優しき挑戦者(国内篇)
(69)隠さない・逃げない・誤魔化さない〜嘘をつかない医療を貫いた院長の死

真のボランティアは、自分がボランティアだと気づかない−−『恋するようにボランティアを 〜優しき挑戦者たち〜』(ぶどう社)のためにつくった「5つの法則」の1つです。
やむにやまれぬ思いから困難な道を切り開く「真のボランティア」は、自分がボランティア精神の塊だとは思っていないことを"発見"して、つくった法則です。
そのお1人、清水陽一さんが2011年6月19日夜、亡くなりました。
訃報に次々とメールが届きました。

「代替がない、かけがえがないという意味で日本の医療界は、本当に貴重な人材を失くしました。悲しいです」(熊本大学准教授・粂和彦さん)

「医療の良心のともしびの一つが消えたような思い……。衝撃です」(元日経新聞編集委員・尾崎雄さん)

「当たり前のことを当たり前にできない医療業界。それを、当たり前にやり抜くという信念。あの笑顔とは裏腹に、厳しく、辛いことも多くあったことと推察します。心から尊敬していました」(二分脊椎症当事者の会・鈴木信行さん)

写真は、亡くなる1カ月前の「あの笑顔」。
アドバイスを求めて訪ねた内野直樹院長を励まそうと「勝つサンド」(写真手前)を用意して迎えた病室の清水さんです。

◆危険を省みず医療事故の証人に◆

ボランティアには、「困っている人のために余暇を投げ出す優しい人」というイメージがあります。
でも、それとは肌合いの違う、自らを危険にさらす2つのタイプのボランティアがあるように思います。
1つは、ノーマライゼーションの父、デンマークのN.E.バンクミケルセンが学生時代に身を投じたナチへのレジスタンス運動のような、文字通り、生命を失うかもしれないものです。

もう1つは、「社会的な生命」を危険に晒すもの。
自身の属している社会の嘆かわしい文化や風土を変えようとするボランティアはこの危険に見舞われます。清水さんは、このタイプの人でした。
それは、医学生の時代に始まりました。
産科で起きた医療事故を知って、「経験の浅い研修医をひとり当直させていたことが事故を招いた」「連絡体制が悪いために助かる命を救えなかった」「都会の大学病院として許しがたい」と、自らが学んでいる大学の付属病院を遺族とともに告発したのです。

卒業後の職場にも教授の意向が強く反映する、封建制が残っている医学界では、前代未聞の行動でした。弁護士を頼むことも知らず負けてしまいましたが、これが後の人生の原点になりました。
75年に東京医大を卒業した清水さんは、循環器内科の分野で頭角を著し、名医とうたわれるようになりました。
にもかかわらず、というか、それゆえにか、再び医療界の掟を破ります。理不尽な医療事故にあった遺族は、その原因が知りたくて訴訟を起こすことがあります。
けれど遺族の側に立ち、危険を犯して真実を述べてくれる医師はめったにいません。一方、病院・医院からの依頼には、高名な教授、高名な専門医が、医療側に有利な意見書を書いてくれます。
清水さんは、しばしば患者側証人になりました。勉強家の清水さんが味方についた裁判は、患者側の連戦連勝でした。

◆事故遺族を職員に、講師に◆

いくつかの病院の循環器科部長をへて、新葛飾病院の院長に迎えられたのは98年のことでした。「男はつらいよ」で知られる東京の下町のこの病院は、シンカツ病院ならぬ、「シニカツ病院」というあだ名で呼ばれる評判の悪い老人病院でした。
「あそこに入ったら、生きて出られない」という意味です。

手術室さえないこの病院を清水さんは、日本有数の心臓病治療に強い病院に育て上げました。同時に、「嘘をつかない医療」を改革のシンボルに掲げました。
「隠さない・逃げない・ごまかさない」「うその上塗りは必ず剥がれる」と、ミスがおきたときにはご本人や家族に包み隠さず話しました。
同時に、「医療ミスを起こした当事者を孤立させない」という姿勢も貫きました。こうした院長の姿勢に感動して、ミスを防ぐための様々な工夫が現場から提案されてゆきました。

他の病院の医療事故でわが子を失った豊田郁子さんを、セイフティマネジャーに招く、という前代未聞の人事もやってのけました。
「僕も医師。患者さんの立場を忘れるかもしれない。だから、豊田さんに見張ってもらっている」。
こんな清水さんを信頼した遺族が、「医療事故から学ぶ院内シンポジウム」に講師として登壇してくれるようになりました。
「架け橋〜患者・家族との信頼関係をつなぐ対話研究会」「医療の良心を守る市民の会」の副代表に就任。
「副代表なら引き受ける」というのが、清水さんらしいところです。

◆死を前にしても、学び続けて。。◆

病院経営を軌道に乗せた08年、清水さんを癌が襲いました。
再発を繰り返す中で、清水さんは、痛みを和らげる医療、住みなれた自宅で最期を迎えようとしている人を支える医療に取り組みました。
そんな清水さんを、私の仕事場、国際医療福祉大学大学院の公開講義「現場に学ぶ医療福祉倫理」の講師にお招きしました。
驚いたのは、その後、自身も聴講生になってしまったことでした。抗ガン剤を体に注入する小型ボンプを身につけながらの登校です。夜9時に授業が終わったあとの恒例、「課外授業」にも加わりました。

いまも忘れられないのは、涙だらけで聴いていた院生、聴講生をまるで励ますように、授業の締めくくりに映しだされたこのスライドです。

大阪ボランティア協会の機関誌『Volo(ウォロ)』2011年7・8月号)

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