ふたり恋に落ちて 愛の永遠を誓った
だけど20年もの間 愛が続くなんて
だれも信じないさ
普通じゃないさ
めくるめく愛と嘆きの別離
嵐に浮かぶ小舟のようだ
モナムール だけど今も君を
こんなに愛している 愛している 愛している
東京、赤坂・一ツ木通りの「シャンソニエ・ブン」、毎月第3金曜日の夜になると、渋い壮年の歌手の甘い声が響きます。
「ブン」は、アズナブール、ジルベール・ベコー、シャルル・トレネ、グレコなど有名なシャンソン歌手が来日すると必ず立ち寄った由緒あるバー。店のあちこちにそのときのサインが掲げられています。
歌声の主は、この歌の訳詩も手がけた武蔵野大学教授の佐藤信人さん。厚生省の初代老人福祉計画官、介護支援専門官をつとめ、霞が関を去るとき、当時の老健局長、堤修三さんから「ケアマネの父」の称号を奉られた人です。
その佐藤さんがなぜ、本格派のシャンソン歌手に?
いまは、三重大学人文学部法律経済学科准教授の稲川武宣さんがその背景を話してくれました。
稲川さんは介護保険制度施行準備室の室長だった高井康行さん(現・医薬食品局長)のもとで、98年から施行の日まで室長補佐をつとめていました。
「私の仕事が市長会、町村会、旧自治省、国会関係業務だったこともあって、審議官時代の堤さんと一緒に行動させていただくことが多かったのです。あれは、たしか、自民党本部にいった帰りのことでした」
堤さんに「ちょっとついてきて」といわれて着いたのは赤坂の日枝神社の裏側でした。一緒に参道を登りながら、堤さんは、突然、ボソッと言いました。
「佐藤信人さんが倒れたから、早く良くなるように病気平癒の祈願に行こう」
2人で祈願したあと、小さなお守りを買った堤さん。
「これを佐藤さんの机に貼っておいてください」
ケアマネジャー、ケアマネジメント関係の施行前準備で、家にも帰れない激務の日々を送っていた佐藤さんは、心筋梗塞で倒れ、病院に担ぎ込まれ、死線をさまよっていたのでした。
介護保険制度実施推進本部の当時の事務局次長は、いまは医療保険、医政、医療・介護連携担当審議官の唐澤剛さん、通称"喋る介護保険"でした。
「ケアマネジメント、ケアプランには、佐藤さんの心臓の半分、命の半分が注ぎ込まれています。そのことを肝に命じなければ」
95年夏、介護保険は創設に向けて一歩を踏み出しました。老人保健福祉審議会で「中間報告」がまとまったからです。秋には、3つの分科会、介護給付分科会、制度分科会、基盤整備分科会が設けられて、具体的な制度設計の検討が始まりました。
ところが、被保険者はだれか? 保険料はいくらか?だれが保険運用に責任をもつのか? 事業主はどのような役割を果たすのか?という論議が始まると議論百出、堂々巡りになってしまいました。
その中でもっとも関心が集中したのは、在宅サービスの給付水準がどの程度になるかということでした。
介護保険に対する国民の期待を考えると、相当高いレベルでなければなりませんが、
あまり高すぎると保険料も高くなりすぎたり、市町村の基盤整備が無理ということになりかねません。
この壁を破ったのが11月24日の介護給付分科会に提出された事務局資料「要介護高齢者等に対するサービスモデル」でした。
基本的な考え方として、次の4点が掲げられました。
@利用者本位のサービス
A予防、リハビリテーションの重視
B総合的、効率的なサービスの提供
C在宅重視
そして、8つのケースが図で示されました。
A・自分で寝返りすることができず、日常生活に介護を必要とし、深夜巡回のホームヘルプサービスが必要であり、療養上の管理を必要とするケース
B・自分で寝返りすることはできるが、日常生活には介護を必要とし、療養上の管理を必要とするケース
C・主に、居室内で生活し、車いすを使用、自分で基本的な日常生活の一部はできるが、入浴等は困難であり、療養上の管理を必要とするケース
それぞれに2〜3のサービスモデルがありました。
大蔵省では、主計局長が介護保険に消極的でした。その中で介護保険の理解者だった主計官の丹呉泰健さん(現・財務省事務次官)の命をうけて、主計官補佐の向井治紀さん(第55話にトドのようなという形容で登場)が、金額はいくらになるか、ヤイノヤイノと聞いてきます。
「数学科出身の山内孝一郎くんが特技を発揮して、細かい計算を積み上げてくれました」と唐澤さん。
といっても、当時のパソコンはいまと比べると脳味噌が格段に小さく「すぐにフリーズしてしまうので、ハラハラしどうしでした」と山内さんは言います。
