物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第50話 うねりをつくった2つのネットワーク/キーワードは「地域」 (月刊・介護保険情報2008年7月号)

◆「これは、歴史の必然」◆

福祉自治体ユニットが旗揚げして3カ月後の1998年2月、奇跡のような偶然が起きました。
遠く離れた滋賀県と宮城県で、介護保険制度のキーワード「地域福祉」の発信源となる2つのネットワークが、産声を挙げたのです。
当時厚生省の政策課長だった辻哲夫さん(2007年厚生労働事務次官を最後に退官。地域の田園調布学園大学教授に)は、宮城県の松島で開かれた初の宅老所のつどいで、感動の面持ちで語りました。
「高齢ケアと障害ケアの分野で、同じ志をもつネットワークが、同じ時期に誕生したのです。これは、歴史の必然としか思えません」
辻さんは、若き日滋賀県に出向していた縁で、大津のアメニティフォーラムの基調講演を依頼され、熱気あふれる会場でアジ演説したばかりでした。
そのわずか1週間後、宅老所のつどいに招かれたのです。

◆"夢から出たマコト"◆

この集い、「全国痴呆症高齢者グループホーム研究交流フォーラム' 98」という大風呂敷な名前ですが、実は、宮城県の宅老所のメンバーの"夢から出たマコト"でした。
「日本のあちこちでどんな風にやっているのか知りたいね」
「でも、人手はギリギリ、宮城を離れるゆとりはないし、お金もないし」
「いっそ、全国に呼びかけて、来てもらったら?」
話ははずんで全国大会開催の話に発展しました。
といっても、全国から人を呼べるほどのスターは、この分野の現場には、まだ生まれていませんでした。
私のアタマに悪だくみがヒラめきました。
宮城県知事の浅野史郎さんに電話していってみました。
「浅野さん、障害福祉課長時代に知的障害のある人たちのためにグループホームの制度をつくったでしょ。あれと同じ思想から生まれた宅老所の日本初のつどいが開かれるのだけれど、鼎談に出演していただけないかしら? 古巣の厚生省の辻さんも浅野さんに会いたいっていっているし……」
オーケーをもらうやいなや、辻さんに連絡。
「浅野さんが、ひさしぶりに辻さんに会いたいっていってるのだけど……」
志の縁結び係&小間使いを名乗る私、「義を見てせざるは勇なきなり」がモットーなのです。
フォーラムは大成功。ただ、「痴呆」という文字は評判が悪かったので、翌年から「全国宅老所・グループホーム研究交流フォーラム」と改名し毎年1回、各地で開かれるようになりました。

◆ヒラメのような社協職員◆

一連のうねりの裏方をつとめる、いまは、特定非営利活動法人・全国コミュニティライフサポートセンター、略称、CLC理事長の池田昌弘さんとの縁は、92年に遡ります。「社協らしい社協が栃木にある」と聞いて、型破りのミニミニシンポジウムに参加したのが始まりでした。
たしかに型破りでした。会場は、酒井憲義さんという、「有名な社協職員」の自宅でした。酒井さんは、生後まもなく高熱のため手足の自由を奪われました。40歳になったそのときには、まるでヒラメのような伏せた姿勢で24時間を過ごさねばならない身になっていました。唯一動かすことができるのは口だけ。
昔ながらの福祉なら、施設で一生を終えるはずの人です。
ところが、池田さんたち、当時の栃木県社協のスタッフは、酒井さんの「自分の家に住みたい」「仕事をしたい」「町に出たい」という願いを「贅沢」ではなく「当然のこと」と受け止めました。

手始めに92年の4月、酒井さんを「ニーズ発見職員」として採用しました。主な仕事は口に棒をくわえて自宅で福祉番組を録音録画すること、障害をもつ当事者として研修会で事例報告すること。
この日常生活を、機関誌「ふくしとちぎ」が、くわしく報告します。
通勤途中に立ちふさがる階段、使えないトイレ、年老いた母に頼るしかない介護……。これに触発されて地元の新聞やテレビも酒井さんを追いました。それを見聞きする中で、栃木の人たちに、自分が障害をもつ身になったり年をとった時、「地域福祉」がどれほど重要かを、実感してもらおうという作戦です。

◆「思いやり」や「優しさ」より大切なのは◆

北海道の福祉を酒井さんに県民に紹介してもらおう、という企画をたてたこともありました。ところが、出張の手配を始めてみると、診断書や誓約書を求める航空会社まであり、障害をもつ人の旅はバリアだらけであることがはっきりしました。
この旅の模様が、また県民の関心を呼びました。
実は、福祉専門家である社協職員にとっても、毎日が「発見」の連続でした。酒井さんは髪を伸ばしたいのですが、丸刈りにしています。酒井さんの手が拘縮しているので自分ではアタマを掻くことができません。週1日の入浴サービスでは頭がかゆくなるので髪を切るしかなかったのです。
「こんなアタマでは、女のひとにモテない」という悲しみも知りました。

福祉というと「思いやり」や「優しさ」という言葉が持ち出されるけれど、年をとった人、障害をもつ人にとって、「他人の思いやりにすがらなくても、あたりまえに生きられる社会」が理想なのだ。福祉とは「人の誇りを守ること」ではないか、そんな風に職員は考え始めました。
その池田さんたちが、栃木で立ちあげたのが宅老所の元祖の一つ「のぞみホーム」でした。

