第4話「日本型福祉が生んだ日本型悲劇」に、こんな風に書きました。
「医政局長だった伊藤雅治さんが新潟大学医学部で学生運動のリーダーをつとめていたころ、東大で暴れていたのが、介護保険の生みの父の一人と言われる今井澄さんでした。69年1月の"安田砦攻防戦"には9000人近い警察官が出動し(写真)、防衛隊長の今井さんは大講堂の壇上で逮捕されたのです。
この「物語」も、あと4回でお終い。4話でのお約束通り、今井さんに登場していただくことにします。
1939年、軍医だった父の赴任地の満州で生まれました。
反戦主義者だった父は、徴兵義務を最低年限つとめると43年には帰国。そのため引揚者の苦労はしなかったのですが、母が結核で寝込んだため主婦の仕事は、長男の今井さんの役目でした。
「朝起きるとすぐに朝食の準備、学校から戻ると配給を取りにゆき、弟のおしめまでも洗っていました」。
58年、父の母校の医学部を目指して、東大の理科U類にあっさり合格したのですが、核実験に抗議しての英国大使館前座り込み、警職法反対のデモを皮切りに、学生運動にのめり込み、譴責、停学、そして退学。
復学したものの卒業を目前にした68年、東大闘争が始まり「医学部には闘争経験者があまりいなかったのでなにかと相談を受けているうちに、安田講堂の防衛隊長を引き受けるハメになってしまったのだそうです。
そして、逮捕。建造物侵入、公務執行妨害、凶器準備集合の疑いで、東京拘置所に1年間、留め置かれることになります。その時のことをこう書き記しています。
「私は壇上に腕組みして静かに立っていましたが、機動隊員たちは、私の前を素通りして、逃げる学生を追いかけて行きました。猫と同じように、動くものだけを追いかける様を観察し、おもしろいものだと思ったものです。多くの学生が顔面を殴られ、腹を足蹴りされ、護送車につめこまれました」
そのころ、今井さんは、夫人と駆け落ちして6年目。1児の父でした。駆け落ちの顛末を厚子夫人に尋ねてみました。
「主人はわが家の離れに下宿していて、3歳年下の私の家庭教師をしてくれていました。けれど、結婚には両親、親戚から猛反対されてしまいました。一人娘でしたから、お婿さんをとって家を継ぐ事を両親は期待していたのに、主人は長男。その上、大学から処分されたりする危険な男だということで……。」
2人は、あることを決行します。
60年安保から70年安保まで行動をともにした佐竹茂さんは、追悼集の中でこう書いています。
「今井さんは議論も真面目、行動も真面目、組織力も抜群で、当時から非の打ちどころの政治家でした。私は新宿・面影橋に近い4畳半にいまの女房と同棲していました。そこへ突然、今井さんが美女と駆け落ちしてきたのでした」
夫妻は神田川のほとりのアパート白菊荘で新婚生活を始めたのでした。
厚子さんの話は続きます。
「私が22、主人が25。あの人は決して、がむしゃらに理想に走るのではなく、現実を忘れませんでした。東大学力増進会に属し、家庭教師もやって、キチンキチンと生活費を工面してくれました。増進会では、校長までなったんです。私は何の心配もなく暮らしていました。1年間、東京拘置所に入っていたときも、増進会がお給料の60%を支払ってくださいましたし」
拘置所から出所するや卒業。
入学してから12年がたっていましたが、医師国家試験にはただちに合格。佐久市の国保浅間総合病院をへて、74年、倒産寸前の諏訪中央病院に迎えられました。
後に長野県の後援会長になった地元医師会長の土橋善蔵さんは、葬儀委員長としての式辞の中で、そのころのことをこう語りました。
「先輩の先生方から、中央病院に東京で食い詰め、ゲバ棒を持ち、ヘルメットをかぶって患者教育をしている若い医者たちが来ているらしい。お前は若くて大きいから2〜3発叩かれ平気だろう。見てこい、と命じられ、恐る恐る病院を訪ねました」
行って見ると「薬を減らそう」「予防が第一だから、出前健康講座を公民館でやろう」「老人を風呂に入れよう」と夜遅くまで議論しています。土橋さんは、すっかり魅入られてしまいました。
77年、懲役刑が確定して静岡刑務所へ。このとき、今井さんは外科医から内科医への転身を決心します。土日祭日を利用しての健康講座を企画していたのですが、それには内科の専門知識が必要だと感じたからでした。内科の教科書を3冊づつ差し入れてもらいました。
当時の厚子夫人との往復書簡と獄中日記を納めた『たちまち日記』(風塔舎)には、刑務所内の医療レベルの低さ、人権感覚の欠如への怒りのことばとともに、「心電図・心臓疾患関係の医学書を」「CHESTROENTOGENOLOGYを」など、細かい注文が書かれています。
