますと、例えば僕がね、服を着れない人と想定しましょうか。今から二通りの着方を説明します。一つはおかあちゃんに着せてもらう。一つはヘルパーさんを事前に依頼して、ヘルパーさんに手伝ってもらう。二通りの着方があります。
最初に言ったほうはほぼ間違いなく100%すべておかあちゃんの都合で動いているということです。6時半に起こそうと思ったのもおかあちゃん。この服を着せようと思ったのもおかあちゃんですよね。実は僕の趣味じゃないかもしれん。「こんなくさい色着れるかあ。」って思ってるかもしれん。この順番に着せようと思ったのも、実はおかあちゃんが着せやすい順番であってね、僕が着せやすい順番じゃないかもしれないんですよ。
同じ「服を着る」ていうのを一つとってみてもこれだけ明らかに違うんですよね。もう簡単に言うと、結局自立って言うのは、自分の生き方。自分の生き方をちゃんと自分で考えて、それをちゃんと実行できていくことが本当の自立なんや。自己決定、自己選択ゆうのは、生活をちゃんとできていくことが本当の自立なんやね。これはね、とりたてて障害者の自立って言うてますけど、実は皆さんにもあてはまることなんです。それをあえて障害者に当てはめてるていうことは、皆さん以上に障害者はその、自己決定、自己選択ということができてないていうことですね。できる環境におかれていないっていうことなんですよね。
―自己決定、自己選択は難しい―
玉木:
例えばね、何でそんなことを言うかって言うと例えば、親子関係でいくとね、例えば在宅で長いこと30年も40年もおかあちゃんに介護してもらったていう人でいくとね、もうね残念ながらね、おかあちゃんに要望なり意見ができなくなってるんですね。僕よくゆうてるのは人間関係の中で親子関係が一番いびつや、ゆうてるんですけど、なんでいびつかっていうと、おぎゃーって生まれた瞬間からもう絶対上下関係できてますね。もう間違えなくね。たまに子供に指摘されるわけですよ、親の間違いとかね。そうするとホンマは認めないとあかんのやけど親の特権で、なんや親に向かって変なこといいやがって、とか言ってねじ伏せるんですよね。それが親子関係ですよ、一般的な。そこにね、介護の依存っていうものが入ってくるとね、もうね言えないわけです。こうしたいああしたいとかいうことはね。
例えば、昨日の晩おとうちゃんとおかあちゃんが激しくけんかしてたから、朝からおとうちゃんおかあちゃん口きいてへんかった。そういう時にかぎっておしっこが近いんですわ。ありますよね。さっき行ったとこやのにもっかい行っとこかという時がね。ほんで、そういう時に限ってけんかした。今言うとおかあちゃん怒るやろうな。「あんた、さっき行ったとこやんか」とか怒られるから言えへんから、あと一時間くらい我慢しとこうか。そこで、したい本当の生活、これができてないんです。それが自分で動ける人やったら黙っていけるわけですが、それがいけないってことはやっぱし、それなりのコントロールで自分でやりながら生きていくしかないわけですよね。
―入所施設の実態―
玉木:
こんど入所施設の話もちょっとしとくんですが、入所施設のね、働いてる人だとかですね、胸はって「入所施設におっても自立した生活を送っていくことが可能だ。可能なんだ。」ってゆう人もいるんですけども、残念ながらそれは僕ありえないと思う。そこでね、施設の職員さんとかね、入所施設では自立できませんよってことをちゃんとゆうてくれればね、ええんですけどね。なんか知らんけど「自立は可能だ」言うからね、ちょっと待ったれや、ゆうことになってくるんです。
なんであかんかてゆうと、大前提として集団生活ですよ。集団生活ゆうのは一定の「ルール」があって、決まりごとがあって、その中で生活しますから、自己決定、自己選択ゆうのが、「ルール」の次にきますね。間違いなく、その「ルール」の一番大きなのは日課というものです。日課。一般的な日課いきますと、6時半起床いうのがだいたい標準ですね。6時半起床で7時半に食事。ね、6時半になったら順番に起こされていくわけですよ。機械的にね。「あともうちょっと寝たいねん。」日曜日やったら「11時くらいまで寝たいねん。」とかいうときありますよね。そういうこと言うと職員さんが軽い脅しをふりまくんですね。「今起きてもらわんと、いつ起きれるかわかりませんよ。職員手が少ないし。どうします?」ね、そこまで言われると、「あ、起きとこかな。」
