卒論・修論の部屋

「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」と自立生活運動
大塚健志さん

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2-1 アメリカの当事者運動と自立生活運動概観

 アメリカの障害当事者運動の歴史は、60年代の公民権運動と強い関わりをもっている。第二次世界大戦前後にも障害をもつ当事者によるいくつかのアドボカシー団体が存在していた記録は存在するが、これらは障害をもつ人の生活を変えるほどの大きな運動には発展しなかった。
 その後、第二次世界大戦以後の障害をもつ人への公共政策を呼び起こしたのは障害児の親の運動であった。そしてアメリカでの障害をもつ人の権利を擁護する運動が草の根レベルで留まっている状態で60年代に入った。そこに、アメリカ全土で黒人差別に対する反対の運動が起こり、64年に公民権法が制定され、法制上の平等が約束された。
 アメリカという国の成立の特徴上、その構成員はWASPという大マジョリティを除き、人種や文化などにおいて、多種多様なマイノリティが混在している。これらマイノリティによるアドボカシー運動はこの公民権法の成立とともに加速し、その可能性が広がった。そのようなアメリカ社会において「障害をもっている」という特徴もまた1つのマイノリティグループとして、公民権法の成立によるマイノリティ運動の展開の流れに乗っていった。このような点でアメリカの障害当事者運動・自立生活運動は、アメリカという国の社会的な流れの中で発達していったといえるだろう。
 障害をもつ当事者による最初の直接行動は、大恐慌時代に就労拒否に対する抗議デモとして行なわれたとされている。その根拠として、実際に「自立生活センター」=CIL(Center for Independent Living)の発祥の起源が少数人種・民族の学生の中退防止プログラムにあるということが挙げられる。1970年、カリフォルニア州立大学バークレー校の学生であったエド・ロバーツは、そのようなマイノリティ学生の中退防止プログラムのマイノリティの範疇に、障害をもった学生も組み込まれるべきだ、という主張を掲げた。彼自身ポリオによる重度身体障害をもっていた。この主張によってエド・ロバーツは連邦からの補助金をもらい、バークレー校に「身体障害学生プログラム」=PDSP(Physically Disabled Students Program)を設立した。このPDSPの特徴の第一は、障害をもつ学生がプログラムの運営の中心であったことと、第二は、「自立とは、障害者がどれだけ自分の人生を管理できるかだ」というエド・ロバーツの新しい定義にあった。これらは障害をもつ人に対する、それまでの保護的で医療的な援助を全く覆すものであり、まさに障害をもつ当事者運動の発展の大きなきっかけといえる。
 バークレーのこのような動き以前にも1950年にイリノイ大学に身体に障害を持つ学生を対象としたプログラムが存在したが、介助のいらない軽度の障害者のみを対象としていた点や学校側が運営するプログラムであった点がPDSPと異なっていた。こうして、PDSPにより障害をもつ学生に対する介助サービス、車椅子用学生寮、車椅子修理サービス、障害者へのピアカウンセリングなどを提供する障害を持つ学生の支援システムがはじまった。エド・ロバーツは72年に大学を卒業するにあたり、同等のプログラムを学生以外の障害をもつ人に提供する「自立生活センター」=CIL(Center for Independent Living)を設立した。これが「自立生活運動」の始まりである。
 同時期に東海岸のニューヨークでは、ポリオによる肢体不自由であったジュディ・ヒューマンが障害を理由に教員免許取得を拒否されたことから障害をもつ人の権利の主張運動を始め、1970年に「行動する障害者」=DIA(Disability In Action)という団体を設立した。DIAは、その団体名からも明らかなように、障害当事者による権利主張を中心に政治的な活動をおこなった。このジュディ・ヒューマンは1975年から8年間CILの副所長を務めている。
 アメリカの当事者運動・自立生活運動は、アメリカという国に特徴的に起こった、マイノリティの人権擁護運動・個人主義の精神という土壌の上にたち、エド・ロバーツとジュディ・ヒューマンという二人の障害をもつ当事者リーダーの登場によってスタートした。バークレーから生まれたこのCILは全米に広がっていき、1999年の時点で全米で400以上のCILが存在している。そしてこれらのCILが全米に広まっていくことによって、そのサービス内容自体が、障害をもつ人の自立生活の支援に大きな影響を与えていたのはもちろんであるが、それ以上にアメリカに数多く存在するマイノリティ集団の1つとしての障害をもつ人のアイデンティティや自己決定・自立生活の概念を全米に広めることに大きな影響をもっていたと考えられる。
そして次の段階として、障害をもつ人の権利が世の中に広まり始めた時期に、成長した自立生活の感性を身につけた障害当事者たち(1)によって80年代、90年代の様々な当事者運動が展開されていくことになった。

