ゆきの部屋

■言葉――使えば使うほど手あかにまみれ、目減りしていくもの■

 大阪ボランティア協会事務局長の早瀬昇さんが、「ボランティア」を、「ほっとかれへん」「がまんでけへん」思いと表現しておられることを、ゆきさんの授業で知った。どうやらこの言葉に欠かせないのは、「わき上がる自発的意志」「こみ上げてくる思い」のようだ。
 ところが、概して我々は、「予算がないの。ボランティアで講師お願いね」などと、単に無償で人に依頼(強制)する行為に「ボランティア」という使い方をする。さらに、「無償ボランティア」と「有償ボランティア」などという分類や、「ボランティア貯金」などという目先の利益と直接結びつくような概念をも作り出してしまった。

 講義では、言葉の本来の意味を明確にした上で、ノーマライゼーション思想の生みの父、デンマークのバンクミケルセン氏、育ての父、スウェーデンのベンクト・ニイリエ氏の志と活動について紹介された。ノーマライゼーションについても、日本でも「施設から在宅へ」とか「自立支援」を言うのだが、それは単に言葉と表面的な現象にとどまっていることが多い。
 北欧では、「在宅」と言えば、たとえどんなに障害があっても、住みなれた我が家に1人で生活することであり、日本のそれは、家にお世話を一手に引き受ける嫁が居る、娘が居る、という意味になる。

 言葉というものは、使えば使うほど手あかにまみれ、目減りをしていくもののようだ。
 医療や福祉に関わる者は心して、自分の言葉の本来の意味を理解し、またそれをより具体的に検証することが大切であると反省させられた。

医療福祉ジャーナリズム分野修士1年 加藤ひとみさん(行政官)

■"異常行動"は、すべて、『自分(職員)にとって都合の悪い行動』■

 施設職員が"問題行動"と呼んでいるものは、『異常な環境、異常なケアに対する、正常な反応である』という、授業で聞いた言葉は、とても説得力があった。
 多くの職員は、"自分の理解できないこと、対応できないこと"に対して、"問題行動"だの、"異常行動"と名づけてしまう。よく分析してみると、これらの主語は、すべて、『自分(職員)にとって都合の悪い○○行動』になると分かる。

 「急に連れてこられて、ここはどこなの?」、「家に帰らなきゃ、子供が待っているから」、「夫が帰って来るから、夕飯の支度をしなきゃ」「仕事に行かなきゃ」・・・等々は、私が施設にいた時に出会って、一緒に寄り添って歩いた方たちの言っていた言葉だ。言葉にできなくたって、話し掛けているうちに、落ち着いてくるのを見ると、「ああ(理由は)不安だったんだな」って分かる。
 それなのに、分かろうともしないで、こちらの都合で、問題行動と名付けるのは、正直おかしいと思っていた。でも、まだそれが日本の福祉の現状だ。

 この連休に参加した「主任ケアマネ研修」の中で、講師がふいに雑談で言った言葉にショックを受けた。
 「北海道の精神病院のことです。相談員の研修に参加したPSWが3年未満の人たちばかりなので、"何で続かないの"って聞いたら、ものすごいことが分かったんです。特別室なんていうけれど、昔の座敷牢そのままで、まるで、物か何かのように扱っていて、目の前の人を人間だと思わないひどい待遇。その上、3年いて退院支援を一度もしたことがないそうです。なので、皆『自分がおかしくなりそう』といって、辞めてしまうそうです。」
 辞めた人たちは、皆、正常だったということである。

自分は、一体何が出来るのだろう?どうしたらよいのだろう?・・と悩んでいところ、授業の中で紹介されたデンマークのクローさんの言葉が、とても心を明るくした。
・「愚痴や泣き言で世の中は変えられない」
・「従来の発想を創造的にひっくり返す」
・「説得のあるデータに基づいた提言」
・「市町村の競争心をあおる」
・「メディア・行政・政治家に仲間を作る」
・「名を捨て、実を取る」
・「提言はユーモアに包んで」
 できるかどうかは別として、目標という光が見えた気がした。

医療福祉経営専攻 修士1年 水下 明美さん(ケアマネジャー)

■良心が妙なふうに機能する日本という国、そしてカンボジア■

 障害者支援の世界的な潮流は、慈善をベースとしたアプローチから、福祉をベースとしたアプローチを経て、今や権利をベースとしたアプローチへと移りつつあると言われている。国連障害者権利条約の採択も当然その潮流の現われなのだろうが、この署名を期にわが国の障害者支援も権利をベースとしたアプローチへと変遷していくのだろうか。

