ダスキンの事業に関して、2003年7月8日、2004年1月13日に(財)広げよう愛の輪運動基金の元事務局長である山本好男氏にお話を伺った。以下での概要や研修生に関する記述は山本さんに頂いた資料とお話をまとめたものである。
「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」は国連が打ち出した「国際障害者年」でもある1981年に、ダスキンのフィランソロピー事業の一環として、ダスキンの創業者鈴木清一の「めい・あい・へるぷ・ゆう?何か私にもお手伝いさせてください」という愛の精神をもとに設立された「財団法人広げよう愛の輪運動基金」による事業である。この事業では、障害をもつ人を海外へ派遣し、それぞれが福祉に関わるそれぞれのテーマについて研修・生活し、帰国後に障害者運動のリーダーとして活躍するためのスキルを身につけるというものであり、2003年7月現在で22期、298名の研修生を送り出している。この研修の卒業生の中から多く現在の日本の障害者運動、特に自立生活運動の分野を開拓する人たちが生まれ、文字通り「障害者リーダー」の育成事業となっている。
研修生は全国から応募し、それぞれが企画した研修先やその内容などのスケジュールや語学力などをもとに選考される。第1期から第10期までは「ミスタードーナツ障害者リーダー育成米国留学派遣事業」という事業名で数ヶ月から一年間の期間、研修先をアメリカに絞り、個人研修の方式で年間10名前後の留学が行なわれた。第11期からは事業名を「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」に変更し、第13期まで、数週間の期間、障害種類別(身体、知的、てんかん、聴覚、視覚の5種)に100名ほど(介助者を含む)の研修生をグループにわけ、アメリカ以外の国などにも団体で研修するスタイルで行なわれた(5)。第14期は個人長期研修と知的障害をもつ人たちのグループによる団体短期研修が共に行なわれ、以降第15期から第22期までは再び長期の個人研修のスタイルに戻り、第23期は第14期と同じように個人長期研修と団体短期研修が平行して行なわれている。ただし、23期の団体研修は、過去の団体研修と異なり、個人研修の研修生同様にその研修先やプログラムまで自分たちで決定し、実行に移すスタイルがとられている。
個人研修の研修生は自らが志望した研修先と、研修テーマをもとにして研修先で実際に生活し、研修プログラムやその方法も自分で決定するという方法をとっている。
施設関係者や福祉研究者を対象とした海外研修事業を行なう財団はいくつか存在するが、実際に障害をもった人たちが研修に参加し、個人で海外生活をおくる支援をするという事業は数も少なくめずらしい試みである。
研修生の障害別の割合は、肢体不自由135(1)名、視覚障害69(2)名、聴覚障害54(1)名、てんかん10名、内部障害4名、知的障害27名(括弧内は重複)であり、肢体不自由の障害をもつ人が最も多くなっている。
また日本からのこれまで研修生の主な研修先については、そのほとんどがアメリカであり、その他の研修生がイギリス(5)カナダ(5)スウェーデン(1)、デンマーク(1)オーストラリア(4)、ニュージーランド(1)、ドイツ(1)フィンランド(1)などを研修先として選んでいる(6)。
「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」に参加することで、その研修生たちがどのような経験をし、どのような変化があったのかについて具体的な内容を捉えるための調査をおこなった。
調査期間は2003年10月15日から2004年1月。方法は半構造化インタビューを調査対象の障害に合った方法でおこなった。まず同じ質問項目によるアンケート用紙を郵送し、そこで調査対象にアンケートによる回答か電話によるインタビューかを選択してもらう方法である。この他、各研修生個人の研修の経験を綴った著書やホームページを紹介してもらうという方法をとった。
回答方法を統一しなかったのは、各個人の障害の種類や程度などの状況により、こちらから回答の方法をインタビューのみ、やアンケート回答のみに限定できなかったためである。視覚障害をもつ調査対象には、電子メールを利用してアンケートを送付した。また倫理的配慮として「まとめました結果は、皆様にもお送りし、お役にたてていただきたいと思っております。また、プライバシーにわたることで、匿名をお望みの場合は、その旨お書き添えください。かたくお約束を守ります」と依頼状に記述した。依頼状・調査項目については付録1参照。