2-2 日本の当事者運動と自立生活運動概観

 日本の戦後の障害者福祉もやはり医療的な観点から進められたものであった。当事者としての運動も、特に大戦直後は戦争で障害を負った人や、ハンセン病患者など、国立病院や国立療養所の自治会による医療的な面からの運動が中心であった。
 敗戦直後で注目すべき当事者運動は、1947年の視覚障害をもつ人たちによるGHQの鍼灸術廃止政策に対する反対運動が挙げられる。しかしやはり大戦直後の50年代には、障害児の親や、施設関係者などによる運動のほうが活発であった。また、後に日本の障害をもつ当事者運動のさきがけ的な運動を起こすことになる「日本脳性まひ者協会・青い芝の会」が結成されたのはこの頃、1957年であった。そのほかに東京やその近郊において、いくつかの身体障害をもつ人たちによる当事者団体が結成されている。
 60年代に入り、関係者を中心とした障害種類別の団体が次々と結成されるのと平行して(2)、62年から67年にかけて、国立身体障害者センターでの「更生医療」の制限に対する、当事者たちによる反対闘争が展開されたことが特徴である。この闘争の過程で、「青い芝の会」を始めとする関東の7つの当事者団体が連絡を取り合い「身体障害者団体連合」が結成される。このような連合をはじめ、60年代において障害をもつ当事者の運動はその規模を拡大し、活発化していった。
 70年代には、当事者運動の組織化とともに、運動の方向性にも変革が起こった。きっかけは、70年に神奈川で起きた、脳性まひの子を養育の疲れた母が殺してしまうという事件の裁判であった。被告(母親)の減刑嘆願運動に対して「青い芝の会」が殺された子お立場にたって反対運動を起こした。この運動が日本の当事者運動に大きな変革をもたらしたといわれている。この運動の中で生まれた「青い芝の会行動綱領」(3)や車椅子乗車拒否に対する反対運動に見られるように、それまでの医療的な問題や職業的な問題に対する運動の方向性から、障害をもつというマイノリティとしてのアイデンティティや人権を確立するという方向性をもつようになっていくことがわかる。運動の方向性のこの変化はこの時期以降の自立生活運動の芽生えのきっかけになったと考えられる。
 同時に当事者たちによる運動が方向性を変え、活発化していったことは、当事者自身の意識に大きなインパクトを与えただけでなく、社会全体にも問題意識を芽生えさせていく効果があった。その結果として70年代には、その例はあまり多いとはいえないが、重度の障害をもつ人が、施設でもなく親元でもなく独立した場所に住み、ボランティアの介助者を自ら確保しながら自立生活を試みることが実際に行なわれていたと報告されている。
 81年に、国連が「国際障害者年」を打ちだし、日本は「国際障害者年」の取り組みをキャンペーン的に記念行事や啓発活動を中心に行なった。このことで、障害者福祉に対する社会的な認知は一気に高まった(4)。しかし実際には当事者のことをあまり考慮に入れないキャンペーン的な取り組みは実際的であったとはいえなかった。
 自立生活に関しては、1981年、八王子市に、全国初の自立生活ホームである「八王子自立ホーム」が開設された。その後、1986年に初の自立生活センターである「ヒューマンケア協会」が設立された。その活動スタイルはセントルイスCILを手本にしたものであり、高齢者・障害者を対象とした介助サービスと自立生活を始めようとする人に対する自立生活技能プログラムを行なっていた。
 その後、都市を中心として各地に自立生活を支援する団体が設立され、1989年からは自立生活問題研究全国集会(96年から自立生活研究全国集会)が各地で開始され、1991年には15の自立生活支援団体によって「全国自立生活センター協議会」=JILが発足した。このJILには2003年現在で125の団体が加盟している。自立生活センターの広がりが、「自立」の理念を広めたこと、自立生活センターが事業体として幅広い活動を行なっていること*(当事者主権pp34・pp45)や各自立生活センターのJILへの加盟条件*(歴史pp170)を見てもわかるように、自立生活センターが障害をもつ当事者運動の中心となっていることがわかる。
 ヒューマンケア協会の創生期の事務局スタッフの中西(2003)は「当事者運動の要求が、不十分とはいえつぎつぎに制度化されつつある今日、知らないうちに換骨奪胎されて似て非なる制度がつくりあげられる危険もある。交渉能力を維持しながら監視を怠らず、実践を積みあげるだけでなく、時代に一歩先んじた政策提言をすることが求められている。」として、当事者運動が第2期を迎えているとしている。