◆栃木から宮城へ、そして、宅老所から生まれたユニットケア◆

ただ、栃木県社協の上層部が交代して、本来の地域福祉ができなくなったと感じたスタッフたちは宮城に移りました。そして、宮城が、CLCが、高齢者の地域福祉の発信地になっていったのでした。
CLCのフォーラムからは、様々な弟分、妹分が生まれました。
たとえば、武田和典さんがつくった「ユニットケア」という言葉は、国の政策になりました。

◆「平成桃太郎の会」の鬼退治◆

池田さんたちの活動に私が感動した翌年の93年、同じように「地域での暮らし」を合い言葉に始まった集いがありました。
「平成桃太郎の会」、略して「平桃ヘイモモ」。知的障害のある人々の地域での暮らしを模索していた当時30代だった4人が飲みながら盛り上がって始まりました。各地に巣くう「鬼」を退治に出かけようというのです。
「鬼」とは、知的なハンディを負った人々がまちの中で暮らすことを妨げている人物や組織や先入観のこと。
アタマの固いお役人や首長、収容型福祉施設になんの疑問も抱いていない職員も鬼です。

中心になった4人組は、滋賀県を動かす北岡賢剛さん、福祉界の吉本?の異名をとる長野の福岡寿さん、坂本祐之輔・東村山市長を支えて福祉改革をすすめる曽根直樹さん、レスパイトケアのパイオニアの根来正博さん、4人あわせて、通称、キタフクオカソネゴローです。
写真は結団式に集まった応援団です。のちの宮城県知事、浅野さん、厚労省年金局長になった吉武民樹さん、大学教授におさまった田中耕太郎さんといった、歴代障害福祉課長や、4人組の兄貴分で、いまは埼玉県立大学学長佐藤進さんの若き日の顔があります。

◆「全国地域生活支援ネットワーク」という、モットモラシイ名に改名◆

ヘイモモのやり方は意表をついていました。注文があると(押し売りすることもしばしば、なのですが)、一座を組んでフォーラムの出前に出かけます。
出し物は土地の事情にあわせて綿密に打ち合わせます。朝から夕方までの日帰りコース、昼から始め懇親会で盛り上がって次の日を迎える1泊コース……。
基調講演は学者か行政官、シンポジウムの演者には地元代表を入れて実践報告的なものにするのが定番です。
「先駆的にやっているところとしては、こんなところがありますが」と助言し、地元の主催者に選んでもらい、意中の人物を口説き落とします。2年間で20カ所、ほぼ毎月どこかで執り行われていた勘定になります。

この巡業フォーラム、評判が評判を呼んで、自治体や福祉施設の職員が大勢集まるようになりました。困ったのが「平成桃太郎」という主催者名です。こんな名前では、出張旅費の精算にはなじみません。そこで、「全国地域生活支援ネットワーク」という、もっともらしい名前に改名しました。
そして、冒頭にご紹介した松島の宅老所フォーラムの1週間前の98年2月、「アメニティフォーラム」と銘打った全国的なイベントが滋賀県の大津プリンスホテルを借り切って行われたのでした。
詳しくお知りになりたい方は、『僕らは語りあった―障害福祉の未来を』(ぶどう社)をどうぞ。

◆懴悔する医師、ジジババ体験をする政策課長は◆

ヘイモモも同様、CLCもフォーラムを全国に出前するのが特技です。
私が特に感銘をうけているのは、フォーラム挙行の前、数年がかりで、それぞれの地域の人々をつなぎあわせて準備する努力です。
どちらかというと、互いに敬遠しあっていた福祉現場の人々と医療関係者、霞ケ関、県、市町村のお役人のネットワークがつむぎ出されます。フォーラムが終わったときには、それまでになかった信頼のネットワークが残るのです。

たとえば、認知症ケアに取り組んだ医師の草分け、きのこエスポアールの佐々木健院長は、85年当時の自身の精神病院での風景をビデオやスライドをまじえてフォーラムで披露し、率直に懴悔し、福祉分野の人々の共感を呼び起こしました。

辻さんは、98年、武田和典さんが企画した「ジジババ体験」に参加してこんな感想を漏らしました。
「食事は、どんなに急いでも自分の判断とペースで食べるから美味しいこと、会話のない食事が実に味気ないこと、それを体で知りました」
「痛いくらいたまっても、トイレにいったシーンを想像しても、どうしてもオムツに排尿することができませんでした。オムツに排尿する葛藤、つらさに耐えることが、あの表情につながるのでしょうか」
辻さんの影響で、霞ケ関の人々が、現場を訪ね、介護を受ける体験をするようになりました。行政の文化革命です。

◆入口はその人らしさ、出口は地域◆

その武田さんは、宅老所、グループホーム、ユニットケアの神髄について、「入口はその人らしく、出口は地域」という合い言葉をつくりました。
右のイラスト(クリックで拡大)は、99年10月の第1回ユニットケア研究大会で配られた速報新聞に掲げられた武田さんの挨拶です。
「ユニットケアは、目的ではなく、その人らしい生活をするための手段、方法の1つにすぎません。入口なのです。では、出口は何かというと『地域』です」
ユニットケアセミナは、ことしの札幌大会で10回を迎えます。

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