物語・介護保険
(社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第66話 保険料40歳から徴収の丹羽案にビックリ、そして感心 (月刊・介護保険情報2010年01月号)

死期が迫りつつあることを知った今井澄(きよし)さんは、1冊の本をまとめる決心をしました。『理想の医療を語れますか〜患者のための制度改革を』(東洋経済新報社)です。
そこには、次のような提案が並んでいます。

■患者の立場になって行動する身近な「顧問医制度」の創設
■大学ではなく、現場の病院が医師を養成する仕組みづくり
■病床を半減し、職員配置を2倍に
■人を「病気」という視点から見ることをやめよう
■社会的入院の解消と在宅医療の充実
■カルテやレセプトの徹底的開示と、改竄(かいざん)への罰則
■国民皆保険のないアメリカを真似てはいけない

これは、1985年以来、社説やで紹介し、介護保険のサービスのモデルになったデンマークの医療がすでに実現していることと、奇しくも、一致します。

◆壁は、「革新政党」、市町村長、障害問題◆

この『理想の医療を語れますか』は、「厚くなりすぎる」という出版社の意向で、草稿のかなりの部分が省かれてしまいました。幸い、CD−ROMの「完全原本版」を厚子夫人が送ってくださいました。
そこには、「介護保険創設の舞台裏」という項がありました。
介護保険を阻む「困難だった壁」が並んでいました。

その1・国丸抱えの措置制度に慣れている、いわゆる「革新政党」や福祉関係者。

そこで、党の社会政策局長として、介護保険推進本部事務局長として、全国各地に出向き、党の地方組織や労組や地方議員の勉強会で講演し、説得しました。その回数は96年1月から介護保険施行までの50カ月間に87回にのぼります。
高齢社会を良くする女性の会の樋口恵子さんが、堀田力さんたちと立ち上げた「介護の社会化をすすめる1万人委員会」が大きな力となりました。

その2・国保で懲りている市町村長。

市町村長は自民党の大事な「集票マシーン」ですから、自民党の介護保険推進派の議員たちが、かなり骨を折ったとおもいます。
秋田県の岩川徹鷹巣町長、菅原弘子事務局長が組織した「福祉自治体ユニット」も大きな力を発揮しました。
最終的には1000以上の自治体が「ユニット」に参加しました。
厚生省は、終始、自治省に気を使っていましたが、自治省に理解者がいたことが短期間で仕上がった要因の1つではないかと思います。

その3・創ったばかりの「障害者プラン」と介護保険の関係をどうするか。

与党福祉プロジェクトの中にも、障害者団体の中にも、両論があり、一本化できませんでした。
障害施策が手厚い自治体では、介護保険に含めるとサービスは後退になります。一方、遅れていた自治体では、介護保険に乗った方が有利。そういう相反する状況がありました。

障害施策には、高齢者介護施策では抱えきれない、教育や就労の問題があります。障害種別によって必要なサービスが異なるという問題もあります。
「障害者プランを推進して遅れた施策を充実し、5年後の見直し時期に考える」という結論に達しました。

◆「政権与党の、理屈を超えた現実感覚」◆

法案は、ツメの段階で、またまた難問に直面しました。
当時すでに「国民年金の空洞化」が問題になっていました。
国民年金は、20歳になれば月1万円余の保険料を納めなければならない制度です。にもかかわらず、未納・未加入者が激増していました。
介護保険制度を導入したとき、保険料の未納者が多数でたら、制度は初めから躓いてしまうかもしれない。

その時のことを、今井さんは、こう記しています。
 元厚生大臣の丹羽雄哉さんが、突然、『保険料は40歳からにしよう』と言い出しました。
<医療保険も年金も20歳からだから、介護保険も当然、20歳から>
と思い込んでいた私はびっくりしました。
しかし、考えてみれば、40歳くらいになれば、自分の健康も心配になるし、要介護の親を抱えている場合もあるし、保険料を払おうという気持ちも沸いてくるかもしれないな、と納得しました。
『長く政権与党で仕事をしてきた自民党の政治家には、理屈を超えた現実感覚があるものだ』と感心しました。」