次食事もそうですね。わしはもう朝はごはんと味噌汁に限るねんゆう人は、食堂にいくと牛乳とパン。どうしようわし朝は味噌汁のみたいな思っても、朝飯に提供されてる食事はそれだけです。ね、だからそこの選択は食べるか食べないかなんですよね。(笑い)いやほんまにね。でもみなさんがたやと「やあ、いや、こんなんやったら、学校行くときコンビニ寄っておにぎり食べよ。」ってできるわけですよ。それもできないわけです。
その頃になると、今度は「はい、自分でベッドにあがれる人は終身準備ですよ。」て、8時にですよ。なんで8時になったんかていうことを友達に聞いてくと、遅出の職員が帰宅が9時半や。しかもその職員さんの最終バスが9時38分かなんかで、それに乗らすためには逆算していくと8時くらいから終身準備を始めないとバスに乗れないという状況があったそうです。その施設ではね。
―施設をなくせるのか?―
玉木:
そうは言うもののね、今すぐに、その施設をなくして、全部地域に移行できるかていうと、その社会基盤ていうのが全然できていないわけですよね。だから現状としては、施設もいるわけですね。いるかぎりはそこの施設のその生活環境なり、そのサービスのあり方なりをちゃんと考えていかなあかん。考えていってやっぱし外部の人にもオープンにしてチェックをしてもらう必要がある。そのために今はやってるのが福祉の中で言う「第三者評価」ていうものですね。その「第三者評価」も入れるから、施設の差別も一定に安定される。僕はそこで一定ていうのは、逆にね、施設がビジネスホテルみたいになっても困るんですよ。障害者にとって、「あ、ここいいやんか。ここ天国やわ。」て思ってもろたら、それはそれで困る。で・・・もうあと5分しかない。
ゆき:
はい、少し質問のお時間を。
玉木:
はい。あの、結局ね、何がいいたいかというと。その、この前障害者の福祉政策ってゆうのは施設ありきの考え方ですよね。障害者はとりあえず施設に入ったらええねん。施設で暮らしていけたらいいやろう。って考え方がやっぱり強かったんですよね。でも施設があるからですよ。みなさんそう思うんでしょ。ほな皆さんがたからすれば、今の施設で生活したいか。できるのか。って聞かれたときにはたぶん「いや、私はいいわ。」って言うでしょ。います?この中で「いいよ。私はもう卒業したら施設に入りたい。施設で生活したい。」いませんよね。
でも障害があるからしゃあないねん。それはそれでえーねん、今の現状がこうなんやから。そういうね、発想はね、やっぱしおかしいから。やから、これから皆さんに考えてみてほしいのは、自分たちのしたい生活はどんなんや。自分たちが地域で生活するときはどうゆう暮らしなんや。そのことが実は障害がある人でもできていかなあかんのですね。それを実現するために今の社会福祉のサービスがある。社会保障のサービスがある。地域の行政サービスがある、ということなんですよね。で、そのことをやっぱしみなさんに考えていってもらいたいと思います。それを実践していってるのが、お手元にある「メインストリーム協会とは」っていうパンフレットとか、メインストリームが西宮市・・・(聞き取り不能)・・・擁護生活支援事業ていう相談事業の仕事の展開です。それが今からの地域福祉のキーになってくる事業になるんちがうかなと思ったりします。ということで、ほんまにあとね、3時間くらいいるかなって気がしてるんですけども、とりあえず、あの、これで終わりにしたいと思います。あの質問あればなんありと言ってもらったらいいんですけども。手挙げてください。質問てゆうとなかなかあがらへんのですよね。
―マスコミの影響について―
学生:
玉木さんが最初に障害者に対する偏見とかはマスコミの影響が強いとおっしゃいましたけど、その偏見とか、価値観とかを変えるのをマスコミが大きな影響を与えてると思うんですけど、そのへんはどう考えていはるんですか?