ワープロを使い、形を考え、わかりやすい図にまとめたのは唐澤さんでした。ワープロは、パソコン以上に、いうことをちっともきいてくれません。少しでも修正すると消えてしまう惨事がしばしばでした。
「給付の最高水準は約30万円とでました。ただ、そんなサービスを提供している市町村は皆無に等しかったのです。けれど、サービス水準は、望ましいレベルの議論から入るべきだ、と僕たちは考えました。結局、高い水準を示して、基盤整備を促進すべきだという判断を幹部も大蔵省も示してくれました。財政担当なのに、一度もブレなかった向井は凄いやつです」と唐澤さんは、いまも感謝しています。そして言いました。
「『唐澤モデル』なんていっていただくことがあるけれど、このサービスモデルを実際に創ったのは、佐藤信人さんなんです。
既存の在宅サービスの制度は配給制度の名残のようなもので、予算がなくなったらそれでおしまい、サービスが提供されるかどうかは行政が決定し、ひとり暮らしの高齢者優先で、同居世帯は後回しというものでした。
サービスがほとんどない状況の中で、どのようなものを望ましいサービス水準として設定するか決めるのは、容易なことではない。
佐藤さんは、あちこちの施設や市町村にでかけて、実際の担当者から直接話を聴きながらこのサービスモデルを作成しました。制度とサービスとの関係で相当思い悩んだようです」。
最も足繁く通ったのが、三鷹の弘済ケアセンターでした。この創始者である橋本泰子さんは、介護保険制度の"受精段階"である89年の介護対策検討会以来、94年の高齢者介護自立支援システム研究会、その後の審議会のすべてにかかわり、介護保険の質を守ってきた人です。
1973年に北欧を訪ねてデイサービスセンターの働きに目を開かれ、89年当時は、日本で最初のデイサービスセンターを育てつつありました。とはいえ、まだ無名でした。その橋本さんを、政策提言をする重要な検討会に引っ張りだしたのはだれかしら、と調べたら、灯台もと暗し。なんとわが同僚でした。
日本ソーシャルワーカー協会会長で国際医療福祉大学大学院教授の鈴木五郎さんです。
「現場で素晴らしい実践をしている人を紹介してほしいと、当時、全国社会福祉協議会の高年福祉部長だったゴロチャンに相談したところ『それは、やすこさんが一番。実践を理論につなげられる得難い人』」と推薦してくれました。そのころ、僕はシルバー振興室長で、介護の専門性について模索していたのです」と辻哲夫さんは懐かしそうです。
辻さんは例によって橋本さんのもとになんども足を運び、惚れ込みました。
介護対策検討会が発足するころ、辻さんは老人福祉課長になっていました。そして、検討会のメンバーに橋本さんを加えるように、と吉原事務次官に進言したのでした。
話は佐藤さんに戻ります。
佐藤さんはケアマネジメント制度の創設とケアマネジャーの養成を担当することになりました。
短期間に1回、1000人、年4回のケアマネジメント指導者の養成研修。この指導者が各県に戻って研修の講師をするのですから、責任重大です。標準テキストの編纂、試験。。。
「文字通り寝食を惜しみ、この仕事に心血を注いだ佐藤さんがいなかったら、ケアマネジメントの仕組みは、いま、なかったでしょう。介護保険制度創設の陰にこのような方がいたことを多くの人に知ってほしいです」と唐澤さんは、いいます。
でも、それがたたって、いのちまで危ういことになったのでした。
大病がきっかけで、佐藤さん、人生観を少しかえました。
厚生労働省を退官後は、銀巴里で活躍した高名なシャンソン歌手、古賀力さんに師事して本格的にシャンソンを学び、向学心にも燃えて博士号もとりました。
いただいた本の巻頭にはこうありました。
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結局、ケアマネジャーは何をするのでしょうか?
一人の利用者の幸せな生活のために、家族や友人や隣近所の人たち、そして、いろいろな専門職が、それぞれ、どんなふうに、その人の役に立てるか。それを考えて、こうした人々を結びつけ、しかも「力」を引き出していくことなのではないでしょうか。ケアマネジャーは人と人を結びつける「接着剤」のようなものなのです。
決して「サービスを組み合わせる」ではありません。サービスを行う「人々」を結びつけ、人々の「力」を結びつけるのです。(略)
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私には、佐藤さんが、冒頭の詩のような気持ちで、いまも介護保険を恋しているような、そんな風に思えたのでした。