また回答を得ることが出来なかった研修生に関しても、個人のダスキンの研修での経験を綴った著書などの調査を補足として行なった。
調査に用いた質問項目は以下のとおりである。
質問項目1:海外研修に参加したことで、どのような心境や性格の変化があったか
質問項目2:質問項目1は具体的にどのような経験(状況)によるものであるか
質問項目3:海外研修での経験が帰国後の生活や仕事にどのような影響をおよぼしているか
本研究では先に説明した「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業(1990年までの名称は、ミスタードーナツ障害者リーダー育成米国留学派遣事業)」の第1期生から第22期生298名のうち、第1期から第10期までと、第14期から第22期までの研修生のうち、個人研修を終了し、その連絡先が確認できている122名を対象とした。今回の研究で、グループによる短期研修の卒業生を対象としなかった。理由は、個人による長期的な研修を経験した人とグループによる短期的な研修を経験した人では、海外研修期間に得た経験に大きな差があることや、また本研究がキーワードとしている「自立生活」という点からも介助者をともなったグループによる短期研修の卒業生は含めないほうがよいと考えたためである。
122名を対象として調査を実施した結果、37名からの回答を得ることができた。その内、電話による電話インタビューによる回答3名、アンケートによる回答29名、その他の回答4名であった。以下では、第1項目、第2項目、第3項目に関しては集められた回答を、共通する事項ごとに大まかに分類し(7)、概要をまとめていく。また各回答に関する個人名は、本文においても、付録においても基本的に挙げないことにした。
・A 内面的な影響・変化について(第1・3項目の結果から)
最初の項目として、第1項目では海外研修に参加することによっての性格や心境など内面的な変化に関する質問をおこなった。これは海外研修での経験が研修生それぞれに日常的な価値観や、障害や日本の福祉に対する意識に大きな変化を与えたのではないかと考えて設定した項目である。次に第3項目は、海外での経験と帰国後の研修生の生活や仕事(内面的なものも環境的なものも併せて)にどのような影響をもたらしているか、ダスキンの事業がどういう部分で障害者リーダー達の活動に関係しているのか、現在どのような活動をしているのかを聞くために設定した。
まず、第1項目と第3項目の回答に共通する「研修による現在への内面的な影響・変化」ということに着目すると、全体として多くの人たちに「性格や心境は変わった」「現在への生活への影響はある」とする回答がみられた。それらの回答の中で共通する内容だといえるものを、一部ピックアップして分類してみる(8)と、以下に示すような結果になった。
まず下記の表A-1のように、障害に関わることでも関わらないことであっても、自らの性格的な変化として、自信がついた、積極的になった、という回答が多くみられた。
自信/積極性/価値観/視野の広がりに関する回答(表A-1)
より積極的になった |
どこに行っても生きて行けるという自信がついた |
障害から来る嫌な出来事にも対処できる自信と恐らく誇りのようなものを得させてもらった きっと自分は変われるという確信を得た |
一歩前に出る勇気が多少強くなった |
自分から積極的に活動しないと何も起こらないし、変化もしないということが実感できた |
生命力がパワーアップした。問題解決能力への自信がついた。 |
強さを得た |
全般的に物事に積極的になった。人の手助けを借りる事を嫌がらなくなった。無理をせず楽に生きようと思った。自分に自信を持つようになった |
まずはものを見る視点が大きく広がりました。 |
視野が広がったのは事実。また現地の人々と触れ合う中で、言葉を越えた人間同士のつながり、国境を越えての友人を作ることができた |
自信を得た |
価値観や物差しに対する考えが変わった |
国際交流をすることの楽しさを覚え、自分のもつ人的ネットワークにかなり広がりが出てきました |
世界的な視野で物事を考えるようになった |