玉木:
その通りです。だから例えば、僕なんかやと新聞の取材やとか、テレビの取材とか受けるときとか。受けるときに、「間違えても『障害を乗り越えて』とかっていう文章は書かんとってね。それはあかんよ」って。こないだも、僕、朝日新聞の取材を受けて。いつやったかな、つい2週間前の全国版にばーんって載ったんですけども、普通ね取材、ちょっとした取材なら2,30分ぐらいで終わって、ありがとうございましたって、しゅーって帰って、勝手に文章作って、ぼーんって載るんですけど、今回は丁寧に、まず取材1時間くらいやってもらって、それから帰って、原稿書いたやつを読んでもらいながら、また電話で1時間半くらい、ああだこうだと、その表現はどうのこうのとか、そう書くとこう伝わってしまうとかという細かな部分までやりとりをしながら、マスコミに出してもらうっていう作業がね、しんどいと思うけどやけど必要やと思うし、逆に間違った表現とか、伝え方をしてる状況が出たときには、それに対して、ちゃんと抗議をするなり修正を求めるなりってことをきっちりと当事者の立場でやっていく必要があるかなと考えてます。 ゆき: 他にどうでしょうか
―障害者への「慣れ」を作れる環境―
学生:
お話ありがとうございました。僕は、玉木さんが小学校のときに、真似されたりとか、生徒さんからいろいろちょっかいを出されたと思うんですけど。その時に、なんていうんですかね、思った気持ちというか、こう敵意じゃないけどなんていうんですかね。このやろうっていう、やりかえしたいとか、いじめられたらいじめかえすっていうか、やり返すみたいな、そういうようなやり取りがあったんですかね。
玉木:
あのね、うちのおかあちゃんごっつい強い人でね。泣いて帰るとね。僕に怒るんですよ。「ほな学校やめとくか。」すごいでしょう、うちのおかあちゃん。で、「いや、学校行きたいから。」て言うと、「ほな行っておいで。」って。それで、「嫌なことは嫌って言うておいで。」てゆうておこられてたので、やり返してたというか、あの、まあ反撃もしたけど。で、あの全部がそういう子達じゃないですやん。ね、だって友達もおるから、友達とかが「やめとったげよ。なになに君」とかゆうのもある中での、そういう環境やったからやっぱり全然違います。全部が全部ね人間そうやけど、やさしい人でなくていいと思います。性格もあるし、考え方もあるから、その中でどう生きていくか、どう鍛えられるかも含めてね。人間の大きな面で育成していくことやと思って。だから、そういうこともあるんやっていうことを障害当事者は理解して生きていかんとあかんのに、やっぱりリスクっていうか、守られすぎてるから、ちょっとなんかあったときには、つまずいてしまうっていう現状はね、いっぱいあるわけで、何が変えていくかていうと、大きくなってからね、いろんなこととかやっぱりしんどいですよ。やっぱし環境で変えていく必要がある。
何でこれがわかったかていうと、余談ですけども、僕の子供を保育園に迎えに行ってるんです、毎日。そうすると1歳から行ってますから。1歳の子は、あの、区別ついてませんからね。僕が行くと楽しそうで、1歳の子が、よその子が寄ってきて、「おっちゃん、だっこ。」とかいうから、しゃあないから、「よっしゃよっしゃ。」とか言いながら。うちの子は帰りたくないから逃げ回ってる状況があって、で、そうやって行ってますから、5歳になった今でも、その1歳から来てた子は、「おっちゃん、こっちむいて。今日これ作ったんやで。」とかって、普通に会話ができるんですよ、ね。「今日広大君こんなことしとったで。」ちくってきたりね、するんですね。途中から入ってきた子供っていうのは、最初はやっぱり遠巻きで見てくる。なんやあのおっさん。もう変やぞ。って言うことは、3歳くらいでもう入ってる。で、聞いてくるんですね。「おっちゃんなんでそんなんにへんな声してるの。」って。子供の表現おもしろいですよ。変な声って。「変か?」って。「おっちゃんの声普通なんやけどなあ。」っていう会話をしながらその、近づいていくわけであって。