東京拘置所での1年、それに模範囚だったことも加味されて、半年で出所。内科医として、諏訪中央病院に再就職し80年に院長に就任。40歳でした。
あっというまに借金を返し、病院経営を建て直し、病院を建て替え、コンサートを開くまでになりました。地元医師会とも仲良くなってしまいます。
「主人は、みんなが何を望んでいるかをいつも考え、それを現実にすることに心を砕いていました。開業の先生方から紹介された患者さんは治療後、かならずお返しする、病院の設備を開業の先生方に開放するという風にしているうちに信頼がうまれていったように思います」と厚子夫人はいいます。
このような心配りが、後に介護保険の政界でのまとめ役として発揮されることになったのでした。
お話かわって、香取照幸さん。介護保険の骨格をつくり、「介護保険の鉄人」の称号を堤修三さんから受けることになる人です。
埼玉県に老人福祉課長として厚生省から出向したとき、この県は「高齢化施策後進県の日本一」という不名誉な烙印を押されていました。90年に厚生省の老人福祉課長になった中村秀一さんから、「忘れもしないレーダーチャートを前に、万座の中で叱られました」。
措置制度や家族介護には限界があると考えた香取さんは、畑和知事を口説き91年、老人病院や社会的入院のない安心して年をとれる国、デンマークを訪ねました。
「確かに凄かった。でも、マジックではないことがわかり、自信になりました。金をつけ、道筋をつければ、時間はかかるかもしれないけれど、日本でもできる、と確信しました」
「カナメは、ひとりひとり違うオーダーメイドのサービスを作ること、必要なサービス量を確保して包括的に提供すること、利用する人の主体性、権利性、当事者性を保障すること、当事者が運営にコミットして拠出もすること、そう考えました」。
その香取さんが、今井さんと運命的な出会いをすることになったのは、埼玉県に出向する半年前に誕生した省内の若手の勉強会「ネオパラダイム研究会」でのことでした。
「"安田砦の、かの有名な活動家"というイメージとまったく違う、人の話をよくきく温厚な方でした。今井さんを囲んで、新蕎麦の会という名の勉強会がその後も続くことになりました」
その今井さんですが、88年、鎌田實さんに譲ってしまいます。
まだ48歳でした。
院長をやめ、弁護士か保健所長を目指そうと考えていた今井さんに、思いがけない話が持ち込まれました。社会党から参院選に出てほしいという要請です。古い友人が電話してきていいました。
「社会党は落選しても全然面倒みない。落選しても後の面倒をみなくていい医者や弁護士を探しているんじゃないか?」
今井さんは、忠告を聞き流し、「政治は最高のボランティア活動」というキャッチコピーを掲げて長野県内を飛び回り3万枚の名刺を配りました。92年7月初当選。
その翌年から、思いがけないことが続きます。
自民党が分裂、宮澤内閣が崩壊。総選挙で自民党が少数派になり、細川連立政権が誕生。
万年野党の代議士を覚悟して出馬したのに、社民党がなんと与党になってしまいました。そして、今井さんは、94年2月には、社会党を代表して連立与党の「福祉社会に対応する税制改革協議会・年金医療等福祉に関する小委員会」の副座長に。2月7日未明に細川総理が突然発表した「7%の国民福祉税」が猛烈な批判を受け、与党としての具体的な内容を提示しなければならなくなったからでした。
そして、自・社・さ政権成立。今井さんは与党プロジェクトの座長として、介護保険論議に欠かせないキーパースンになってゆきます。
そこでの活躍は次号でご紹介することにして、紆余曲折の末、今井さんは民主党のネクスト厚生大臣を99年10月からつとめることになりました。
医療と福祉の連携を身をもって実行してきた今井さんにふさわしいポストでした。そこに癌が襲いかかりました。2000年12月胃の摘出手術。01年1月ネクスト大臣を山本孝史さんに託します。
02年9月1日、62歳で死去。
その山本さんも、一昨年58歳で癌でこの世を去りました。
「孝史さんは今井先生を心から尊敬していました。僕も今井先生とおなじ道を辿るのか・・と悔しそうでした。62歳までは生きたかったと思います」と、ゆき夫人はいいます。
民主党政権が誕生したとき、「今井さんが生きていたら、山本さんが生きていてくれたら」という声が沸き上がりました。
香取さんは、もう1人、大切な人を癌で失っていました。
荻島國男さん。今井さんとの出会いの場になった勉強会「ネオパラダイム研究会」の指南役でした。激務で手遅れになった癌のために48歳で死去。
いまは審議官となった香取さんの執務室の壁には、荻島さんの2枚の写真、そして扉つきの書棚には、今井さんと山本さんの著書が大切にしまわれています。