◆ライン川の畔で思いついた介護相談員◆

この話を、丹羽さんにぶつけてみました。
介護保険がスタートした2000年4月、今井さんは、シャドウキャビネットの厚生大臣、丹羽さんはホンモノの厚生大臣だったという、因縁の2人です。
どちらも学生運動の活動家だったという共通点もありました。
丹羽さんは慶応義塾大学時代、全学の自治会長をつとめしいたのです。
「当時の仲間には、毎日新聞を経て、評論家として活躍中の嶌信彦、元官房長官の河村建夫がいます」

写真@

話は、今井さんに戻ります。
「今井さんの質問は、いつも理詰めで、「これでもか、これでもか」と攻めたててきました。「野党議員にねじ伏せられては男がスタる」と、今井さんの時だけは周到に準備しました。
今井さんなら、政策の弱点をこう突いてくるかもしれない、と想定問答を練りに練りました。ところが今井さんは1時間でも90分でも剛速球を投げて、一向に疲れる様子がないのです。
『僕は丹羽さんと議論するのが一番楽しい。生きがいなんだよ』と、人懐っこい顔で笑う。気に入られた方はたまりません」
自社さ政権時代には、今井さんに、病院長としての経験を踏まえた教えを乞うたものです。理想論を主張する一方で、極めて現実的な考えをお持ちでした」

「40歳からの保険料徴収」を思いついたのはどんなときに?と尋ねたら、「無心な気持ちで散歩しているときに、フト思いつくんです」
「ライン川のほとりを散歩していて、ドイツの仕組みを思い浮かべながら思いついたのが、介護相談員です」
いま、4300人ほどの介護相談員が、養成研修をへて活動しています。写真@のように介護施設や在宅サービスの現場を訪問し、トラブル発生の手前で解決をはかったり、身体拘束や虐待を防ぐための助言をするのが役割です。

写真A

丹羽さんは、1枚の写真を取り出しました。左に痩せてしまった今井さん、後列右から2番目に丹羽さんが写っていました(写真A)。
「最後の質問を参院厚生労働委員会でなさるという話を聞いた私は、予定を変えて委員室に駆け込みました。私の姿に気づくと、今井さんニヤッと笑い、『丹羽元大臣がお見えになっているのは大変ありがたいことだと思います』と前置きして質疑に入られました。
阿部正俊委員長の『お座りになって質問してください』との言葉を制し、毅然として、立ったまま質問を続けられました。機関銃のような鋭い質問を容赦なくたたみかけました。そして政治家としての幕を自ら降ろしたのです」
「政治家としてのあるべき姿をみた思いでした」

◆介護保険が育んだ"絆"◆

介護保険創設にたずさわった議員(表)の間には、党派を超えた深い信頼と友情が結ばれているようです。それは政治の世界を超えた"同志"にも及びます(写真B)。

前々回の都知事選挙、丹羽さんは、自民党出身の石原慎太郎知事を向こうにまわした樋口恵子さんの応援に駆けつけました。
2009年の衆院選、自民逆風に加えて「後期高齢者制度の元凶」として集中砲火を浴びていた丹羽さんの応援に、樋口さんが駆けつけました。後期高齢者制度には批判的だったにもかかわらず……。

丹羽さんは、いいます。
「自民党の有力者が、『介護保険は日本の美風を壊す』と強力に主張したとき、弁慶の仁王立ちのように私の前に立ちはだかって、逆風をくいとめてくれたのが樋口さんなのです」
樋口さんもいいました。
「勝ち目がないと思われ、しかも、民主党に支援されていた私を応援するのは、お立場上大変だったと思いますのに」

写真B

◆介護保険で、新たな次元の社会システムに◆

今井さんは、亡くなる10日前、信州の自宅に見舞った厚生省の山崎史郎さんと香取照幸さんに、しみじみとした口調で、こう言い残しました。

「介護保険に色々問題があるのは確かだし、これですべての問題が解決するわけではない。けれど、この制度によって、日本の社会保障は、新たな次元の社会システムへと変革された。その本質的な変化を理解した上で、問題点を一つ一つ解決していけばいいんだ。日本の介護保険はドイツより格段に優れているのだから」
「何もなかった在宅ケアの仕組みが、こんなにできたのだから夢のようだよ」

そして、介護保険の在宅ケアサービスを受けながら、自宅で家族に包まれて、やすらかに最期を迎えたのでした。

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