「ヨメを介護に縛りつける」という女性たちの反対の声
VS
「孝行ヨメに報いてなにが悪い」という高齢男性を中心とする推進論
−−現金給付をめぐる応酬は、90年代後半、メディアを賑わせました。
社会保険原理を重んじる学者の多くは現金給付の制度化に賛成、
財源の実現性を考えて介護保険導入に渋々賛成した論客は現金給付に反対、
ドイツ派は賛成、北欧派は反対、
サンケイ新聞は賛成、朝日、毎日、共同は反対。
これに、大蔵、自治両省の思惑もからんで、話は、四つ巴、八つ巴……。
日本福祉大教授の二木立さんは、現金給付賛成の立場から厚生省を、こう批判しました。
「女性を介護に縛りつける、公的サービスの普及を阻害するといった情緒的な理由から、現金給付は見送られた」
「厚生省は、情緒的な主張を渡りに舟とし、介護保険料を低い水準に抑え、国民の負担感を弱めるために、現金給付を見送ったと私は推測している」
(『介護保険の総合的研究』勁草書房)
対する厚生省介護対策本部の元事務局長、和田勝さんは、こう書いています。
「事務局においては、はやい時期から、次のような基本を前提として臨みたいというコンセンサスがあった。1.現金給付は行わず、介護サービス基盤整備を重視する」
(『介護保険制度の政策過程』東洋経済新報社)
和田さんの口ぶりから察すると、厚生省が現金給付を避ける決断をした最大の理由は、大蔵省主計局の強い反対にあったようです。
反対の理由は「現金給付は不正請求の温床になる」。
和田さんは言います。
「現金がもらえるとなると、寝たフリや認知症のフリをして、給付をせしめようという人が必ず出てきます。現金だと介護のために使われる保証もありません」
「経済同友会の福武総一郎さんたちが、『現金が駄目ならバウチャーはどうか』と言ってきました。ちょうどそのころ、横須賀市が独自事業で介護タクシー券を出していたんですが、これを、8掛けで現金問屋に売り飛ばす輩がいて市議会で問題になりました。そこで、この実例を出して、バウチャー論者を撃退しました」
「介護保険には、高齢化の進んだ過疎地で雇用を創出して地域社会の維持に貢献しようという目的もあったのですが、ヨメさんの介護を奨励したら、台無しです」
表は、94年当時の事務局資料です。
現金給付による手当の趣旨を5つに分類して、それぞれの問題点を整理していました。。
●介護者の慰労、家庭介護の奨励
●介護者の休業補償
●介護者の労働対価
●要介護者の慰労
●現物給付との均衡
同じ「介護手当」「現金給付」という言葉を使いながら、イメージする内容が人によって大きく違うことがわかります。
たとえば、写真左の男性は、デンマークのオーフス方式と呼ばれる現金給付の利用者、ミケルさんです。 脳性まひで全介助の身。自身で選んだヘルパーを雇用しています。その給与は、銀行に現金で振り込まれ、それを右の男性に支払います。場合によっては、家族がヘルパーとして雇用されることもあります。上の表の「介護者の労働対価」にあたります。これを、適切に実施するために、右の青い表紙の分厚い詳細なマニュアルが用意されています。
家族への現金給付が当初、8割を占めたドイツでは、どうだったのでしょうか?
