「いまの自治体職員は、芸もワザもない、つまらないサーカス芸人だ」
「"身分保障"という、丈夫で大きな安全ネットが張られている上で空中ブランコをしているのに、観客を沸かす芸も技も見せない」
自治体学会の代表運営委員だった東大教授(当時)の大森彌さんの学会関東大会での言葉です。
ところが、異変が起こりました。
介護保険をきっかけに、「芸とワザ」を磨く自治体職員が、日本のあちこちに輩出することになったのです。
「東」の代表は、毎日新聞の連載『介護保険でお役所変わる!?』で大森さんの"過激発言"を紹介した鏡諭さんです。
大学での専攻は法学部政治学科。埼玉県の所沢市役所で企画課など日の当たる部署を歩んでいました。ところが、1994年、高齢者福祉課へ異動。
「なんで俺が福祉を?と最初、戸惑いました」
福祉分野は、長いこと市町村では不人気な職場でした。「福祉に飛ばされる」という言葉さえありました。企画課や財政課といった「頭脳労働部門」に比べると「肉体労働部門」のようなイメージだったのです。
国が細かく決めている膨大な量の仕事に追いまくられて残業はあたりまえ。
市民には怒られ、国や県の補助金申請に追われ、おまけに、市町村独自の政策づくりに最も遠い職場でした。
そのとき、介護保険がやってきました。
鏡さんは「これは黒船だ」と思ったのだそうです。
「対象者を選別する不公平な措置制度、公費丸抱えの施設運営、専門知識ももたずに配属されるケースワーカー、土日は休みで、時給換算すると7000円のホームヘルパー……これでは21世紀の超高齢社会は破綻する。介護保険は、時代が求めた黒船だと感じたのです」
自治体学会で活躍していた鏡さんは、96年 1月、厚生大臣に就任した菅直人さんが主宰する勉強会に参加することになりました。
「国保の二の舞になる」と介護保険に消極的な首長が多数を占めていた時代です。この勉強会では、国保と介護保険の違いが話し合われました。
鏡さんは、都会の自治体の悩みの種である自治体の超過負担も、介護保険の登場で解消できることなど、現場ならではのさまざまな分析結果を提出しました。
99年の春のことです。
静岡県大井川町での介護保険講演会を終えた雑談の中で、講師として招かれた鏡さんは、やはり講師に招かれていた厚生省介護保険準備室次長の神田裕二さんに、こう、提案しました。
「首都圏の自治体で介護保険を大切に考え、しかも、しっかり準備している自治体が20団体ほどあります。その自治体と厚生省が一緒に議論できる研究会を立ち上げたいのです。実務的な裏づけによって、政策的な質の向上と円滑な制度の導入が図られれば、介護保険は確固たるものになるはずです」
「歩く介護保険」こと、神田さんは快諾しました。
第1回は、99年9月、厚生労働省で最も格式ある省議室で開かれました。当時の事務局長、堤修三さんの後ろ楯あってのことでした。
こうして、毎月1回第2水曜日に厚労省の会議室を会場に、夜遅くまで、熱心な議論が繰り広げられることになりました。
集まったのは、表でご覧の通り。自治体学会会員、高齢者福祉で独自の取り組みをしてメディアに取り上げられた自治体、そして、鏡さんと個人的な付き合いのあった人々で、いずれも実に個性的でした。
一つのテーマについて報告を求めると、毎回ほとんどの参加者が、実にマニアックな、熱心な報告を携えて参加しました。
この研究会では、要介護認定事務、保険料徴収事務、個々の給付事例の問題や制度の周知など様々な実務についての提案が行なわれました。
そんな中から、たとえば、住宅改修では、室内に限らず、入口の段差などを、給付の範囲改修できるようにしたなど、現場での意見や苦情を改善策に盛り込み、生かされてゆきました。
参加した人たちはなつかしさをこめていいます。
「内容は斬新かつ大胆、しかも的を射たペーパーが多く、非常にレベルの高い報告でした」
「それぞれが鋭い視点で、制度の実施に大きな参考となる報告が多かったとおもいます」
「参加した自治体職員同士、あるいは、自治体と厚生労働省など、お互いが、刺激しあい、介護保険の制度づくりに少なからず貢献ができた幸せな時間でした」
いったいなぜ、熱意にあふれ、自身でものを考える自治体職員がこの時期に、沸きだしたのでしょうか?