下記の表A-2のように、自らの障害に対する意識の変化に関する回答や、障害を持つことによる縛りや制約からの解放感についての回答が多くみられた。
「障害」ということ対する意識/障害をもつということからの解放感/
人間の多様性に関する回答に関する回答(表A-2)
障害は環境が作るということを実感した |
障害のある自分をまるごと愛せるように変化しました |
障害を肯定的に捉えることを可能にした |
あまり"車椅子"ということを意識しなくなった |
"障害者"としての私ではなく、"私個人"を大切にできるようになった |
1障害者として自分をさらに打ち出そうとし始めた。外に自分を出す事が役目だと確信した。 |
自分はありのまま |
障害をもっているということをある種のマイナスと考え、そのコンプレックスを打ち破るために"福祉に関する仕事につきたい"という感じの使命感のようなものをもっていて肩に力が入っていたが、障害をもっているということにとらわれない生き方を見つけることができ、良い意味で肩の力が抜けた |
心理的・物理的・経済的抑圧からの解放 |
無理をせず楽に生きようと思った。 |
きこえないことはマイナスではなくその人のありのまま、あるがままの状態 |
障害者の方々と直接的に付き合うことがなかった私も、たくさんの障害者の方々と、それに関わる人々に会うことができている。(自分の障害に対して)時には「劣等感」を感じますが、以前のような「嫌悪感」を感じることはありません。 |
心境というか、印象に残ったことは、人間の多様性。 |
自分の障害やそれに関わる心の問題(というか葛藤)を口にする事は自分の弱さを見せることだとずっと思っていましたが、(口にしないことで自分を保っていられると思っていたのですが)口にすることで心が軽くなった |
それまでは外出するにしてもどこか肩に力が入っていましたが、研修後はそういうことがなくなって、自由になったという感じです。 |
"海外"、"外国人"、"障碍者"といった境界線(壁)が感覚としてなくなってきました |
自分の考えが前より柔軟になったと思うし、同性愛やトランスジェンダーの友達が出来て交流したことで偏見と間違った知識がなくなった |
障害を含めて、幅広く"人間"を知ることができました |
障害という特徴を一つの個性として捉えることができるようになった |
下記の表A-3のように、先にあげた積極性と重なる部分があるが、障害を一人の人間としてその権利を遠慮なく主張する、権利の意識に関する回答がみられた。また、自己決定や自己主張に関する回答がみられた。
権利に対する意識/「自己主張」「自己決定」に関する回答(表A-3)
社会的差別に対する怒りの感情が多くなった |
きこえないために生ずる問題(大学の講義や職場での会議等の情報保障)を解決するために必要な補助(手話、ノートテイクなど)を遠慮せず、当然のこととして求めることができるようになった |
障害をもつ人もどんどん街に出て声をあげていかなければならない、権利を主張するべきだと、社会になるべく迷惑をかけない様に生きていくべきだとの考えは間違っている事に気がついた |
"市民として当然の権利を主張しながら生きていっていいのだ"と実感した。福祉サービスを受ける立場にいる訳ですが、卑屈にならず権利として要求していくことにひるまない姿勢を持ち続けています。 |
"自己責任"とか、"自己決定"とか、自分の選択とか、そういうことをさらに強く意識するようになった |
自分の意見、主張をさらに強く言うようになった |
カナダはみな自己主張が強かったのでその影響があった |
研修前は、われわれ障害者が社会に適応していかなければならない(無理をして)と思っていましたが、社会の方がわれわれにあわせるべきだと言うことを強く感じた。 |
日本人が一人もいない環境の中で暮らすことで、自己を主張する大切さを学べました。 |
・B 環境的な影響・変化について (第3項目の結果から)
次に第3項目の回答について、「環境的な影響・変化」ということに関する回答をピックアップすると、以下のような回答が挙げられる。
環境的な影響に関する回答(表B)
物書きとしての可能性も大きくしてくれました。 |
海外研修で学んだ事をそっくりそのまま日本で役立てる事は難しいことでしたが、スピリットは十分感じ取り、それを伝えることはできたと思います。 |
友や後輩を指導して彼らの人生を変えるのに成功した。 |