やからその、本当に会話をする、接する、同じ環境で生活することが、大事かていうのが、実は僕が小学校時代にも経験してるし、今も経験してること。それはたぶん一生大事なこと。だから会話が大事。本当に話をきく、本当に話をするってことが大事なんやろうな。やからその中でその、アイデンティティっていうのか、自分の質なりが関係しますけど、基本的にいろんな人がおるんやでっていうことを障害当事者もそれから障害を持たない人も皆が理解していくことが、ごっつい大事なことなんちがうかなって思います。
ゆき:
ありがとうございます。
―日本の学校システムの見直し―
学生:
ありがとうございました。えっと、私は、「施設ありきっていう福祉政策だった」っていお話、目からうろこが落ちる思いできいていました。ええと、私の中学は障害児学級ていうのがあって、その時に私がちょっと疑問に思ってたのは、「交流」っていう言葉を使って、一緒に運動会とか、そういうのは一緒にやるっていうふうに。交流って言葉はちょっと不思議だなって思ってました。
玉木:
養護学級も障害児学級も同じことなんですけども、結局ね、国連とかで言う、統合された環境でおこなう教育っていうのが、すべてがすべて全部同じことをしなさいっていうことじゃなくて、その学校にいるいろんな人が通っているんやっていうことが、まず大前提なんですね。僕が思うにね、その障害児と健常児っていうことで分けてしまうからごっつい問題があるんであって。 例えば皆さんも記憶にあると思うけど、小学校のときに本読み苦手な子がいましたとか、九九が苦手な人がいましたとか、いろんな人がいたわけですよね。でも今の学校教育の仕組みでいくと、1つのクラスで同じことを同じスピードでやるから、そういう人たちが目立ってくる。でも、本来なら、本読みが苦手な人でもちゃんとできたほうがいいに決まってるし、どの人が負担に思わん感じで、勉強ができていけばいいにきまってるんですよ。そうすると、その学校の中で、「じゃ、あなたはこの時間ここでやりましょうか」とか、実は障害をもたない人の中でもそういう特別な、サポートっていうのがいるわけですね。ほいで、それが障害があっても同じわけであって、そういういろんな機能がもちあわさった学校であって勉強する。だからね、今の日本の学校のシステムで、統合とかね、そういうことを進めていくことはまだまだ難しいと思います。だから学校の中にもいろんな機能を作っていく必要があるんやろうな思っています。
―交流を広げること―
学生:
興味深いお話どうもありがとうございました。私は、当事者の方から直接お話を聞けるっていうのが、すごく貴重だなあって思っています。ただその、社会の人に話を聞いてもらいたいと思っているけれど、玉木さんと違って、出て来れない状況にあるんじゃないかなあっていうのも思っているんです。そういった表の場面に出て来れない人を少しでも知ろうと思うんであれば私たちはどういった手段をとればいいんでしょうか。もしアドバイスあればお願いします。
玉木:
それね、「ピンポイント攻め」ていうんですけどね。たぶんね、例えば僕とか、お付き合いて言うたら語弊があるね(笑い)お知り合いになって、例えば僕のその人間関係の中から実はたどっていくと、そういう人にも出会ったりすることは十分あるって。最初からね、イメージの中でね、・・・(聞き取り不能)・・・家ん中閉じこもってる人おるやろうから、その人の話を聞きたいからその人を探したいていうことじゃなくて、とりあえずきっかけはなんでもいいから作っていくと、その中にいろんな人と出会っていくっていうことは、とても大事なん違うかなと思います。
ゆき:
ありがとうございました。 (拍手) |
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