 講義の中で日本の精神科病床数が異様に多いことについての話があった。
 私は精神科に半分足を突っ込んでいる作業療法士なので、日本の精神科の状況、入院している人たちの状況には何とかならないのかと思うことは多い。
 しかし、精神病院の院長には私とは違う受け止め方の人がままいるらしい。ある院長が「精神障害者は帰る家もなく可哀想だから我々の病院で一生面倒を見るのだ」と言ったとか、また別の院長は「我々は精神障害者を入院させていることで社会に貢献している」と言ったとか、そんな噂をよく耳にする。

 不思議だなあと思うのは、こういう院長たちも決して悪人という訳ではなく、ある種の良心とか使命感とかの一つの発露として、立場の違う人間から見るととぼけているとしか思えないようなことを言っているのだろうという点だ。きっと本気なのだろうし。
 そう考えると、人の良心とか使命感とか言うものはどんな形になるか分からないものだし、案外と油断がならないものだと思う。

 話は戻る。日本が国連障害者権利条約に署名したのと同時期にカンボジアも署名した。
 カンボジアと言えば、私は昨年3月まで、かの国に地域精神保健活動を根付かせる活動に参加していた。
 その頃のこと、カンボジアの農村部へ行くと扱いに困った精神障害者を家族が庭木に鎖でくくりつけているのを見ることがあった。庭木にくくりつけてはいるのだけれど、雨にぬれては可哀想だと思うのだろう、わざわざその木に雨避けの屋根を作りつけてあるのが、何とも言えず興味深かった。
 不思議な形の良心の発露。
 良心が妙なふうに機能するという点では日本もカンボジアも余り変わらないのかなというのが私の感想だ。

 果たしてそういう良心の国で、権利をベースにした障害者支援はどういうふうに根付いていくのだろうか、そういう国に住む我々は、権利をベースにした障害者支援をどういうふうに根付かせていくのだろうか。

博士課程3年 河野 眞さん(作業療法士)

■"拘束"から"縛る"へ概念を変えてみたら■

 授業を通じ、最も強く印象に残ったのは、「身体拘束」に関する、田中とも江さんたちの取り組みである。「"抑制"という用語をやめて"縛る"と呼ぶ。」ということの意味は、20年以上経過した現在でも、医療現場で極めて大きな意味をもっている。

 私の勤務する病院でも高齢者の割合は常に増加傾向にある。そして、肺炎等の短期の入院を機に、ADLが低下し、認知症が進行し、自宅退院をする事が困難となり、ソーシャルワーカーが介入するケースも増加している。そのような中で、高齢者の「転倒」リスクと「拘束」の問題は、常に存在している。
 当院では、転倒のリスクが少しでもある患者については、入院時に、医師から家族に、その旨の説明があり、「当院では極力拘束を行わない」こと、転倒のリスクが、現実の「完全看護」の範疇では防ぎ切れないと現場のスタッフ、医師が判断した場合には、家族に付き添いを依頼する。あらゆる状況判断をして、「一時的に」拘束がやむを得ないと医療者が判断した場合には、家族に連絡のして承諾証にサインをいただいている。
 この承諾証には、殆どの家族がサインをする。このことに対して、我々は違和感を抱かなくてはならないのだ、と改めて感じた。

 不幸にも、絶妙のタイミングで、この授業を受けた直後、病棟で患者の転倒事故が起きた。この事件についてスタッフ間で話し合いをした際、私は敢えて「拘束」ではなく、「縛る」という言葉を用いてみた。中には、「ベルトで患者を車椅子に固定していれば事故は防げたのでは。」という意見もあったが、「患者を縛ることは出来なかった。」という表現に、多くのスタッフが同意した。
 医療スタッフは、患者・家族が安心して医療を受けられる環境を提供する義務があり、それは医療者の「倫理」でもある。しかし、その「倫理」が「アブノーマル」に歪んだまま横行している現実が大いに在りうる。
 しかし、その「倫理」は、「"拘束"から"縛る"へ」という小さな概念の転換によっても、軌道修正し得るものだと改めて感じた。

医療福祉経営専攻修士1年 鈴木三佳さん(ソーシャルワーカー)


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