物語・介護保険
(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ〜れぼ〜れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第59話 訪問看護から政治へ、"女は度胸" (月刊・介護保険情報2009年6月号)

◆「龍さま」人気⇒ゴールドプラン⇒介護保険◆

波瀾万丈・紆余曲折の末、介護保険法が成立したのは1997年12月17日。
ときの総理は橋本龍太郎さんでした。
橋本さんは、介護保険誕生の露払いをつとめた「ゴールドプラン」のきっかけをつくった人でもあります。
ゴールドプランは、1989年の参議院選で自民党が大敗した副産物として生まれました。55年の保守合同で自民党が誕生して以来、同党の参院選議席はどんなに減っても61。それが40以下になったというのですから一大事です。
自民党が消費税をもちだしたために、女性や高齢者に嫌われたから、と分析されました。

宇野総理は退陣。引き継いだ、海部さんは、大蔵大臣に橋本さんを指名しました。
女性たちの消費税不人気を「龍さま人気」でなんとかしようという作戦もあったといわれています。
当時の橋本さんは男性からは「ハシリュウ」、中高年の女性から「龍さま」と呼ばれていました。「ツヤツヤしたオールバック姿が、身ぶるいするほどステキ」という女性もいたという人気。私も、樋口恵子さんと3人で食事したときの橋本さんの気配りに、女心をつかむ秘密をかいま見た思いでした。間髪入れずに、自作の山の写真と自筆の礼状がとどいたのですから。

さて、総理の座を狙う橋本さんとしては、消費税不人気問題を大蔵大臣としてなんとしてでも切り抜けなければなりません。
そこで、かつて大臣をつとめた厚生省に「国民に喜ばれる消費税の使い道を考えてほしい」と指令しました。
ちょうどそのころ、厚生省では、吉原事務次官のもとで介護対策検討会(第9話)が開かれていました。
検討会での提案をもとに、厚生省の事務局は「寝たきりゼロ作戦」や「ホームヘルパー10万人計画」柱に「シルバープラン」をつくり上げました。戸井田厚生大臣の「シルバーでは景気が悪い」という鶴の一声で名前はかわったものの、これがもとで「ゴールドプラン」が誕生することになりました。橋本蔵相、戸井田厚相、後の民主党最高顧問、渡部恒三自治相の協議のもと、90〜99年度の10年間に消費税6兆円を投じる「高齢者保健福祉推進10カ年戦略(ゴールドプラン)」が打ち出されたのです。
消費税収入は1年間6兆円でしたから、10分の1に値切られた気もするのですが。。。

96年1月11日、橋本さんは村山総理の辞任を受けて総理大臣に指名され、自社さ連立による第1次橋本内閣が発足します。施政方針演説では、「長寿社会の建設」を最重要課題の1つに掲げました。
介護保険法が成立したのは、96年11月7日に模様替えして発足した第2次橋本改造内閣でのことでした。

◆幻・官邸への訪問看護◆

この橋本総理の生い立ちを、訪問看護の普及に生かそう、と密かに戦略を練っている女性がいました。当時、日本看護協会の常任理事だった山崎摩耶さんです。
橋本さんの生い立ちというのは、こうです。
産みの母・春さんは、中耳炎をこじらせ、生後5か月のとき急死。橋本さんは、父の後添いの正さんに7歳の時から育てられました。
この正さん、選挙のときは秘書代わりに奔走。めでたく当選して26歳で初登院の時、正さんが付き添ったことから、マスコミは「マザコン代議士」「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と冷やかしたものでした。
そんな風ですから、橋本さん、正さんの入院中は総理在任中も見舞いを欠かさず、病院のベッドの傍らで本を読んで過ごすという孝行ぶりでした。

摩耶さんは言います。
「そこで、私は協会代表として申し出ました。『訪問看護婦を官邸に24時間派遣します。母上を退院させてはいかがですか?』と。橋本さんもその気に少しなったのですが、あいにく病状が不安定になったということで実現しませんでした。実現していたら、訪問看護の評価も違っていたでしょう。それを狙ったのです」
「目標は、『官邸の在宅死』でした」

◆介護保険で思わぬ運命が◆

摩耶さんの人生は訪問看護と介護保険に彩られています。68年ナースの免状をとってすぐにつとめた、北海道勤労者医療協会札幌病院で最初に手がけたのは、通院を中断した患者のフォローアップでした。
「当時は脳卒中で半身マヒの患者さんは、寝たきりになってしまい病院にも来られず、褥瘡だらけになっていました。放置された患者さんですから、卒業したての私でも、関わり始めると褥瘡が治ったり、立って歩けるようになったり。看護ってこういうことができるんだと実感しました」
76年に上京。柳原病院などをへて、81年、新宿区立区民健康センターへ。後の訪問看護のリーダー、新津ふみ子さん、加藤登志子さん、横田喜久恵さんたちが新しい道を切り開いていました。

ここで出会った人たちを描いた『優しき長距離ランナーたち』で84年に潮ノンフィクション賞を受賞したことが、摩耶さんの運命を変えました。
厚生省の若手官僚たちの勉強会、ニューホライゾン研究会に招かれ、それが縁で、94年、介護保険の骨格をつくった「高齢者介護・自立支援システム研究会」のメンバーに(第21話)。このような人脈に魅力を感じた日本看護協会にスカウトされ、95年からの10年間、常任理事。95年から02年まで日本訪問看護振興財団常務理事をつとめました。