2-3 日本とアメリカの当事者運動と自立生活運動の関わり

 日米の障害をもつ当事者運動の交流は主に国際障害者年前後に始まったといえる。アメリカの障害をもつ人の生活情報誌「リハビリテーションギャゼット」が日本語版発行されるなど、海外の当事者の運動が情報として日本に入ってくるようになったのと同時に、1979年にはエド・ロバーツが来日し各地で自立生活に関する講演を行った。
 1980年には後に埼玉で「虹の会」を立ち上げた福島あきえがアメリカ・ボストンの自立生活センターで実際の地域生活を通じて自立生活運動の理念を学び帰国した。またカナダのウィニペグでおこなわれたリハビリテーションインターナショナル会議で当事者が立ち上がり発足した「障害者インターナショナル」=DPI(Disabled People International)の1981年第1回会議がシンガポールで開催され、日本からもこの会議に当事者が参加している。
 1983年には、全国8ヶ所でアメリカの自立生活運動の担い手たちが来日し「日米自立生活セミナー」が開催された。このセミナーには、ジュディ・ヒューマン(第1章 1参照)や、当時のバークレーCIL所長であったマイケル・ウィンターなどが参加した。当時、日本でも自立生活運動は芽生えつつあったが、その理念や定義が確立されておらず、それを実践した記録や支援する方法などの情報が乏しかった。来日したアメリカのリーダーたちは、ここに大きな影響を与えた。85年以降、2年に1回日米で開催地を交替しながら「日米障害者会議」が開催されるようになった。
 このように、国際障害者年の前後から日本とアメリカの障害をもつ当事者運動は交流をもつようになり、以降国内の自立生活運動も加速していくことになり、同時に当事者の運動は世界的な規模に広がっていった。このような流れの中で1981年に「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」が始まり、日本の障害者リーダーが次々と誕生していったことになる。次の章ではその「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」についての詳細をみていくことにする。

(1)1975年成立の全障害児教育法により、77年以降の障害をもつ子どもたちは普通学校での就学の権利を法的に保障された。
(2)1961年「全国肢体不自由児父母の会」、1963年「全国言語障害児をもつ親の会」、1964年「全国重症心身障害児を守る会」、1965年「全国精神障害者家族会連合会」、1966年「脳性マヒ児を守る会」、1967年「「自閉症親の会」、1968年「サリドマイド被害児を守る会」など
(3)「第1テーゼ:われらは自らがCP患者であることを自覚する。第2テーゼ:われわれは強烈な自己主張を行なう。第3テーゼ:われらは愛と正義を否定する。第4テーゼ:われらは問題解決の道を選ばない。」という綱領である。 (4)1981年の総理府による「障害者問題に関する国民の意識についての国際比較調査」によると「今年は国連が定めた「国際障害者年」にあたりますが、あなたはこのことをご存知でしたか」という質問に対して、日本では90%の人が「知っていた」と回答している。同様の質問に対してロサンゼルスでは「知っていた」が33%であった。

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