福祉センターや、短大の福祉学科で、海外についての講演をさせていただいて、「障害者も、あなた方健常者と同じ人間ですよ。障害者も金銭管理を始め自分の人生をセルフプロデュースできるのですよ!!」とお話させて頂いております。 |
地域でASL講座を開いたり、手話サークルやろう教育関係の大会などで留学経験を話すなどしてより多くの人々に広めている。 |
日本に帰国後は(障害者=福祉分野というわけではなく)特に英語力を買われ、公務員として働いている。 |
人による福祉に接していると、日本人の障害者に対する態度はやはり疑問に思うことが多いです。日本に帰国し、就職した際には、こういう部分を変えられるような仕事を少しでもしたいと思っています。 |
NPO法人として[JCIテレワーカーズ]という(障害者など就労弱者がITを使い就労のチャンスを得る)グループを立ち上げて、この仲間とともにがんばっています。 |
日常生活では自分の疾患の友の会との関わりがあり、その中では海外研修で経験した事と、日本の現状とを比較している。例えば寄付の集め方や、会の運営方法など |
障害(ポリオ後遺症)をもつ教師として、学生に命・差別等、教室の中で微力ながら何か心に残る話ができれば良いと思いながら、授業をしている間に20数年が過ぎてしまった |
研修先でお世話になった先生や、教会の友だちと現在も親しい交流があります。また、友が友を呼ぶといった感じで、国内外に友だちが増えつつあります。 |
研修の経験が縁で、日本でも自立生活センターの設立に関わり今も活動を続けている。 |
病院ソーシャルワーカー等をし、その間患者さん達への指導が、非常に前向きにできたと思う。アメリカでの実際をみて、日本でもそうあるべきだと思う点が多くそれを生かした支援ができた。 |
現在ピアカウンセラーとして障害者、非障害者とともに協力して、自分が描いた生活をしている |
研修を経験したために積極的に社会に働きかける必要を感じるようになり、東京に引っ越し、外部に向けた活動をはじめました。 |
現在、JTBに勤務していますが毎年、年に1度の聴覚障害学生の海外研修旅行を企画しています。 |
私自身はカナダで学んだ事をいかし、自分たちで声を上げていくことが大切と考えパラリンピックの選手協会を立ち上げ、また地域の面では、障害の有無にとらわれない総合型地域スポーツクラブを進めている。 |
一方的で独りよがりな権利の主張ではなく、当事者以外にも繋がる普遍的な主張をしてきているつもりです。その流れの中で、障害者議員となる道が拓かれたのだと思います。 |
内面的な影響・変化についても、環境的な影響・変化についても、多くの回答者が「心境や性格に変化があった」「現在に影響がある」と回答していたが、「心境や性格は変化していない」「現在の仕事などへの影響はない」という回答者も少数であるがみられた。
・C 研修での経験について (第2項目の結果から)
第2項目は、第1項目で質問した、研修における心境や性格に変化をもたらした具体的な経験、研修生にとって印象的であったといえる経験の内容を聞くために設定した項目である。全体としてそれぞれの研究プログラムの内容に関する具体的な回答とともに、アメリカという国で一人で生活するという経験そのものに関する回答が多くみられた。共通するといえるものを一部ピックアップしてまとめると、以下のように分類できた。
下記の表C-1のように、実際の研修先での経験に関する回答がみられた。研修先に関しては、個人によってその研修先や内容が異なるので、個別的で具体的なものになっていた。
研修先での具体的な経験に関する回答(9)(表C-1)
アメリカで経験した電話リレーサービスは24時間いつでも使え、病院にいったときには通訳を用意してくれた。ギャローデット大では聴者が、ろう者の私たちを尊重して手話を使っていた。これには心底驚かされた。 |
1つの部屋に、ろう者が一人、他はASLのできる聴者がいくつかのグループに分かれて雑談している。ASLのできる聴者はろう者がいると直接関係ない話でもASLを使う。ろう者は一見しただけで、あ、あのグループは昨日見たTVドラマの話をしているな、あそこは授業の話か、こっちは恋愛の話で私も興味があるから入れてもらおうと、自分で情報を得、選択し、行動に移すことができる。 |