1995年、ドイツ政府の招待で介護保険を取材した毎日新聞の斎藤義彦さんは、「日本は、『ドイツの5つ失敗』から、議論を出発すべきである」と提言しました。
その5つとは、
@実態にあわない低すぎる給付額
A軽い介護の人を対象外にする
B介護保険で認められる介護を限定する
C過酷な要介護認定
D現金給付が引き起こすモラルハザード、です。
そして、
「ドイツの介護保険は、全国に現金をばらまく壮大な『お手当て配り制度』になってしまった」「介護給付が生活費などに使われている」「老人が家にいると現金が入るので施設には入れないが、現金給付は現物給付の額の半分。十分な介護をする余裕はなく、『殴る、蹴る、縛る、介護放棄するという老人虐待の温床になる』と市民団体も警告している」
と報じました。
実は、斎藤さん、老人虐待報道のパイオニアの一人なのです。
大阪社会部記者だった94年当時、この問題のキャンペーンに取り組んだのですが、当時は、「老人虐待」というタイトルでは、読者が「暗い他人事」としか思わなかった時代でした。斎藤さんは、シルバーハラスメントを略し、「シルハラ」という新語を作って連載し、この問題に光をあてました。
ところで、斎藤さんの予測、ドイツについては、的中しました。
介護現場で質の鑑定を行う組織、MDSによると、2004年から2006年の間に、在宅・施設で介護を受ける人の3割について、食事や水分補給が不十分などの問題が見つかりました。
施設の1割で「床ずれを放置する」といった重大な問題が発見されました。
昨年夏には男性ヘルパーが老婦人に熱湯シャワーを浴びるという事件が起きました。
「質の低下は、過重な労働や低賃金が原因といわれています。ただ、質を維持しようにも、ヘルパーの給与が十分に払えないのです」と、ベルリン特派員をへて、いまは外信部デスクの斎藤さんは言います。
ドイツの悲劇は、2005年の介護保険法改定後の日本でも、現実になりつつあります。
志をもって介護の世界に飛び込んだ若者が、低賃金と過酷な労働に絶望し、離職者は増える一方。介護福祉士養成校の志願者は減る一方。
和田勝さんのいう「雇用を創出して地域社会の維持に貢献」どころではありません。
「介護人材の不足から介護保険制度は崩壊しようとしている」とNPO法人「高齢社会をよくする女性の会」は、2007年12月9日、「介護人材確保に向けての緊急大集会」を東京・虎の門で催しました。
介護現場の25人がリレー形式で厳しい現場の実態を報告しました。
各党の幹部の5人の国会議員が、深刻な事態について議論を闘わせました。
同会メンバーは赤穂浪士の討ち入り姿に扮し、「介護従事者の賃金に1人、月額3万円を上乗せする『3万円法』の制定を」など9つの「介護人材確保のための緊急提言」をもって舞台にあがりました。
「介護職を"社会のヨメ"にしてはなりません」「介護労働者が幸せでなければ、介護される人は幸せになりません」という樋口恵子さんたちの呼びかけは全国に伝わり、「緊急提言」には、写真のように、この日までに、14万248人の署名が集まり、その後15万人を突破しました。
ドイツの介護職の給与は、斎藤さんによると小売店の店員の平均給与の6〜8割だそうです。では、介護保険のサービスを組み立てる上で厚生省の若手官僚が参考にした北欧の介護職の給与はどのくらいでしょうか?
デンマーク在住40年の片岡豊さんに調べていただきました。
デンマークのホームヘルパーの月収は48万円で、店員の38万円、運転手の44万円を上回ります。日本のヘルパーの月収10数万円とは大違いです。
日本のヘルパーの給与は、勤務医の2割にもとどきません。一方、デンマークのホームヘルパーの月収48万円は、デンマークの勤務医の6割ほどに当たります。世界一格差がなく、貧困率が低いデンマークの面目躍如です。
デンマークでは、ホームヘルパーに、次のような資質が求められているそうです。
★認知症のお年寄りに尊敬の念をもてて、なおかつ忍耐強い
★同じことを何度いわれても興味深く耳を傾け、気持ちを正確につかむ
★小さな変化も見逃さない繊細さをもつ
★奇妙な行動にも驚いたりせず、怒りを受け止められる度量がある
★機転のきいた受け答えが得意
★ユーモアがある
ところで、日本で、まだ、報じられていないニュースを1つ。
「ドイツの介護の質の低下は、過重な労働や低賃金が原因といわれています。ただ、質を維持しようにも、ヘルパーの給与が十分に払えないのです」という斎藤さんの言葉を先に引用しましたが、このような状況についてドンツでは、改革に着手するようです。
メルケル政権は、2007年10月、介護保険料を1.7%から1.95%に引き上げ、給付額を増やす改革案を閣議決定しました。
日本の政権は、いったい、どうするのでしょうか?