◆「だまって見てはいられない」◆

その摩耶さんが東京下町の健和会柳原病院の医療企画課にいた78年、地域看護課にやってきたのが、若き日の大沼和加子、いまは、看護介護政策研究所所長の宮崎和加子さんです。
東大医学部附属看護学校を卒業して間もないというのに、80年には川島みどりさんや摩耶さんとともに『地域看護の展望〜柳原病院における在宅老人看護の展望〜』(勁草書房)を書いています。
和加子さんの心に訪問看護の火をつけたのは、3つの出会いでした。
前回の物語の主人公、季羽倭文子さんのイギリスの訪問看護の連載。
水俣で住民のための実践を74年からつづけてきた上野恵子さんとの出会い
そして、76年の東部地域ねたきり老人実態調査「だまって見てはいられない」、でした。季羽さんの連載にあるイギリスとはあまりに対照的な日本の現実でした。

写真は、地域の人たちに「ナースは病院の外でも頼りになりますよ」とアピールするため白衣に自転車で街に出て行く和加子さん(右端)たち、地域看護課のナースです。
「それまでの訪問看護は、外来の空き時間に訪問にいく、善意の取り組みでした。柳原病院の場合は、地域で必要なことを制度化する、それを全国に普遍化していくモデルになろう、という意識がありました」

1963年、家庭奉仕員の制度が始まったものの、「独り暮らし」で「生活保護を受けている人」に「週2回・2時間」という、実に役にたちにくいシロモノでした。
美濃部都政になって老人家庭家事援助制度ができ、週18時間まで自由に割り振ることができるようになると、柳原病院は、この制度を活用して、家庭の主婦に援助者として登録してもらい、要介護でも施設に入らないですむ体制をつくりあげてゆきました。

◆不思議なほど、共通点が◆

摩耶さんと和加子さんには、ともに働いたのはほんの一瞬なのですが、なぜか、不思議なほど共通点が見つかります。
どちらも、大学医学部の付属看護学校の出身。摩耶さんは、「女性の自立」「看護の自立」を北大医学部付属看護学校恩師と母から受け継ぎました。
どちらも、筆がたちます。摩耶さんのノンフィクション賞受賞についてはすでに触れましたが、和加子さんも『看護婦は自転車に乗って』(医学書院)、『家で死ぬのはわがままですか』(筑摩書房)、『愛しき水俣に生きる』(春秋社)と流行作家なみです。
「私の果たしてきた役割の1つは、看護の中身を文章化したこと。一般の人にも分かりやすくかかなければ制度はかわりませんから」。

デンマークなど北欧から積極的に吸収していることも共通しています。
摩耶さんは定点観測と称してしばしばデンマークを訪ねています。和加子さんもデンマークに学んで、93年に『在宅補助器具活用マニュアル』を同僚とともに医学書院から出版しています。
デンマークに惹かれるもの無理はありません。
私が初めてこの国を訪ねたのは、1985年のことでしたが、そのとき、すでに訪問看護のシステムが定着していました。
訪問ナースは、日本のいまのケアマネジャーの役割もかねており、まるで名探偵のようにニーズを見つけ出していました。
在宅ケアの"動く司令塔"として実力を発揮していました。

独り暮らしで重い病気をかかえていても、病弱な老夫婦だけでも、自宅で暮らし続けられるようなシステムも、すでに整っていました。
写真は、96歳一人暮らしのクラウセン夫人を訪ねたときのものです。右端が訪問ナースです。
夫人が胸に下げた箱を不思議に思った私が、「それは?」と尋ねると、「この箱のボタンを押すと助けがとんできてくれるの。先週も…」。
その数分後屈強な2人の大男が飛び込んできて「どうしました!」

私に説明しているうちにうっかりボタンを押してしまったらしいのです。
原因をつくった私はハラハラして首をすくめました。ところが大男は大笑いして、心から安心した表情です。そこにホームヘルパーがやってきて、ことの顛末をきいて笑い転げました。彼女は、夫人と愛猫の昼食の用意をするために、ちょうど訪ねてきたのでした。

◆スウェーデンもデンマークに学んでエーデル改革◆

デンマークは、日本と違って、社会的入院を招く老人病院や療養型病床のようなものをつくりませんでした。
一方、国土が広く山も多いスウェーデンでは、日本よりははるかに居心地はよいのですが、長期介護病棟という病院の一種をつくりました。
それが92年のエーデル改革で大きく変わりました。
カナメは、訪問ナースです。写真は、その様子を克明に記録した藤原瑠美さんの本『ニルスの国の高齢者ケア〜エーデル改革から15年後のスウェーデン』(ドメス出版)から転載させていただいたものです。
どちらも癌末期のお年寄り。しかもひとり暮らしです。日本ではむずかしいと思われている独り暮らしの自宅でのターミナルケアが可能になっているのは、訪問ナースとホームヘルパーの絶妙な連携でした。行数が尽きてしまったので、スウェーデンでの訪問ナースの活躍ぶりは、藤原さんの著書を。

ところで、2人のナースは、2007年に再び大胆な行動に出ました。摩耶さんは参議院選、和加子さんは東京の足立区長選に打って出たのです。
そして仲良く、2人とも落選。
それでも、まったくめげていないところも、そっくりです。
摩耶さんは、こんどは、衆院選に挑戦です。

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