それは、TTYという聴覚障害者用のタイプライター式の電話を使用することでどこにでも自分で連絡をとることができたこと。リレーサービスという聴覚障害者の伝達方法を24時間サポートする米国の社会背景があったこと。アメリカ手話を使っていろいろな方と直接コミュニケーションすることの楽しさを覚え、聴覚障害児に必要な視覚的言語環境がしっかり整っている教育システムを学び、帰国後自分にできることは何なのか、大きなヒントをもらった |
カナダでは障害をもつ子どもや大人の健常者も一緒になってスポーツを楽しんでいる光景があって、カナダの障害をもつ人たちは純粋にスポーツを楽しんでいると感じた。 |
カナダでは障害をもつ子どもや大人の健常者も一緒になってスポーツを楽しんでいる光景があって、カナダの障害をもつ人たちは純粋にスポーツを楽しんでいると感じた。 |
実際にCILのスタッフや障害者団体の方の話を聞けたこと |
スウェーデンではグループホームでみなが楽しく生活していた |
アメリカでろう者のロールモデルに出会えたことである。私は研究者志望だが、日本にろう者の研究者がいなかったので、様々な制約がある日本において希望を達成するためにどのようにしていいのかが解らなかった。このおつきあいは非常に高度な内容のピアカウンセリングであった。 |
次に、下記の表C-2のように海外での生活そのものという回答や生活の中でのできごとに関する回答がみられた。特にアクセスに関すること、自分の決定で生活すること、様々な人に出会えたことに触れているものが多かった。特にここに挙げられている回答は、研修生たちにとって日本ではなく、外国だから体験することが出来た体験であるといえる。
日常の生活での経験に関する回答(表C-2)
レストランで筆談でサンドイッチを注文すると、それが運ばれてきたときに、メモを受け取った。見てみると「君のサンダルかわいいね」と書かれていた。嬉しかったと同時に、日本では絶対ありえないだろうと感じた。 |
日々の生活の積み重ねによって |
様々な交通機関を自分だけで利用できた。(日本と差のある1982年だったのでショック・今は日本も可能)料理を自分で作れた。旅で各地に行けた。アウトドアスポーツの体験を得た。 |
車いすの人達が堂々と誇り高く暮らしています。観光客も多く訪れています。これらの人達と話をしていると視野が自然に広がって来ました |
日常生活を生きるくらいの拙い英語力しかもたなかった私が、日本人の一人もいない、そしてテキサスなまりの強い英語圏で時を過ごせたこと |
色々な境遇に置かれている様々な障害者と出会うことができました |
ある人との会話の中で「一人一人が特別なんだ(英語)」という言葉を聞いたとき |
私がホームステイした家は、奥さんが障害者だった。電動車イスを使い、片方の腕も少し不自由で、松葉杖を使って歩ける私より障害が重いと思った。あるその彼女が車イスから立ち上がり、不安定な姿勢ながら台所を歩いているのをみた。驚いて歩けるのか?と訊くと、[歩ける、でも遅いし疲れるので電動車イスを使っている]と答えた。少しでも歩けるのなら無理しても歩くのが当然、という考え方が頭に染み付いていた私は、彼女の答えに衝撃を受けた。 |
きっと五ヶ月間の生活全てが、きっかけだったとは思います |
何でもかんでもアクセシブルだったこと。上記にあるように、街を歩いていても、人から見られなくなったこと。「自分の障害を忘れそうな日常」は、私にとって大きな経験となりました。 |
車いすの人達が堂々と誇り高く暮らしています。観光客も多く訪れています。これらの人達と話をしていると視野が自然に広がって来ました。 |
アメリカの障害者、非障害者の生活に接し又自分が一人で行動する事によって |
1年という期限ある期間ではあったが、一人で海外生活を送れた経験 |
それまで接触する事の全くなかった障害をもつ友人と一緒に、生活を共にし語り明かす日々。私自身は身体障害(下肢)ですが、サリドマイドやリウマチや脊損や心臓障害の同年代の友人と、障害について何のこだわりもなく話し合え、彼女彼らの姿を通して、日本での自分を考える機会がもてました |
アクシデントに遭い、一週間の入院生活も経験したので、自分の病気をより理解し、病気のある自分をまるごと愛せるようになりました |
環境不備により生じる困難にあいながらも、勉強、日常生活、友達との社会生活を自分の力で遂行することができ、いろいろな人に支えていただきながら、充実した1年間を過ごすことができたということ |
研修先で私たちのためい何か決められているプログラムがあったわけではなかった。研修先についた次の日から自分はこういうことをしたいという明確に自分の意思を説明しなければ何も具体化しなかったし、進まなかった。 |