鏡さんに分析してもらった結果は、こうです。
@自治体では縁故採用が多かったけれど、70年代後半、都市化にしたがって試験による大量採用になった。
A73年のオイルショック。民間の採用が控えられ、自治体の採用のハードルが高くなった。
B自治体の給与が、都や国に比べて高かったこと。特に武蔵野市・三鷹市など中央線沿線は高かった。
C中央線沿線の自治体が革新派の首長であったこと。従来の政策とは異なったもの、市民参加などがキーワードになった。
Dそれらの根底に、日本政治学会理事長や日本公共政策学会会長を歴任した松下圭一教授の「市民自治の憲法理論」等、自治体政策の重要性を説いた本に触発された人々が、武蔵野・三鷹・国分寺・小金井・小平・国立などにいて、研究会を行っていたこと。
この研究会の真骨頂は、2時間の会議では語り尽くせなかったあとの居酒屋「かあさん」での二次会、そして、メンバーのご当地をめぐる「合宿」にありました。
「かあさん」は、厚生省に近い虎ノ門にあり、安いのがなによりの取り柄。毎回2000円ほどで、空腹を癒し、飲み、ホンネで介護保険を語り合いました。
「あのときは、ああいったけど、実はね。。。」
品川区の部長、新美まりさんが、長崎の小学校時代、堤さんの同級生で、マドンナ的存在だったことが判明するというオマケもありました。
合宿の第1回は、福島でした。行き帰りの新幹線の車中はもちろん、バスに乗り換えてからも、話題は介護保険一色です。食事を終えて未明2時ころまで話しつづけ、深夜の入浴中も。。。
合宿は、その後、多摩・横須賀・所沢・岩沼・千葉・品川・横浜と続きました。写真は、ひとまず研究会に終止符を打った「ところざわ合宿」のものです。自治体から出向した「弁当持ち」の人々も一緒です。
「この六法全書には、高齢者が幸せになるようなことは、なーんも書いてねえぞ。それよりさ、現場にいってこいや」
「立場が違っていても介護保険の目的に国も地方もない。我々は同志だよ」
こんな数々の名言、泊まり込みで勤務し、朝一時帰宅して家族と朝食をとる、という働きぶりで「弁当持ち」の尊敬を集めていた石黒秀喜さん、ここでは、「アルチューハイマー」ぶりを発揮しています。
「西」の代表として、大津市の福井英夫さんに登場していただくことにします。
大学院で農業工学を学び、市役所に就職した福井さんが先ず、面食らったのは、お役所文化でした。
大学では「変わった発想。独創的」が最大の賛辞であったのに、「変わっている」は、役所では良い評価ではないのでした。大学では、自分の考えをハッキリと主張することが求められたのに、そのような振る舞いはなかなか認められません。99年1月介護保険準備室へ。
このころは、制度への厳しい批判が毎日のように新聞紙上にあふれていました。
「現場に行かなければ何も判らないと考え、特別養護老人ホームでは、入浴やオムツ交換などを体験させて頂きました。ヘルパー、訪問看護の方に同行させていただきました。他人に迷惑ばかりかけていて、生きる価値などないのだと話す方、生きる意欲を失い、うつろな目をしている方。。。介護保険制度開始というチャンスを生かし、『死にたい』というお年寄りの心の叫びを受け止め、障害をもっても、認知症を患っても『生きていて良かった』と感じることができる大津市のまちを創っていきたい、そんな思いがこみ上げてきました」
当時、「保険あってサービスなし」という言葉が飛び交っていました。福井さん、様々なデータを携え、「営業」に出ました。
「出店しませんか、もうかりまっせ」と事業所を口説いて回ったのです。
大津市の窓口に行けば何か情報がもらえるという噂が広まり、「介護職として思うような介護をさせてもらえない」「大きな家が空いている」「まとまったお金がある、介護事業に使えないか」と相談を持ちかける人が出てきました。
そこで、「グループホーム・宅老所開設講座」を開いたところ、予想をはるかに超えた200人もの受講者が集まりました。
市民に、ホームヘルパーや訪問看護、通所介護の事業者などの良しあしを見分けるのに役立つ17項目の「点検表」を配りました。ケアの質を向上するために、まず、利用者に賢くなってもらおうという作戦です。
99年秋に初めて会った福井さんから、あるマニュアルを渡された私は感動しました。「苦情こそ、介護保険をよくするための貴重な情報源です」「介護で疲れておられることを忘れずに応対しましょう」と表紙に刷り込んであったからです。
市民を「お客さま」と呼び、「できないと断るのではなく、こうすればできると話す」「ほかの機関にゆだねるときは相手方に連絡したうえで紹介する」「指示や説教は絶対にしない」「お茶を出して応対する」といった指針や事例が示されていました。
「素晴らしいマニュアルだけれど苦情"処理"よりは苦情"解決"の方がいいのでは」というと、早速改定してくださいました。
「『国がこう決めていますので、仕方ありません』と言わないことが、自治体職員の証」と後輩に語りかける福井さん。
着任したころの戸惑いはありませんでした。