自分のキャリアや経験、状況(障碍者であるかないか、日本人であるかないか等)・環境(日本かアメリカか)は関係なく、"今"の自分がどうあるべきかということを考えさせられる状況にあったとき。 |
海外という全く価値観が違い、社会的に何も拘束されない場所で、仕事などの義務もなく、自分の判断だけで行動していくという環境におかれたときに、自分独自の感覚を中心にものを見、考えていったこと |
自分でアポをとり、自分でスケジュールを作り、毎日が挑戦でした |
アメリカ手話を使っていろいろな方と直接コミュニケーションすることの楽しさを覚えた |
障害をもっている人を町の中で見かけることが極日常にあって、「障害」ということを特別に意識しなかった。それゆえやはり街もアクセシブルであった。 |
次に、下記の表C-3のように留学先(そのほとんどがアメリカ)の文化や歴史や習慣、また現地の人の生活スタイルや国民性に関する回答がみられた。
留学先の文化や歴史、国民性に触れた経験に関する回答(表C-3)
アメリカ人の国民性(個人主義・フランクさ)に触れる体験(街中で気軽に声をかけられる・スーパーで自然に手を貸してくれる人) |
現在のアメリカの状況も、歴史があり、障害をもつ者がデモを始め、郡、州、政府への設備改善の要求を激しく行なってきた上での結果で、決して簡単ではなかったということ |
アメリカという国はもともと日本と違って移民社会であり、様々な人の違いや個性に寛容であり、障害をもっていることも何か特別なものではなく、1つの個性であると認識されている。 |
ロンドンという忙しい街であるにも拘わらず知らない人にも声を掛け合うという、「ゆとり」と優しさがあり、何か困ったことが起こっても、誰かが助けてくれるだろうという、安心感がありました。大学院で知り合った友達、特に、北欧から留学していた友達は、「福祉の国北欧」、という看板に偽りはなく、障害者に対して同情せずに理解するとは?と言うことを、私を通して実践して見せてくれた |
アメリカの障害者が何事にも積極的で、自信に満ち溢れていること |
障害のある子どもでさえ養子として迎え、愛し育んでいる人々の姿、神の許にはみな平等、すべて神の子であるという信念の許、分け隔てなく家族として暮らしている姿に驚いた。日本では血縁や家系制度で隠そうとするが、彼らは全てOPENで語っている。 |
障害のあるものは弱者ではなく、社会構成員の一部と考えられている。歩けないといっても"SO WHAT"という精神でどんどん社会参加している。 |
一番大きく感じたのは文化と習慣の違いでした。まず、食事はスプーン、フォークで食べます。日本の箸とは違い、レストランなどの外食時でもスプーン、フォークを別に頼む必要はありません。またトイレは全てが洋式です。和式トイレに比べ、障害者にとってはすごく使いやすいです。今では、車椅子公衆トイレなどが多く見られるようになりましたが、その当時ではまだまだ普及されていませんでした。それ以外でも、家に入るときにはアメリカでは土足で入っていき、そのままの状態で生活します。車椅子や杖などを使用している人間にとっては暮らしやすい環境になっています。その反面、日本では玄関で履物を脱ぎ、一段上がってから家の中に入っていきます。畳の上での暮らしは、立ったり座ったりすることが多く、足の不自由なものには生活しづらい環境です。仮に障害者と健常者の差があるとするならば、文化や習慣の違いで、日本に比べてアメリカのほうがその差は小さいのではないかと実感しました。 |
異国での一人暮らしによって役所手続きなど自分でしなければならず、しかも、何でも自分の責任を持ってやるというアメリカ文化に影響を受けた。サポートなど自分のやって欲しい事をはっきり言って当たり前というアメリカの習慣に慣れ、自分のやって欲しいサポートをはっきり述べるに留まらず、自分の意見をずばずば言うようになった。 |
文化の違いを身をもって体験し、アメリカのほうが障害者が生活しやすい文化であり、日本に比べて障害者と健常者の差が少ないのではないかと感じました。また完全な能力主義であるために障害に有無に関わらず、能力があるものは認められるが、そうでない人間は低いレベルの生活を強いられます。 |
カナダという国は、多国籍、他民族、多文化であることなど、日本との様々な違いを感じ、日本という国を外から見つめることが出来た。 |